(以下本文)

1998年10月9日第三種郵便物認可 (毎月3回8の日発行)
2025年4月11日発行 SSKU増刊通巻 第8140号

SSKU

タートル 第66号

キャプション

おかげさまで
タートルは今年30周年を迎えます

目次

巻頭言………………………………………… 2
タートル結成30周年を迎えるに当たり思うこと
理事・相談役 工藤正一(くどう しょういち)

2024年3月交流会講演 「視覚障害者の就労の現状」………………………………… 4
社会福祉法人 日本視覚障害者団体連合
総合相談室相談員(雇用・就労担当)
相沢 保(あいざわ たもつ)氏

2024年通常総会記念講演「失明から50年 病院と学校、地域で出会った人々に支えられて」……… 15
社会福祉法人日本盲人福祉委員会常務理事
指田忠司(さしだ ちゅうじ)氏

お知らせコーナー…………………………… 24

奥付…………………………………………… 28

巻頭言

タートル結成30周年を迎えるに当たり思うこと

理事・相談役 工藤正一(くどう しょういち)

今年はタートル結成30周年を迎えますが、本号、タートル情報誌第66号の相沢保氏と指田忠司氏の講演録を読み、また、タートル第63号特別号(和泉森太氏追悼文集)を読み、タートル発足当初のことを思い起こしています。
タートルの前身は1992年5月、「視覚障害国家公務員の会」を立ち上げたことに始まります。そこに、厚生省職員秋元明さん(故人)の復職支援の相談が舞い込んだことがきっかけで、1995年6月に中途視覚障害者の復職を考える会(タートルの会)が設立されました。和泉先生の追悼文集にはタートル発足の経緯とタートルの原点が記録されています。この機会に、再度ご一読いただけたら幸いです。ちなみに、追悼集を編纂するため当時の方々に連絡をとったところ、少なからぬ人が亡くなっておられたことに時の流れを感じました。心よりご冥福をお祈りいたします。
タートル手記集『中途失明~それでも朝はくる~』では、働き盛りのごく普通の人が、中途失明という人生における最大の試練に直面し、悩み、苦しみ、葛藤を繰り返し、前向きに生きようと立ち上がりました。そして、さらに働き続けたいという強い意志を持ち、多くの人に支えられて、復職し、あるいは再就職を果たしました。目が見えなくなると、「何もできなくなる」、「何もできない」という先入観、偏見は多くの人が持っています。この偏見こそ周囲が本人を離職へと追い込み、また本人も離職せざるを得ないと思い込むことに繋がっています。この状況は基本的に昔も今も変わらず、だからこそ、タートルの存在があります。
さて、相沢さんと私の関係は、労働省休職中に、障害者団体の学習会でお会いした時に始まります。特に個人的には、私がハローワークの第一線の窓口で働きたいと希望した時、受け入れ側の東京都庁の関係部局に働きかけてくれたのが相沢さんです。また、日視連の相談員として、労働政策審議会や各種研究会などでもバックアップしてくれました。労働行政における人脈も豊富で、経営者団体、労働組合、障害者団体とも交流し、政策立案や制度設計にも影響を与えてきた方です。何よりも若い時から障害者に寄り添い、現場の実態を踏まえて行政に携わってこられたことに、心から尊敬しています。今回の相沢さんの講演録はその意味でも読み応えがあります。
また、指田さんとは立場は違っても、視覚障害者として、同じ方向を向いて活動してきた同志です。一時期、障害者職業総合センターの同じフロアで仕事をしたこともあります。指田さんは運動家から研究者に転進された方ですが、全盲の視覚障害当事者が労働問題の研究現場で活躍する意義は極めて大きいと実感しています。特に、国内の障害者事情はもちろん、諸外国の事情に明るいことには定評があります。講演では、失明からの半世紀を語られましたが、この間の、視覚障害者の雇用・就労環境は大きく変化しました。それらを視覚障害者に特化した数々の研究成果として残しておられます。今も分からないことは指田さんに聞いてみようというのが、私にとっての指田さんです。
昨今のコロナ禍やスマホ・SNSの普及で人との関係性が希薄になったように感じます。和泉先生と一緒に相談していた頃は限りなくアナログ的で、和泉先生は「新しい酒は新しい革袋に盛れ」とよく言っていました。タートルも30周年を迎えるに当たり、世代交代が課題となっています。中途失明~それでも朝はくる、陽はまた昇る、未来を信じて~。ともあれ、タートルの原点は変わるものではありません。

2024年3月交流会講演 「視覚障害者の就労の現状」

社会福祉法人 日本視覚障害者団体連合 総合相談室相談員(雇用・就労担当)
相沢 保(あいざわ たもつ)氏

皆さんこんにちは。ご紹介いただきました相沢と申します。約1時間にわたり発言の機会をいただき大変感謝申し上げます。私の略歴として、「公私にわたる約40年の障害者支援」と紹介いただきましたが、タートルの運動と直接の接点が多くあった訳ではありませんでした。しかし、タートルは約30年にわたり、各種就労支援に加え書籍なども出版されてきました。そのため先駆的な取り組みをされる団体と認識しています。

現在、情勢が様々に変わってきています。そこで基本となる考え方、つまり方向性に関する話をして、皆さんと確認できると良いと思います。今日の話は「障害の本質的な問題や捉え方」「障害者雇用に係る法律、対策、制度」をどう見ていくか、「障害者の就職、職業紹介や雇用管理の課題」という面も考えたいと思います。また、課題については最後に整理する形にしたいと思います。
実は2月3日に日視連が中心となり、公務員・視覚障害者の3回目の集いを開催しました。その時の内容に加え、国家公務員12名、地方公務員12名、独立行政法人1名の計25名のアンケート結果に関しても少しご紹介したいと思います。

最初に基本的な考え方ですが、「障害とリハビリテーション」という言い方をしています。障害をどう見るかというと、既に整理されている話ですが、機能障害(インペアメント)、能力障害(ディスアビリティ)、社会的不利益という3区分のあることが、1990年の段階で規定されています。ただ、一般的には「障害がある」ということを一括りにする傾向があるため、そこを明確にしなければと考えます。
例えば、機能・形態障害の場合、切断して腕が無いことが機能的なインペアメントですね。そのことにより、両手でモノを持つことができません。しかし、片手でモノを持ったり義手を使うことで、能力の低下(ディスアビリティ)は改善できます。また、社会的不利益とは「障害があるから」という理由で、社会がその人を受けいれないことです。それを「社会的不利益」と整理しています。
後ほど少し触れたいのですが、視覚障害の人と言うと、多くの人が持つイメージは「全盲の人」というイメージです。そのため「見えない人は何もできない」という結びつけ方をしますが、それは全く違います。