(以下本文)

1998年10月9日第三種郵便物認可(毎月3回8の日発行)2022年9月27日発行 SSKU 増刊通巻第7424号

SSKU
特定非営利活動法人 タートル 情報誌

情報誌タートル 第60号

表紙の説明

カメのイラストがあります。

目次

巻頭言 『ご挨拶』 理事 伊藤 裕美
認定NPO法人タートル2022年通常総会記念講演会 『学ぶ喜び 働く生きがいを求めて』 藤野 高明氏
職場で頑張っています! 『そして、今。』 藤川 敬氏
「第五回ロービジョン・ブラインド川柳コンクール」作品募集のお知らせ
お知らせコーナー
編集後記
奥付

巻頭言

『ご挨拶』

理事 伊藤 裕美(いとう ひろみ)

このたび、タートルICTサポートプロジェクトを立ち上げたご縁で理事を拝命いたしました伊藤裕美です。これからどうぞよろしくお願いいたします。
2020年に視覚に障害があっても当たり前に働けるICT環境を目指して、タートルICTサポートプロジェクトが始動しました。これまで、奇数月の第1日曜日に行っているICTサロンでは、さまざまなパネリストにご登壇いただき、ロービジョンのICTの工夫、スクリーンリーダーの特徴、ジョブコーチの現場でのお話や、実際に利用した方の体験などのテーマについてお話しいただきました。また、ICTグループメールやミニICTサロンでは、知識豊富な皆さんのアドバイスにより、疑問や問題点を解決する場となっています。そして、ICTポータルサイトは、外向けの情報発信ツールとして、ICTを工夫している方々のインタビュー記事など、少しずつ内容を充実させています。
タートルICTサポートプロジェクトは今後も様々な人や団体とのつながりを重視し、さらに活動の幅を広げようとしています。ICTの視点から、タートルの活動に貢献できればと考えております。今後のご指導とご鞭撻のほど、どうぞよろしくお願い申し上げます。

認定NPO法人タートル2022年通常総会記念講演会

『学ぶ喜び 働く生きがいを求めて』

講師:藤野 高明 (ふじの たかあき)氏
(元 大阪市立盲学校教諭)

皆さん、こんにちは。今ご紹介いただきました藤野 高明です。Zoomによるお話はあまり慣れていないというか、感覚的には苦手なのですが、今日はZoomで聞いている方も全国にかなりいらっしゃるということで、私は今マイクに向かっています。具体的に困ることがあれば、スタッフの方に手伝ってもらいますが、できるだけレジュメに沿ってお話をしていきたいと思います。ただ、限られた時間ですから、先ほどからレジュメをずっと眺めていました。最後の方の項目になりますが、去年、第58回 点字毎日文化賞をいただきました。先にその話からさせてもらうのが、一番入りやすいかと思いますので、そこから始めさせてください。

〈点字毎日文化賞を受賞して〉

今年になって代わられましたが、去年の秋に点字毎日の編集長の遠藤さんから、お電話をいただきました。「第58回 点字毎日文化賞の受賞が藤野さんに決まりました。受けていただけますか」という大変丁寧なご挨拶の電話でした。私は、即座に「ありがとうございます。もちろん喜んでお受けいたします」と申しました。
というのは、点字毎日は今年でちょうど100年なのです。100年というのは大変切りの良い数字で、政党で言うと日本共産党、大衆運動で言うと水平社が部落解放運動の開始から100年になります。点字毎日も100年ですから、その前年に「第58回 点字毎日文化賞」をいただけるのは嬉しいなと思いました。
この賞は、私が敬愛する先輩も何人か受賞されていますし、日頃お付き合いのある友人・知人にも受賞者がいますから、私も心のどこかに憧れのようなものを感じていました。そういう賞ですから、非常に嬉しかったのです。ただ、東京での授賞式が行えないということで、東淀川区にある我が家に編集長と編集次長が二人で来てくれました。編集次長の濱井さんは今年編集長になりましたが、去年までは編集次長をされていました。
そして、驚いたのは私の顔が彫刻されているというのでしょうか。触るとわかるのですが、そういう彫刻の付いた記念盾は大変重かったですね。両手で抱えると、落としそうになるくらいの重さを感じました。4キロはあるでしょうか。「私の顔がわかる」というので触ってみましたが、あまり実感はありませんでした。大体、自分の顔を触るというのは、あまり楽しいものではありませんが、重い物をいただきました。
そして、時計に加えて、何と30万円の目録もありました。書くのを忘れていましたが、30万円の目録もいただきました。本当に嬉しかったのですが、一番嬉しかったのはお金ではありませんでした。もちろんお金も嬉しかったのですが、私が一番感激したのは、表彰状の文言でした。詳しいところまでは覚えていませんが、二つのことが具体的に書いてありました。普通の一般的な表現ではなくて「二重の障害を負いながら」ということで、そこには二つのことが書いてありました。
その一つは「一生懸命に働きましたね」と、「社会科の教員として学校で働きましたね」ということでした。社会科の教員でしたから、社会の仕組みといったものを、そしてどんなに障害があっても胸を張って生きていくことを、生徒たちによく伝えてくれたということで、「学校の先生として、しっかりやりましたね」と褒めてくれました。
そして、もう一つは私の障害に関することでした。視力を失い、両手を失った原点である戦争について、「本当によく考えて、平和を求めて、障害者運動に力を尽くしてきましたね」ということでした。この二つの内容をきちんと具体的に書いてくれたのです。
学校の先生になったことは私の生きがいですし、全視協の会長も含めて障害者運動で皆さんと一緒に歩かせてもらったことも、きちんと評価をしてくれました。ですから「さすが点字毎日やなぁ」と思いました。「よく頑張りましたね」だけではなくて、具体的にきちんと二つのことが書かれていたことに、私は大変感動をいたしました。レジュメでは最後の方になりますが、これを最初に言いたいと思いました。

〈簡単な自己紹介〉

先ほどご紹介いただきましたが、私は1938年(昭和13年)12月に生まれましたから、今年は当たり年になります。今年は寅年なので、「我も寅、ベートーベンもマルクスも」という下手な川柳を「点字民報」1月号に書きました。芸術家としては、やはりベートーベンは大好きですし、私の哲学上の師と言えば、次元が違うので「先生」と仰ぐような存在ではありませんが、マルクスだと思っています。「ヨーロッパにはそんなもの無いやろ」というような、無粋なことは言わないでくださいね。ベートーベンもマルクスも寅年になります。そして、私は今83歳です。
私が生まれ育ったのは、九州の福岡市の中央区です。高宮小学校という学校に行っていました。当時は、小学校と言わずに国民学校と言いましたが、そこに通っていました。福岡で生まれ育ち、盲学校は隣にあったのですが、20歳になるまで盲学校には行けませんでした。大阪市立盲学校は、今は大阪府立 大阪北視覚支援学校という名前になっています。長年、大阪市立盲学校なので「大阪市盲」と私たちは言っていました。そこに満20歳から25歳までの5年間、中学2年生から普通科の3年生まで、大阪市立盲学校の生徒としてお世話になりました。
そして、1972年から2002年の30年間は教職員としてお世話になりました。ですから、35年間は生徒として教職員として大阪市立盲学校でお世話になり、2010年から同窓会長もさせてもらいました。今年の9月からは新しい人に同窓会長を譲ることになっていますが、そういう形で仕事をしてきました。
趣味はいっぱいありますが、将棋を指すことが大好きです。将棋のルールを知らなくても、藤井聡太の将棋を見ているだけでも楽しいです。棋譜を知らなくても、棋譜をわざわざ見なくても「すごいな」と思いますし、やっぱりこういうのを「観る将」と言うのでしょうが、私ももう「観る将で十分や」と思いますし、ルールを知らなくても面白いのです。
将棋を指すのは大好きですが、将棋には勝ち負けがあります。勝ったら嬉しいですが、負けるとドッと疲れが出ます。それでも、1か月に1回は大阪の早川福祉会館というところで障害者の将棋クラブをやっています。是非、お近くの方は第1金曜日に大阪・早川福祉会館の4階をのぞいてみてください。
それから、音楽を聴くことも好きです。また、野球も好きですが、野球にも勝ち負けがあります。勝った日は嬉しいですが、負けた日はもう見る気もなくなるような厄介な趣味です。昨日は、私のひいき球団の西武ライオンズが4対2で何とか勝ちましたが、薄氷を踏む思いでした。4対2でしたが、8回の表ワンアウト満塁で吉田 正尚(ヨシダ マサタカ)が出てきました。野球を知っている人ならご存じだと思いますか、吉田 正尚という日本を代表するものすごいスラッガーが、ワンアウト満塁で出てきたのです。西武はピッチャーを代え、平良というピッチャーが出てきて、サードファールフライに打ち取って2アウト満塁とし、次の4番 杉本を三振に討ち取りました。ホッとしましたが、本当に薄氷を踏む思いで野球を聞くこともあります。
次の項目になりますが、スタッフの皆さん、困りごととはこのことなのです。私は点字を指で読めなくて唇で読むのですが、そのためマイクにぶつかってしまうのです。唇で読むというのは厄介なものです。途中ですみませんでしたが、聞こえにくかったら言ってください。学校の先生をしている時から、生徒に「先生、やかましい」と言われるぐらい声は大きいのですから。

〈二つの戦時体験〉

私たちの世代でも、もしかしたら83歳を超した人は、この会場にいないかもしれません。ですから、私が一番上なのかもしれません。全国にはいらっしゃるかもしれませんが、83歳という年齢は、皆さん、一つの節目の年齢なのです。
つまり、小学校1年生の時には戦前の教育を受けたわけです。「二つの戦時体験」と書きましたが、83歳という年齢は一つの節目の年齢で、ちょうど小学校1年生の時が、1945年(昭和20年)の4月になります。ですから、私たちの世代が、最後のいわゆる戦中教育を受けたわけです。どんな教育を受けたかというと、小学校1年生に対して先生は二つのことを教えてくれました。
その一つは、「天皇陛下は神様だ」ということです。天皇陛下というのは昭和天皇ですから、今の天皇のお父さんのお父さんです。昭和天皇は1900年頃の生まれだと思いますから、20世紀と共に年齢を重ねた天皇です。私が小学校1年生の時には45歳です。言ってみれば働き盛りなのでしょう。その天皇が勲章のいっぱい付いた軍服を着て、白い馬に乗って凛々しく歩かれている姿は、本当に写真で見ても、先生が「この人、神様や」と言えば、それをそのまま信じられるようなものでした。
先生が教えてくれたもう一つの戦争についての話です。当時、私たちの国は、第二次世界大戦を戦っていました。これは歴史で私たちがよく知っていることで、アジア・太平洋戦争という名前もついています。大きく言うと、第二次世界大戦では日本がドイツとともに、1943年以降イタリアは途中で負けて戦争には参加しませんでしたから、ドイツと日本が、しっかり侵略戦争を戦っていたわけです。
この戦争に対して、学校の先生は「いい戦争だ」と言いました。素晴らしい戦争といったロマンチックな言い方はしませんでしたが、今戦っている戦争は、「いい戦争ですよ」と。なぜかと言うと「アジアの人たちを助けるために、日本が立ち上がったんや」と。そして、「アメリカとかイギリスとか、悪い悪い国がおるから、これをやっつけるんや。その戦争をしているんや」と。そして、天皇は神様です。「神様の国やから日本は負けるはずがない」「必ず勝つ」「必ず勝つ」と言われたのです。これが、戦時教育の中心です。教えることの中心でした。もちろん、算数も文字も教えましたが、日本の初等教育で先生が子どもに一番に教えたのはこのことでした。そういう戦時体験を持っています。
そして、もう一つの戦時体験は、空襲体験になります。1944年頃から都市爆撃が激しくなりました。日本の軍隊は制空権をなくしていましたから、アメリカ軍の飛行機が好き放題に飛んで来て、あちこちの都市に好き放題に空から爆弾を落とします。空から爆弾を落としますから、落とす方は本当に強いですし、落とされる方は弱いわけです。
1945年6月19日ですが、私が小学校1年生の時に福岡も大空襲に遭いました。佐賀県と福岡県の間に1,000メートルほどの脊振(せふり)という山がありますが、そこを越えてアメリカのB29という大型の爆撃機が、ここに239機と書いてありますが、それが飛んで来て福岡市を猛爆撃したのです。夜の11時頃から約2時間の間、人がちょうど眠りにつく頃になります。怖かったですよ。このことに長い時間は取れませんからここでやめますが、とにかく空から爆弾が降ってくるというのは、本当に怖いことです。私には、そういう生々しい戦時体験がありました。戦争の話はもう少ししたいのですが、もう時間がありません。後ほど時間があれば少しお話をしたいと思います。

〈よみがえる平和と民主主義〉

戦争が終わったのは、1945年8月15日です。戦争はもうそれ以前に、14日には終わっているはずですが、私たちがそのことを天皇の玉音放送によって知らされたのは、8月15日でした。私はちょうど夏休みで、子どもでしたから親戚のいる佐賀県の多久というところに疎開していたのですが、戦争が終わって本当にホッとしました。ホッとしたというのは、もう爆弾が落ちてこないからです。
そして、夏休みが終わって学校に行くと、1学期まで使っていた教科書なのに、「これは使ったらいかん」と言うのです。さらに、何度も「ここは墨で消しなさい」と言われます。皆さんたちにはそういう体験がないでしょうから、実感はわかないですよね。教科書のいろいろなところを墨で塗るのです。楠木正成とか、知っていますか。すごくいい人だと言っていたのに、この人は悪い人だということで墨を塗ったのです。だから、価値観が逆転したのです。
そういうこともありましたが、学校の先生が優しくなったということは感じました。それまで体罰は普通でした。その後も差別はありましたが、朝鮮の人に対する差別や中国の人に対する差別も以前はあからさまにありましたから、そういうものが少しは無くなったのかと思いました。ですから、戦争が終わって本当にホッとしました。
私がそれを一番身内で感じたのは、身内というのは私の母の姉の旦那さんになりますが、靴工場で働いている時に機械に手を巻き込まれて、右手だったか左手だったか失った伯父さんがいました。ウエダという名前でした。ウエダという名前があるのに、誰も「ウエダ」とは呼ばないのです。どう呼んでいたかと言うと、「手棒」と呼んでいました。私は子どもなのでわかりませんでしたが、片手が棒のようだから手棒と言っていたみたいでした。
伯父さんは、自分の手を見せたくないから、手の無い方の手をいつもポケットに入れていました。ズボンのポケットや服のポケットに手を入れて隠していましたから、いつも背骨が前屈みになるのです。前屈みの姿勢というのはあまり格好が良くないですよね。「何かさみしそうやな」「かわいそうやな」というように、子どもの目にも見えていました。要するに、肩身の狭い思いをしていたのだと思います。
当時、障害者という言葉はありませんでした。今日は勉強会ですから、言葉には不必要な配慮はせずに話しますが、目の見えない人を視覚障害者と言いますね。最近はロービジョンとも言いますが、目の悪い人は「盲人」と言いました。盲人と言う前は「めくら」と言っていました。私が小さい時は盲学校がすぐ近くにありましたから、さすがに「めくら」とは言いませんでしたが、盲学校とは言っていました。皆も「めくらさん」とは言っていましたね。「さん」をつけたら、少しは緩和されるということでしょうか。
ですから、障害者とか視覚障害者という言葉ができた時には、私は本当に良かったと思いました。「めくら」と言われなくて済むし、視覚障害者とか盲人と言われる方が、まだ気が楽ですから。大体、障害者などという言葉も普通は使いませんでした。どうしていたかというと、「不具者」とか「かたわもの」という言葉が堂々と大手を振って歩いていた時代でした。
だから、ウエダさんという手の無い伯父さんが、どんなに肩身の狭い思いをしていたのか、よくわかりました。戦争が終わった後、靴工場に労働組合ができて時々ストライキをしたり、デモをしたりしていました。おじさんが手のある方でプラカードを掲げて、ニコニコしながら歩いているのを見ていました。子どもはデモとか好きですから、「あっ、デモや」「行列や」「お祭りや」と言ってついて歩くと、その中にウエダの伯父さんがいて、ある方の手を私に振っているのです。私は高明ですから、「高ちゃん、一緒に歩こう」と言ってくれました。家が近所でしたから、途中の橋まで一緒に歩こうと思って歩きました。そのおじさんが元気になったのを見て、「戦争が終わって良かったな」と子ども心に思いました。

〈不発弾の暴発が不幸の始まり〉

ここでは大丈夫だと思いますが、この「不幸の始まり」という言葉のフレーズには、時々クレームをつけられたことがあります。私は意に介さずにこのフレーズはよく使いますが、「不発弾の暴発が不幸の始まり」というのは、私の負の原点なのです。負けの原点なのです。でも、「考え方によれば、目が見えなくなって手が無くなるのは、不幸ではないでしょう」「不幸なことと言ってしまったら、身もふたもないじゃないですか」と言う人もいました。誰がどう言っても、私は「そんなものやっぱり不幸やで」とずっと心の中で思ってきました。
また、ある人はこう言いました。「目が見えなくなって、手の無くなったあなたが元気で生きている姿を見て、どれだけの人が励まされるでしょう」と。でも、若者になってからですが「オレは人を励ますために生きているわけではないよ」と、心の中でそう思いました。それよりも「何とかしてくれよ」と思いました。「何とかしてくれよ」というのは、「目が見えるようになりたいな」「学校に行きたいな」「勉強をしたいな」ということでした。
私が「勉強をしたい」「学校に行きたい」と言ったら、あるお年寄りの男性は、「藤野さん、あなたのように目が見えない、両手も無いような人は、そんなに無理をして点字とか文字を覚えたり、そんなことを苦労せんでいいやろ」と言いました。そうではなくて、本当は国がお金をいっぱい出して、要するに国が衣食住をきちんと保障するような時代が来れば、そういう社会になれは、あなたたちもゆっくり暮らせるだろうと。
弟は亡くなったけれど、お兄ちゃんは生き残ったわけですから、「目が見えんでも楽しいことがあるやろうし、美味しいものは美味しいし、ゆっくり生きたらええんで。勉強をしようとか、働きたいとか、そんなん思わんでええ」と言われたのです。最初、私は子どもでしたから、「優しいおじちゃんやな」と思いました。「そういうことがあるんかな」と。でも、落ちないのです。どこに落ちないのかというと、腹に落ちないのです。「そうやな」とか、「そうしたいな」という気持ちは、なぜか全然出てこないのです。
結局、見えないことはやっぱり不幸なことですし、手の無いことは不幸なことです。でも、不幸だからずっと不幸ばかりで生きていられるかというと、そんなことはありません。私がよく中途視覚障害の生徒さんに言ったのは、「目が見えることだけが100%ちゃうからな。人間、人生っていろいろあるしな」ということです。
でも、そんなことを言ったら、怒られたことがありました。「先生は、そこまでよう悟ったな」と、「オレら、よう悟らんわ」と言われたこともありました。ごまかしはしませんでしたが、「まあ、時間はかかるで」と言って妥協はしました。「そうやろな」と思いました。中途視覚障害になって、生活を抱え込んで、仕事をどうするか悩んで、家庭が崩壊するかもしれないという時に「目が見えるのが100%ちゃうからな」と藤野から言われても、きっと「腹立つやろな」と私は思いました。
私がケガをしたのは、戦後、未処理で残された旧日本軍の爆発物が原因でした。それが、民間人の手を通って、学校近くの川の岸辺に捨ててあったのです。単4くらいの大きさの爆弾でした。乾電池の単4くらいのものがたくさん捨ててあったのです。それを近所の子どもたちと拾ってきて、弟と一緒に遊んでいました。片一方は穴が開いていますが、もう一方はふさがって下の方に何かが詰まっているようでした。トントン叩いてみると、砂粒のようなものが落ちてきます。落ちるから「綺麗になったなぁ」と、朝ご飯を食べた後に弟と2人で、玄関のところで繰り返し綺麗にしていました。
でも、なかなかすぐには砂粒が落ちてこないので、穴が開いている一方に釘を差し込んで、中身をかき出そうとしたのです。要するにそれが不幸の始まりです。それで爆発が起こったのです。本当に大きな爆発だったようです。床が落ちて、天井板が吹きはがされて、タンスの裏ぶたがほとんど外れていたといいます。また、引き出しがガーっと前に出ていたと言われましたから、風圧がすごかったのでしょう。私はその時に視力をなくし、両手を失いました。弟は5歳でしたが即死でした。
弟の即死を知らされたのは、私が半月くらいの入院生活を終えてからです。7月18日にケガをしたので、8月13日のお盆が初盆だったと思います。私の弟は正明(マサアキ)と言いますが、正明が即死だったことを母親から告げられました。告げられる方は、ただびっくりしましたが、告げる方はどんなに苦しかったことでしょう。そういうことがありました。

〈学校に行けなかった13年間〉

7歳の子どもが学校に行けずに13年経つと、いくつになりますか。20歳になりますね。人生80年とか100年とか言いますが、100年の方がいいですね。皆さん、この7歳から20歳までの13年ですが、人間の一生のうちどこか13年を無作為に切り取ったとすると、7歳から20歳は一番大事な時期だと思いませんか。もちろん、30歳から43歳も働き盛りですから大事ですが。
しかし、身体が子どもから大人に成長し、心や魂が肥えて太っていく時は、言ってみたらどうにでもなるし、どちらにもなる時期なのです。本当に、人類が作り出した最善のものをきちんと子どもたちに保障して、教育を保障し、子どもたちを立派に育てたら、その社会は良くなるはずなのです。
逆に、子どもたちを虐待したり、いじめたり、貧困状態の中に放置することが、どれだけその国の将来を危うくするのかわかると思いますが、私の場合も7歳から20歳まで、私は在宅に捨て置かれたと思っています。なぜなら、隣が盲学校だったからです。しかも、福岡県立盲学校です。県費で、県のお金で建てて県のお金で運営している公立の盲学校が、隣の高宮小学校の在校生で目が見えなくなった子どもを、手が無いからといって放っておきますか。私が盲学校の先生なら放っておきませんよ。「藤野さんはそう言うけど、時代がそうしたのだろう」と言う人には、「時代のせいにするな」と言いたいですね。
これは、やはり当時の先生のせいだと思います。なぜなら、当時の先生たちは、盲教育の先端を担っていたわけですから。そういう先生たちが、「隣の高宮小学校で、子どもが全盲になり手も無くなっている」「手が無いから点字が読めないな。按摩、マッサージも鍼灸もできへんな。うちの学校でもどうしようもないな」と、そこで話は終わっていたと思います。私は盲学校の教員をしてきましたが、遥かなる先輩たちに対しても「先生たち、間違ってたやろ」と、「時代のせいにせんとってほしいな」と思い続けてきました。

〈視力の回復が僕の夢でした〉

そんな形でケガをしましたが、右の目はもう最初からダメでした。ただ、左の目は「何とかなりそうやな」とお医者さんが言ってくれて、0.06ぐらいまでは回復しました。0.06といったらかなりの視力でしょう。
でも、それまでは晴眼者でよく見えていました。小学校の何年生でしたか、確か1年生の時の通知簿を見ると、一方が2.0でもう一方が1.5でしたから、よく見える目でした。それに比べると、0.06という視力はいかにも見えないわけですが、それでも「見えてきたな」と思っていました。
眼科で良いお医者さんがいると聞けばそこに行きましたし、最初の頃はずいぶんと宗教にも行きました。「あそこの神様にお参りしたら目が見えるようになる」と聞くと、母親は冬の寒い中でもお百度参りをしてくれました。私の父親は割と理性的な人でしたから、そういう宗教には心を奪われていなかったようですが、母親は隠れてお百度参りをしていました。目が見えるようになることに、それくらい熱心に努力をしていました。
すると、ある時、母親が「高ちゃん、何か好きなものを食べるのを断って願をかけたら、見えるようになる」と言ってきました。お風呂に入っている時に、そんなことを言いながら「高ちゃん、何が好いとうね?」と聞くのです。好きなものと言われましたが、こんにゃくとかシイタケとか食べたくないものを答えると、「それは、好かんけんやろ」と言います。「これやったら好いとうというものをお願いして、これを食べないから目が見えるようにしてくださいと願えば、見えるようになるらしい」と言うのです。それなら何か好きなものと思い、「そうやねぇ」と言いながら、好きな大根おろしにしました。そんなことも覚えています。
そんなこともしましたが、見えるようになるのは…。それに、もう学校にも行っていないわけです。それなのに、近所の子どもたちは6年生、中学生となっていきます。「あの人、高校に行ったげな」ということになると、私はずっと…。そして、大人は「何年生?」と、よく聞きますよね。知らない人は。私はウソをつけませんから、「小学2年生の時にケガをして、そこから行ってないんです」と言うと、「そうか」と言って、同情はされます。同情はされますが、そういうことで学校には行けませんでしたから、本当につらかったですね。だから、目が見えることだけが夢だったのです。そこにすがっていたのです。
そして、福岡・南区の野多目にある国立筑紫病院というところに、眼科のニシダ マサオという先生がいて、口コミで「あの先生にかかったら、大体見えるようになるらしいよ」と聞き、15歳になるとそこに行って入院しました。その先生もいい先生で、本当に一生懸命に診てくれて、大きな手術を5回と、小さな手術を7回、計12回も手術をしてくれました。
でも、18歳の頃には徐々に見えなくなり、自分はもうどうなるのかと思っていました。先生からは、「最善を尽くした」と言われたでしょうか。とにかく、そういう意味のことを言われました。「一生懸命にやったけど、手術もあなたも知っているように何回もしたけど、どうしても見えるようにならなくて申し訳なかったですね」と言われました。
それからですよ、私も。要するに目標がなくなったわけです。勉強をしようと思っても、勉強はできないでしょう。文字も知らないし、学校にも行っていません。私は今でも思いますが、目が見えない重度の障害者というのは、本当にぐれることさえできないのです。不良になったり非行に走ったりするのも、なかなか面倒なことですし、難しいわけです。夜の街を一人でほっつき歩いたり、カッコいい女の子をナンパしたりすることも全くできません。「目の見えない、手の無い人が何言うてんねん」というようなものでしょう。
そして、本当にもう鬱屈したというか、にっちもさっちも行かなくなって、心の置き場所がなくなっていくのです。そして、何を考えるかというと、大体死ぬことを考えるわけです。でも、なぜ死ななかったのかというと、私が15歳の時に、私の父親は42歳でがんで亡くなったのです。そうして、母親が5人の子どもを育てながら、私たちを育てながら、一人で働いていたのです。母子家庭でね。
その母親のことを思うと、「私が死んだら母親はどうなるやろ」と思うと、死ねませんでした。本当に死ななくて良かったのですが、危うかったですよ。今考えると、何か足を踏み外せば二度と這い上がることのできない危険な淵をね。何というのでしょうか、おぼつかない足どりで歩いたこともあったと回想しますが、これは本当のことです。
では、死ねなかったらどうなるか、ぐれることもできなければどうなるかというと、荒れるのです。自分の心の中でね。そして、言葉遣いがすごく乱暴になります。人によく突っかかって、何か言われたら、それに因縁をつけて怒るわけです。そういう時期がありました。そういう話をするのは恥ずかしいですから、あまり話もしないし、書きもしませんでしたが。
私が一番恥ずかしいと思うのは、私が眼科病棟の6号室にいた時のことです。隣が5号室で、まだ3歳か4歳くらいの小さな女の子が目の手術で入院していました。少し見えていたようでしたが、壁を伝って歩いていましたから十分には見えなかったのでしょう。シズエちゃんと言いましたが、カタカタ鳴る履物で歩いていたので、シズエちゃんが歩くとよくわかりました。カタカタカタカタと歩きますから。小さいのに、目が悪いから手術もよく頑張っていたことでしょう。
その子から「藤野の兄ちゃん、手が無かと」と言われ、私はものすごく腹が立ったのです。隣にいる女の患者さんたちが、17、18歳の少年にとってはオバちゃんになりますが、そのオバちゃんたちが、オレのことを教えたのだなと。シズエちゃんはオレが手の無いことを知っているはずはないですから、「オレが手無しやっていうことを、誰が教えたんや」と言って怒ったのです。私はシズエちゃんを叩いたりするほど、そこまで堕落はしていませんよ。それで、シズエちゃんを抱っこして「俺が手無しやいうことを誰が教えたんや」と言って、その部屋に怒鳴り込んでいったのです。
すると、私の剣幕に驚いて、怖いからシズエちゃんは泣くわけです。シズエちゃんは泣くし、オバちゃんたちはもうびっくりして「藤野さん、何をそんなに怒らなあかんの」と言います。自分たちは「藤野のお兄ちゃんは手が無いのに、ご飯も自分で食べているよと教えたのに、何でそぎゃん怒らないかんと」と言うので、「そんなん、シズエちゃんに教えてどげんなるとや」と言って、もう売り言葉です。買い言葉と言っても、誰も買いませんからね。私が勝手に売っているのですが、あれは考えても恥ずかしいですね。
そうしたら、看護婦さんが飛んできて、「藤野さん、なに言うとね。何でそんなに怒らないかんと」と言います。怒られて、私もその時は理性を失っていますから、泣くわけです。私も割と泣くのです。私が泣くのは、小さい時にそれを教えた母親が悪いのです。「高ちゃんね、しんどいことやら、悲しいことやら、悔しいことがあったら、我慢せんでいいから、泣く時はいっぱい泣きなさいよ」と言ったのです。だから、私は「泣きたい時には、泣かないかん」と思っていました。そんなことはいちいち思い出しませんけどね。
すると、看護婦さんたちも、さすがにこれは自分たちの手に負えないと思ったのでしょう。今度は、主治医のニシダ先生の出番です。目の手術のために出るのではなくて、藤野の気持ちを収めなければいけないと思って。でも、40代の立派な大人から説諭をされてごらんなさい。17、18歳の若者にとってはどれだけこたえるのか。その人を尊敬していただけに、恥ずかしさもありました。
先生から、眼科医として自分の力が及ばなかったということと、「藤野さんな、お母さんがどれだけあんたのこと思って働いているのか考えてごらん」と言われました。それで、私は「やっぱり真面目にならないかんな」と思いました。真面目にならなければいけないと。その頃に、病院で知り合った看護学生の熊本敏子さんという方がいて、私よりも3つ年上でしたが、彼女がよく部屋に来てくれました。この人は高校を出てからデパートで働いていたのですが、もう少し違う仕事をしたいと思って、看護学校に1年遅れて入ってきた人です。「私もまわり道をしてるんよ」などと、そんな話をしていました。
この人が「私が、藤野さんに何かできることあるかな」と言うので、「本を読んでほしい」と言ったら、彼女が読んでくれたのが『いのちの初夜』でした。これは北條民雄の『いのちの初夜』です。私は『いのちの初夜』に助けられたと思っています。本が人の人生を変えるのです。私は、皆さんたちにもどこかで機会があれば読んでほしいと思います。
北條民雄は、1914年に生まれ、37年に23歳で死んでいます。ハンセン病の患者です。すごく文学的な才能があった人で、川端康成に認められました。川端康成は当時の社会的な風潮の中でさえも北條民雄を助けようとして、一生懸命に指導を買って出た人になります。私が点字を読もうと思ったのは、この小説からハンセン病のことを知ったからです。
ハンセン病では点字を唇で読むと思っていましたが、ハンセン病の人たちは唇ではなく、本当は舌で点字を読むのだそうです。これは、日本点字図書館の館長になられた立花(たちばな)先生から、つい2、3年前に教えてもらったことです。「藤野さんは、ハンセン病の患者は唇で点字を読むと思っているかもしれないけど、基本的には舌先なんですよ」というふうに、立花先生から教えてもらいました。
私は唇で点字を読むことを覚えましたが、皆さん、唇で点字を読むのはいろいろな不都合があります。先ほども、頭からフェイスシールドをかぶってマイクを使っていたのですが、点字とぶつかるので代えてもらいました。このように、スタッフの人も私も、思いもつかなかったようなことが障害になります。では、点字を読んでみます。これくらいの速さで読めるのです。これは、『いのちの初夜』の冒頭です。名作は冒頭にインパクトがありますからね。こういうふうな書き出しをしています。

駅を出て二十分ほども雑木林の中を歩くともう病院の生垣(いけがき)が見え始めるが、それでもその間には谷のように低まった処や、小高い山のだらだら坂などがあって人家らしいものは一軒も見当たらなかった。東京からわずか二十マイルそこそこの処であるが、奥山へはいったような静けさと、人里離れた気配があった。
梅雨期にはいるちょっと前で、トランクを提(さ)げて歩いている尾田は、(高野注釈:尾田というのは北條自身のことだと思います)十分もたたぬ間にはやじっとり肌が汗ばんで来るのを覚えた。ずいぶん辺鄙(へんぴ)な処なんだなあと思いながら、人気の無いのを幸い、今まで眼深にかぶっていた帽子をずり上げて、木立を透かして遠くを眺(なが)めた。見渡す限り青葉で覆われた武蔵野で、その中にぽつんぽつんと蹲(うずくま)っている藁屋根(わらやね)が何となく原始的な寂蓼(せきりょう)を忍ばせていた。

これはもっと続くのですが、ここに何が書いてあって私が何に感動したかというと、彼はハンセン病を発病しているということを宣告されて、しばらくは死ぬことばかりを考えていたわけです。公園に行っても街路を歩いていても、木の枝を見ると、「この枝は細すぎて自分の体重を支えきれないのではないか。あの枝は高すぎて登るのが大変だ」と。薬局の前を歩くと、いろいろな睡眠薬を見て、安楽往生している自分の姿が見えてきます。汽車・電車を見れば、その下で悲惨な死を遂げている自分の姿が思い出されます。
これから療養所へ行って、自分はどう生きていこうとしているのか、黒い渦巻の中に巻き込まれてしまいそうな気がするということを書いて、療養生活の中に入っていくわけです。その中で見聞きした仲間たちのことを、歯に衣着せない文章でしっかりと書き残してくれています。機会がありましたら、是非この本を読んでほしいと思っています。「視力の回復が僕の夢でした」ということですが、これはダメだったわけです。

〈絶望の淵(ふち)で出会った点字〉

そして、点字に救われました。これは掛け値なく言いますが、本当に点字に救われました。文字が自由自在に読めるのは、まぁ自由自在とまではいきませんし、私は自由には読めませんし、読むのは遅いです。ただ、今くらい読めると、中途視覚障害の生徒さんたちの中には、なかなか私を追い越す人はいませんでした。1ページの32マス17行を文字数にすると、漢字・仮名交じり文で大体300字程度の情報量になります。私は、それをだいたい2分半ぐらいで読めます。これぐらいで読めれば、何とか仕事にはなりますが、なかなか読むのは大変です。
でも、タイプライターがあれば、書くのは自由自在です。ご存じだと思いますが、ライトブレーラーです。ライトブレーラーはいま作っていないし、修繕もききませんが、教員採用試験を通ったのも、私にとっては本当にライトブレーラーがあったからです。だから、初代の社長さんのナカムラ ノブオ先生には、本当にお世話になりました。
最初の頃は、「藤野さんのために作りましょう」と言って、キーとキーの間を、1の点と2の点の間を少し拡げてくれたり、2の点と3の幅を少し拡げてくれたりしました。最初はそういう改良のあるタイプライターを使いながら、次第に幅の狭い普通のものでも使えるようになったのです。
それはなぜかと言うと、私の手は右手も左手も手先だけが無くなっていて、ひじから先が割とあるのです。両手を使えばかなり自在に書けますし、大体1枚を5分で書くことができます。手のある人には3分ぐらいで書く人もいますから、手のある人と競争をすると負けてしまいます。読むのは割と不自由ですが、書くのはかなり書けるという自信があります。

〈我が青春の大阪市立盲学校〉

大阪市立盲学校に、私は20歳の時に中学2年生クラスに編入しました。盲学校に入って何が良かったかと言うと、本当によく勉強をしたことです。数学も英語もわかりやすく教えてくれました。皆さんは知らないでしょうが、英語の先生には、知る人ぞ知るカイ タエコという全盲の女性の先生がいらっしゃいました。現職時に、ずいぶんと早く49歳ぐらいで亡くなられましたが、本当に素晴らしい先生がいて、良い先生に巡り会いました。勉強もいっぱいできましたし、第一に友達が大勢できました。
目が見えなくて手が無ければ、普通の社会では人にものを頼むことはたくさんあっても、人からものを頼まれることはあまりありません。でも、盲学校に行ったら、人からいろいろ頼まれました。何を頼まれたかというと、「生徒会の会長になってくれ」とか、「○○クラブの部長になってくれ」など、いろいろと言われました。人からものを頼まれることは本当に無かったので、何だかすごく嬉しかったですね。何でもかんでも引き受けたわけではありませんが、楽しかったので皆で一緒にやりました。
大阪市立盲学校で「盲学校って、こんなに素晴らしいところなのに、何で隣にあった福岡の盲学校は入れてくれへんかったんや」と思って、なおさら「残念やなぁ」と感じました。それで、我が青春の大阪市立盲学校で「学校の先生にどうしてもなりたい」と思ったのです。そして先生になるのなら、世界史の先生になりたいと思ったのです。

〈世界史の魅力にひきつけられて〉

なぜ世界史の先生になりたいかと言うと、私は世界史が好きだからです。何で好きなのかと言うと、人間が大勢出てくるからです。その中の人間はやっぱり美しかったり醜かったりします。本当に戦争もするし、人を騙すし、裏切りもします。人間は嫌なところもいっぱい持っていますが、すごく美しい面もやっぱりたくさんもっているのです。
私が歴史の中で一番好きなのは、スパルタクスという奴隷です。ローマ時代にブルガリアの方から連れて来られたローマの奴隷です。剣奴と言われて、武器を持って戦わされます。命をかけてローマ市民の見世物をさせられたスパルタクスは、そういう不条理なことにはどうしても屈服できずに、反乱を起こすのです。そういう正義の味方ということで、単純でしょうが、「正義は素晴らしいな」「できたら正義の味方でありたいな」と思いました。世界史を本当に好きになったのは、このスパルタクスという人がきっかけです。
また、16世紀の初め頃にドイツで活躍したお坊さんに、トマス・ミュンツァーという人がいますが、この人は農民たちが奴隷のように働かされる制度に、キリスト教徒として反対したお坊さんです。マルティン・ルターと同時代の人ですが、マルティン・ルターとは違う立場を取った人で、結局は領主から殺されてしまいました。でも、そういう人の勉強をすることがすごく好きでした。それで、世界史の先生になりたいと思いました。世界史の先生になれば、そういうことをいくらでも勉強できると思ったのです。

〈日大、真夏のキャンパス〉

学校の先生になるには、大学に行かなければいけませんが、当時はどこの大学もなかなか視覚障害者を入れてくれませんでした。今はだいぶ状況が違いますが、私は日本大学を通信教育で5年半かけて卒業しました。私は自分の障害を隠さず、「こういう二重の障害がありますが、勉強をしたいので受験させてください」とお願いしましたが、どこの大学でもそれはかないませんでした。
そして、結局最後には通信教育を試みました。通信教育は書類審査で学籍が取れますから、「目が見えない」とか「手が無い」とか、余計なことを書かなくてもいいわけです。それは私にとっては重要なことですが、身体状況を書く欄はどこにもありませんでしたから、書かずに書類を出したのです。
私の作戦は成功して日大に入りましたが、今度はスクーリングでそれが見つかり「帰れ」
と言われました。「スクーリンクを受けないで帰りなさい」と。でも、日大は視覚障害者をちゃんと大勢入学させています。高橋 実さんは全日制を卒業していますし、私が入った時にもアリムレさんもいました。アリムレさんは理療科の先生で、もう故人になられましたが、彼は理療科の先生として働きながら、学生として日大で勉強もしていました。ニシヤマさんという女性の方も点字盤でカタカタを書きながら授業を受けていましたから、私はどれだけ仲間に心強く力づけられたのかわかりません。
でも、大学当局の学生課と教務課の職員が二人でやって来たのです。「藤野さんがこんなに重度の障害をお持ちの方とは、私たちは知りませんでした。これは大学側の手落ちでした」と言われたのです。「でも、藤野さんは既に60数単位取られていますから、短期大学卒業の資格を差し上げます」と、「そうすれば、中学校2級の社会科免許が取れますよ。就職できるでしょう」というような、安直なことを言うわけです。ふざけているでしょう。
日大のあなたたちが差別する以上に、障害者の働くバリアがどれだけ大きいか、ハードルが高いかということを全く知らない人が、敢えて言うなら連中が、「既に62単位以上習得されているから、これで短期大学を卒業できます」「社会科の中学校2級の免許が取れますから、就職できますよ」と言うのです。私がもうちょっと違う人間だったら、殴りかかっていたかもしれません。本当に悔しい思いをしました。
でも、私は日大をやめませんでした。なぜかと言うと、やっぱり皆仲間だったからです。私には目の見えない仲間も大勢いますが、目が見えようと見えまいと、仲間は大勢います。日大で勉強していた福岡学友会の40人の仲間は全員目が見えました。共通なのは、仕事を持ちながら、あるいは一般大学に行きたくても行けなかったから「通信教育だけど頑張ろう」と言って来ていたことです。だから、藤野の気持ちもそれなりに理解してくれたのです。
そして、「帰らんでいいよ」と、「教室移動とかノートテイクとか、いろいろ手伝うことがあったら、オレたちがそれやるけんね」と言ってくれたのです。だから、私は続けることができましたが、これが逆なら大学には居られなかったと思います。仮に、大学側が「居てもいいよ」と言っても、福岡の学友会が「やっぱり藤野さん無理やね」と言っていたら、私は大学に居られなかったと思います。そんな形で日大を卒業しました。

〈初めての点字による教員採用試験〉

視覚障害者の目が見えない普通科の教員には、私が入る以前にも大勢の良い先輩がいらっしゃいました。目黒伸一先生や田中聞多(もんた)先生、先ほどお話をしたカイ タエコ先生、数学のコジマ ノボル先生など、すぐに固有名詞をフルネームで言えるような先生たちが、大勢いらっしゃいました。でも、そういう人たちは「特別任用」という形なのです。その教科に特別に優れた能力をお持ちだとか、ちょうど盲学校に空きがあったとか、何らかのプラスのコネクトがあったという理由によって、盲学校の現場で働いていらっしゃいました。
私も「世界史の先生になりたいな」と、「できたら母校の大阪市盲で仕事がしたいな」と思いましたが、「仕事ができるならどこの盲学校でも行きますよ」「普通校でも行きますよ」という志を持っていました。でも、特別任用しかなかった時代です。大学を卒業した1971年に、卒業した大阪市立盲学校の校長先生のモリモト キヨシ先生のところに行きました。「先生、特別任用という形でいいですから、是非仕事をさせてください」とお願いをしたのです。
先輩たちも皆そうしていたし、うちにも何人かそういう先生がいて、日本史のキヌガワ マスオ先生もそうでした。そういう先生たちは教員採用試験を受けずに入っていたので、「私も、そうできないでしょうか」とお願いに行ったのです。すると、モリモト先生が何を言われたかというと、「藤野さんな、それもいいけど、それも一つの方法やけど、なかなかそれは難しいで」と。特別任用にはプラスのコネクトも必要だし、いろいろあると。そして、「藤野さんな、教員採用試験受けて、合格して胸張って入って来いよ」と言われました。
そこで、「それは僕らも望むところです」と、私は言いました。「障害者運動や組合運動で私を応援してくれた人たちも、それは望むところです」と。「どうぞ、先生も教育委員会に先生のご意見を具申してください」と言いました。そして、私は試験を受けました。147人のうち24人が合格したのですが、その中に入れましたから、「先生、通りました」とご挨拶に行きました。すると、モリモト先生は「よう、頑張ったな」「今までは藤野さんが頑張る。これからは私たちが頑張る番や」と、こう言ってくださいました。
私も組合の立場で頑張ってきた教員ですし、君が代・日の丸には断固反対でしたから、絶対に起立しませんでしたが、悪い校長先生ばかりではありません。モリモト先生はずいぶんしっかりした先生だと私は思っています。
でも、結局はどうなったかと言うと、教育委員会はさぼりにさぼって「定員がいっぱいや」とか、「藤野さんを採用するなら、お手伝いとして実習助手を一人入れなければいけないだろう」とか、「ご飯はどうやって食べはるんや」など、いろいろなことを言ってきました。
そこで「身辺自立は全部できているのだから」と答えました。そうしたら、何を言われたかというと、「生徒の安全指導はどうするんや」「火事の時どうするんや」「連れて逃げれるん?」と言います。そこまで言われたら、「任しといてください」なんて、私は言いません。そんな非科学的な、いい加減なことは言いませんから。
すると、組合の先生たちが「教育現場というのは、そういうもんではない」と。「一人の人間への生徒指導には、進路指導もあれば、生活指導もあれば、安全指導もある」と、いろいろなことがあって、それは教師集団で補い合ってやっていくものだと。それを、藤野さんに対して「火事の時にどうやって生徒を助けるんや」などと言うのは、障害者差別の最たるものだと言って頑張ってくれました。
結局、有効期限は1年半あったのですが、切れてしまいました。すると、非常勤講師として発令したのです。卑怯でしょう。非常勤講師で発令されましたから、当時は教員の初任給が58,000円の時代でしたが、7時間の金額は19,100円でした。そこから2,300円の税金を取ると、手取りは16,900円で授業は7時間だけです。
そういう非常勤講師で発令し、10か月間やらせてから、「採用試験の合格の有効期限が切れたので、もう一回受けてください」と言うのです。これはすごい差別だと思いませんか。人事差別そのものではないですか。私たちは断固として拒否し、「きちんと教諭として採用してください」と言いましたが、やっぱり教育委員会の態度は固いし、冷たかったのです。「有効期限が切れているのは、どうしようもない」と言われました。「切ったのは、あなたたちじゃないですか」と言っても、これは水掛け論というか、喧嘩にしかなりません。
「どこかで妥協せにゃいかんな」という話になりました。結局、組合の先生が「藤野さんには受けてもらいます。受けてもらいますが、条件がある」と、「71年7月に藤野さんが受けた時に、藤野さんが受けるなら私も受けたいと言って2人が手を挙げたのに、藤野さんは特例だと言って、あなたたちはその2人を切ったでしょう」と。そうではなくて、「今度、受けたいという人がいたら誰でも受けさせますか。点字でやらせますか」と聞くと、相手側は「それは、やります」と言います。そうやって特例を外したので、私は百歩譲って試験を受けて、何とか合格することができました。そうして、30年間大阪市立盲学校で働くことができたのです。
その時、私を支えてくれたのは河野 勝行さんという脳性麻痺の友達でした。友人で歴史研究者の河野 勝行さんは、私より6歳若くて今も現役ですが、彼がまだ20歳代の頃に、『ぼくも働きたい』という本を書いたのです。この『ぼくも働きたい』という本のタイトルが、私をどれだけ共感させて励ましたことでしょうか。『ぼくも働きたい』という本が。
それこそ、国がお金を出して静かなところで楽しく一生を送らせてもらうということが、断固として腹に落ちなかった私が、この『ぼくも働きたい』という脳性麻痺の河野さんの本のタイトルによって、どれだけ勇気づけられたのか、皆さんたちにはわかっていただけると思います。

〈教職30年 我が生きがい〉

私は30年働きました。目が見えなくなって、手が無くなったことは不幸でしたが、自分の一番したかった仕事で。誰にでも一番したい仕事というのはありますよね。竹下さんなら「弁護士になりたい」と思ったわけですし、大胡田さんだって「弁護士になりたい」と言って頑張って努力したわけです。「学校の先生になりたい」「国会議員になりたい」と言って、頑張ることだってできますし、勤めていた会社で「継続雇用してほしい」と頑張ることも、全く不可能ではなくなった時代を、私たちは作り出してきていると思います。

〈職場での悩みと喜び〉

学校で30年間働いたのは私の生きがいですが、悩みも喜びもありました。いくつかありましたが、一番の悩みは何かというと一つは運動会や遠足など学校行事の時でした。運動会では、シューっと白線を引いたり、椅子を並べたり、ゴザを一面に敷いて、片づける時にはそれをキュッと巻いたりする作業があります。それを一人でやれと言われたら、一晩中かけてでもやりますが、皆と一緒に行うとテンポが合わないのです。ですから、運動会とか遠足というのが気分的には一番しんどかったですね。
それから、プール掃除もそうでした。プール掃除の時には海パンをはいて、周りの壁を雑巾でゴシゴシとこすることはできます。土曜日の昼からプール掃除をしていたので、思い切って雑巾を持って行ったのです。そうしたら、体育の女の先生が、「藤野先生、そんなことせんでいい」「自分らに任せといてください」と言って止めてくれました。それで、「そうですか。ごめんね」と言って、シャワー浴びて着替えてから職員室に戻りましたが、そういうことが一番しんどかったですね。
もう一つ、しんどかったことがあります。これはあまり文章には書いていませんでしたが、盲学校にも知的障害のある子が、いわゆる盲重複児ということで、重度の知的障害の子どもが入って来ることがあります。そういう時に、職員会議では大体その子たちを不合格にするのです。中学校までは義務教育ですから仕方がないけれど、高等学校は非義務ですから。
「こんなふうに英語もわからないし、社会科もわからない。トイレも一人でできないし、食事も一人でできない。そんな重度の子どもは、小・中学校までは仕方がないが、高等部には入れる必要がない」と。「こんなものは教育とは違う。子守ではないか」とか、「自分たちは英語の教員採用試験を受けて入ってきているので、この子たちにご飯を食べさせるとか、トイレの始末をするのは違う」といった意見が出てきます。それには、確かに一定の説得力があります。
しかし、「どんな子どもたちにも、後期中等教育を受けさせよう」と、親がそれを望み、本人たちも「もっと学校で勉強したい」と言っているなら、別に高等学校の英語や数学ではなくても、本当に人間として強く生きる術を学ぶような教育が、後期中等教育の障害児教育の中にあっても良いのではないかと言って、私たちは頑張りました。
でも、私はそういう意見がなかなか言えませんでした。私も13年間、公教育である学校現場の現場から、除外されてきた経験があります。「この子たちを是非入れてください」と言えれば良かったのですが、それがなかなか言えませんでした。
しかし、最後には民主主義は多数決で決まります。最初の頃は本当に40対5などという数字で負けていて、その子たちは盲学校に入れませんでした。しかし、その子たちを土曜や日曜に学校に来させて活動していたのを、先生たちも見ていました。「助けてよ。日中一回でいいから来て、この子たちと一緒にプールで遊んだり、いろいろしようよ」と言いながら全障研で活動をしてくると、次第に、賛成者が増えて、負けるにしても接戦になってきたのです。
すると、「藤野さんな、一言あんたがな、自分の経験を含めてこんな子どもたちにも教育を受ける権利があるんや」「教育を受ける喜びがあるんや」と、「定員枠もあるのに、それを断るのはやっぱりおかしいのではないか」ということで、組合の先生から「藤野さん、一言言うてよ」と言われたのです。組合で副分会長をしていたこともありますから、「そうやな」と思って、ある時、私は思い切って職員会議で言ったのです。
確かに、民主主義というのは面倒ですよね。手間暇かかるし、時間もかかります。結論が出るまでに10時を過ぎてしまいます。差別ではなくて配慮として「女の先生たちだけでも、早く帰さないかんな」と言っていたのですが、10時を過ぎてもまだ結論が出ないのです。晩ご飯を食べて帰って来てから会議をしていました。その時に「藤野さん、一言言うてよ」と言われて、私も私なりに頑張って話をしたのです。そして、採決をすると2票差か3票差でその子たちが合格したのです。皆が喜びましたし、私も嬉しかったのです。
ところが、後になって「藤野があんなことを言ったから、迷っていた人が合格に手を挙げた。だから、担任は藤野に持たせろ」というような意見を、私のいない会議で言う人が何人か出てきました。「藤野は自分の手を汚さないで、そういう子どもたちの担任も何もできないくせに、格好だけつけて、筋だけ通しよった」などと言われました。それは、もう本当につらかったですね。
ただ、その時に何人かの先生が「それは違うやろ」と言ってくれました。藤野さんは自分の体験を通して、子どもたちや保護者のことを言ったのであると。「自分のできないことは言わない」というのは変な話で、障害者の人にそこまで遠慮させる必要はないし、藤野さんが意見を言うのは当たり前のことだと。
そして担任はしませんでしたが、私は授業には入りました。そういったことが私の一番の悩みでしたね。これは、本当に現職の時にはなかなか言えなかったことですが。

〈遥かなるウクライナに心を寄せて〉

これは大変なことです。プーチンがウクライナに攻め込みましたが、私はもうあんなことはないと思っていたのです。20世紀の人間は大きな戦争を二つもして、たくさんの人たちを犠牲にして障害者にしました。しかし、反省して「戦争はもう起こさない」ということで新しい憲法をつくり、国際連合憲章を決め、植民地は基本的に無くして、新しい時代に入りました。だから、もうあんな戦争はないと私は信じたかったのです。
ところが、あんなことが起こりましたから、私は「歴史に裏切られたな」と口を滑らせたことがありました。でも、考えてみると歴史が私たちを裏切るはずはないのです。私たちが、歴史を裏切ったのだと、歴史はそこまで進んできたのに、プーチンみたいなのが出てきたのです。彼を政界に送り出したのはロシアの有権者ですよ。「選挙は誰がなっても一緒や」という迷信は、国民や民衆の中から払拭しないといけないと思います。誰がなっても一緒ではないのです。
ヒットラーのことはあまり言いませんが、ヒットラーは暴力も使ったし、嘘もいっぱいついたし、デマゴーグもたくさん使いましたが、基本的には選挙で大勝ちをして出てきたわけです。ドイツの民衆が基本的には選んだわけですから、後で悔やんでもどうしようもないのです。やっぱり、きっちりした人を選ばなければいけないのだと、私は思います。そして、ウクライナについては、めげずに声をあげて行動していくことだと私は思います。ロシアの言い分には、全くの合理性も正義もないと思いますから。

〈教えるとは希望を語ること 学ぶとは胸に真(まこと)をきざむこと―ルイ・アラゴン〉

最後に、これを言って終わりにしたいと思います。聖書の中に「はじめに言葉ありき」というフレーズがありますが、言葉というのは人間を傷つけることもあれば、殺すこともあります。でも、励ますこともあれば、力になることもあると思います。私が、河野さんの本の題名の「ぼくも働きたい」というフレーズに、いかに勇気づけられたか。「僕も、そういうことを言っていいんや」と思いました。目が見えなくても、手が無くても、「僕も働きたい」と言えば良いのです。だから、言葉というのはすごく大事なものだと思います。
私が学校の先生をしている時に、ずっと自分の座右の銘にしていた言葉があります。それは、「教えるとは希望を語ること、学ぶとは胸に真(まこと)をきざむこと」という言葉です。これは、私が学校の先生をしながら、いつも心にとめていた言葉です。大体、人にものを教えるというのは、恐いことですからね。「天皇は神様だ」「今やっている戦争はいい戦争で、必ず勝つ」などと、私たちも教えられましたから。そういうふうに、何の根拠もなしに大人が子どもたちに教えて、そこにはえせの希望がありました。しかし、そうではなくて本物の希望を語らなければいけません。
私も、13年間学校に行けませんでしたが、大人たちは「可哀そうやね」と言いながら、いっぱい同情をしてくれました。でも、その「可哀そう」から出る出口を、ほとんどの人たちは作ってくれなかったし、私は見出すこともできませんでした。私は教職にはおりませんが、教えるとは希望を語ることであって、学ぶというのは胸に真(まこと)をきざむことであり続けたいと思います。

職場で頑張っています

『そして、今。』

賛助会員 藤川 敬 (ふじかわ たかし)氏
SMBC日興証券 部店コンプライアンス部

網膜色素変性症。私の病名です。幼少期から夜盲があり、視力は0.3程度で、成長するにつれ低下していき、現在は0.02程度です。
幼いころ、両親は、精一杯のことを私にしてくれたと思いますが、自分の家庭はお世辞にも裕福とは言えない環境であることも理解していました。時がたち、授業料を免除してもらい、奨学金を得ながら、大学を卒業し、証券会社に総合職として入社し、営業を経験しました。この経験を活かして、現在の会社に転職し、営業に携わりました。
営業時代は、周囲の仲間や上司のサポートに本当に助けられました。移動が困難だったため、運転手さん付きの支店長車を借りて、お客さまのところまで行き、運転手さんに玄関などを教えてもらい、訪問していました。細かい文字は読めないため、拡大読書器で書類の内容をあらかじめ把握して商談に臨みました。それなりに実績を積んだころ、営業部門での出世を意識するようになりました。そんな営業時代が、10年程度続きましたが、残念ながら視力の低下が進み、0.05を切ったあたりからお客さまに対応することが難しくなってきました。営業現場では、不幸にも訴訟に発展するようなものもあります。その時に、「目が悪いから説明が漏れていました」は通用しません。働き方を変えていく必要に迫られました。そして、それまで拒んでいた白杖を持つことを決め、営業現場から本社への異動願を出しました。
私の会社にはすでに視覚に障害がありながら活躍されている先輩がおられました。その方から様々な器具や音声読み上げソフトなどのサポートについて教えていただき、現在は、コンプライアンス部門で、営業の経験を活かし、営業管理業務に携わらせていただいております。
私は、ご縁があって入社した今の会社に大変感謝しております。理由は、私に働く環境、成長する機会を与えてくれたからです。しかも、私が困ったときには、その問題を様々な部署の方が全力で解決しようと努力してくださいます。私の力は本当に微々たるものですが、多くの仲間に支えられ、今に至ります。本社に移ったとき、自分には何ができるんだろうかと悩み苦しんだ時期もあるからこそ、言えます。大切なのは、目の前の課題に向き合い、どうすればできるのか、そのために誰を巻き込めばいいのかを自分で考え、そして、一歩ずつでも歩みだすこと。お恥ずかしい話ですが、本社に異動した当時はこの課題から目をそらし、失った営業部門での出世にこだわっていました。自分よりも営業成績の振るわなかった同僚の出世を妬み、自分の仕事にプライドを持てない時期もありました。今思えば、それこそ視野が狭かったと恥ずかしくなります。
最近は、本業はもちろん、副業で始めたコーチ業、ブラインドテニスなどのスポーツや二年前に40歳で始めたピアノ、歌の個人レッスンを楽しみながら、妻・二人の子どもたちとの平穏で充実した日々を送っています。
そして、今。苦悩した日々も、笑って話せる今が必ず訪れると確信しています。未熟な私ですが、皆様から刺激をいただきながら成長できるよう引き続き励みます。
長文にお付き合いいただき、ありがとうございました。

「第五回ロービジョン・ブラインド川柳コンクール」作品募集のお知らせ

『ロービジョン・ブラインド川柳コンクール』

事務局 神田 信

第一回よりタートルにはご協力を頂いている本コンクール。
昨年は、ついにタートルから最優秀賞受賞者が誕生いたしました。
このコンクールは、視覚障害に因んだ川柳を当事者だけでなくすべての方から募り、それぞれの立場から詠まれた川柳を通じ、互いの理解と視覚障害の社会啓発を目的としています。視覚障害に因んだテーマを、それぞれの視点で川柳にしてご応募ください。
応募期間:2023年1月31日まで
一度に5句までですが、何度でもご応募いただけます。
以下の該当する部門より応募できますので、周りの人にもお勧めください。
1.見えにくさを感じている方部門…視覚・色覚に障害のある方。
2.メディカル・トレーナー部門…医師・看護師・視能訓練士・歩行訓練士・その他訓練施設等の先生方。
3.サポーター部門…家族、友人、職場の方、誘導ガイド、ヘルパー、その他一般の方。
ご応募は、「第五回ロービジョン・ブラインド川柳コンクール」ホームページよりお願いします。
https://www.paris-miki.co.jp/lv-senryu/
過去の受賞作品、入選作品をはじめ協力団体のホームページ一覧を掲載しています。
協力団体のホームページはQOLの向上にお役立てください。
今年は「日本眼科医会賞」が新設されました。最優秀賞と各部門賞、NEXT VISION賞、および入選作品は2023年3月下旬、ホームページで発表します。
奮ってご応募ください。
以下昨年の応募作品よりご紹介いたします。

つかみ取れ 亡くしたものと 引き換えに
[作者解説] 私は視力を失いましたが、訓練をしていただいたおかげで、いろいろな技術や考え方、そして生きる自信を獲得しました。
ファービー ロービジョン

見えなくても 失いたくない 自分らしさ
[作者解説] 視力がだんだん悪くなり、だんだんと心がしぼんで自分が変わっていくと感じていました。でも同じ悩みの方に出会い元気な姿を見て、自分もこの先自分らしさだけは失わないように、柔軟な心で生きていきたいです。
愛裕美ゆう ロービジョン

服選び センスのいい人 まず選び
[作者解説] 全盲者にとって洋服を選ぶときは、センスのいい人に選んでもらうのがコツ。
雪中キリギリス ブラインド

誰もかも フリーアドレスで 行方不明
[作者解説] 盲人が話す相手を探すには、近くの人の声を聞き分けたり席を覚えておくしかないが、フリーアドレスになると毎日席が変わるので、どこに誰がいるのか分からない。
冷えた八宝菜 ブラインド

仕事する 分厚いメガネの ママ素敵
[作者解説] 目の病にかかっても、分厚いメガネをかけて、仕事頑張るママの姿は素敵です。
とらまる ご家族

おもいやり 整理整頓 心がけ
[作者解説] 視覚障害のある方へ自分ができること。同僚が働きやすいように職場に不要なもの置かないだとか整理整頓をするだとか。働きやすい環境を提供したい。
のりんこ 職場の方

お知らせコーナー

ご参加をお待ちしております!!(今後の予定)

◎交流会

昨年はコロナ禍で開催できませんでしたが、今年度はまた、9月、11月、3月の第3土曜日、14:00~16:00までオンラインで行います。毎回、講演を聴いたあと、講師との質疑応答の時間も設けます。

◎タートルサロン

上記交流会実施月以外の毎月第3土曜日の14:00~16:00に行います。情報交換や気軽な相談の場としてご利用ください。
他にも、原則第1日曜日には、テーマ別サロン(偶数月)、ICTサロン(奇数月も行います。

*新型コロナウイルス感染症の動向によっては、会場での会合が難しく、引き続き開催を差し控えさせていただきます。
※その場合にも、Zoomによるオンラインでのサロンは引き続き行います。奮ってご参加ください(詳細は下記の事務局宛にお問い合わせください)。

一人で悩まず、先ずは相談を!!

「見えなくても普通に生活したい」という願いはだれもが同じです。職業的に自立し、当たり前に働き続けたい願望がだれにもあります。一人で抱え込まず、仲間同士一緒に考え、気軽に相談し合うことで、見えてくるものもあります。迷わずご連絡ください!同じ体験をしている視覚障害者が丁寧に対応します。(相談は無料です)

*新型コロナウイルス感染症の動向によっては、会場に参集しての相談会は引き続き差し控えさせていただきます。

*電話やメールによる相談はお受けしていますので、下記の事務局まで電話またはメールをお寄せください。

ICTに関する情報提供・情報共有を行っています。

タートルICTサポートプロジェクトでは、就労の場におけるICTの課題に取り組んでいます。ICTについては、専用のポータルサイトやグループメールをご活用ください。

タートルICTポータルサイト
https://www.turtle.gr.jp/hpmain/ict/

タートルICTグループメールへの登録は以下をご参照ください。
https://www.turtle.gr.jp/hpmain/ict/activity-2/ict-groupmail/

正会員入会のご案内

認定NPO法人タートルは、自らが視覚障害を体験した者たちが「働くことに特化」した活動をしている「当事者団体」です。疾病やけがなどで視力障害を患った際、だれでも途方にくれてしまいます。そのような時、仕事を継続するためにはどのようにしていけばいいかを、経験を通して助言や支援をします。そして見えなくても働ける事実を広く社会に知ってもらうことを目的として活動しています。当事者だけでなく、晴眼者の方の入会も歓迎いたします。
※入会金はありません。年会費は5,000円です。

賛助会員入会のご案内

☆賛助会員の会費は「認定NPO法人への寄付」として税制優遇が受けられます!
認定NPO法人タートルは、視覚障害当事者はもちろん、タートルの目的や活動に賛同し、ご理解ご協力いただける個人や団体の入会を心から歓迎します。
※年会費は1口5,000円です。(複数口大歓迎です)
眼科の先生方はじめ、産業医の先生、医療に従事しておられる方々には、視覚障害者の心の支え、QOLの向上のためにも是非、賛助会員への入会を歓迎いたします。また、眼の疾患により就労の継続に不安をお持ちの患者さんがおられましたら、どうぞ、当認定NPO法人タートルをご紹介いただけますと幸いに存じます。
入会申し込みはタートルホームページの入会申し込みメールフォームからできます。また、申込書をダウンロードすることもできます。
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ご寄付のお願い

☆税制優遇が受けられることをご存知ですか?!
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昨今、中途視覚障害者からの就労相談希望は、本当に数多くあります。また、視力の低下による不安から、ロービジョン相談会・各拠点を含む交流会やタートルサロンに初めて参加される人も増えています。それらに適確・迅速に対応する体制作りや、関連資料の作成など、私達の活動を、より充実させるために皆様からの資金的ご支援が必須となっています。
個人・団体を問わず、暖かいご寄付をお願い申し上げます。

★当法人は、寄付された方が税制優遇を受けられる認定NPO法人の認可を受けました。
また、「認定NPO法人」は、年間100名の寄付を受けることが認定条件となっています。皆様の積極的なご支援をお願いいたします。
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寄付の申し込みは、タートルホームページの寄付申し込みメールフォームからできます。また、申込書をダウンロードすることもできます。
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加入者名:特定非営利活動法人タートル

●他銀行からの振込
銀行名:ゆうちょ銀行
金融機関コード:9900
支店名:〇一九店(ゼロイチキユウ店)
支店コード:019
預金種目:当座
口座番号:0595127
口座名義:トクヒ)タートル

ご支援に感謝申し上げます!

多くの皆様から本当に暖かいご寄付を頂戴しました。心より感謝申し上げます。これらのご支援は、当法人の活動に有効に使用させていただきます。
今後とも皆様のご支援をお願い申し上げます。

活動スタッフとボランティアを募集しています!!

あなたも活動に参加しませんか?
認定NPO法人タートルは、視覚障害者の就労継続・雇用啓発につなげる相談、交流会、情報提供、セミナー開催、就労啓発等の事業を行っております。これらの事業の企画や運営に一緒に活動するスタッフとボランティアを募集しています。会員でも非会員でもかまいません。「当事者」だけでなく、「晴眼者(目が不自由でない方)」の協力も求めています。首都圏以外にも、関西や九州など各拠点でもボランティアを募集しています。
具体的には事務作業の支援、情報誌の編集、HP作成の支援、交流会時の受付、視覚障害参加者の駅からの誘導や通信設定等さまざまです。詳細については事務局までお気軽にお問い合わせください。

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Tel:03-3351-3208
E-mail:m#ail@turtle.gr.jp(#を除いて送信してください。)

編集後記

全国のタートル会員の皆様、いかがお過ごしでしょうか?
いつも情報誌を愛読してくださり、ありがとうございます!
読者の中には、電車通勤が復活した人もいらっしゃるのではないでしょうか? 私も、久しぶりに満員電車に揺られ、それなりに辛い思いをしながら、毎日の電車通勤を楽しんでいるこの頃です。
そのような通勤での1コマ…。先日、夕方のラッシュ時に、つり革をつかむことができず、頑張って揺れに耐えている私。その時、声をかけてくれた男の人がいました。その人が私の手を持って、手すりに誘導したその時、電車が大きく揺れたのです!! そして私とその人は、バランスを失いました。私は、すぐそばに座っていた方に倒れこんでしまいました。私が謝ると、座っていた方が「目が不自由とは思いませんでした。気がつかなくてすみませんでした。」と言いつつ、席を譲って下さいました。私は謝辞を述べそのまま座席に座りました。
その後、手を差し伸べてくれた方と会話をしました。その方は「実は私は片腕がないのです。なので、もう片方の手を使えずにバランスを失ってしまい、こんなことになってしまいました。ごめんなさい。」と言われました。
私は、「お気になさらずに。」と答え、その後仕事の話や趣味の話などざっくばらんに語り合いました。先に降りる彼に向かって、「またお会いできたら!」と声をかけました。彼もまた「楽しかったです。」と言っていました。
様々な「気持ち」が交錯した車中。いつものリズムを刻みながら電車は走り、久々に感慨にふける私がいました。
さて、今回の情報誌はいかがでしたでしょうか?これからも、皆さんに楽しんでもらえる誌面をお届けしますので、情報誌タートルを、どうぞ宜しくお願いします!

(イチカワ ヒロ)

奥付

特定非営利活動法人 タートル 情報誌
『タートル第60号』
2022年9月27日発行 SSKU 増刊通巻第7424号
■ 発 行 特定非営利活動法人 タートル理事長 重田 雅敏
■ 事務局 〒160-0003 東京都新宿区四谷本塩町2-5
社会福祉法人 日本視覚障害者職能開発センター 東京ワークショップ内
電 話 03-3351-3208  ファックス 03-3351-3189
■ NPO法人タートルの連絡用メール m#ail@turtle.gr.jp(#を除いて送信してください。)
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発行所 郵便番号 一五七―〇〇七三 東京都世田谷区砧六―二六―二一 特定非営利活動法人障害者団体定期刊行物協会 定価七五〇円(会費に含まれている)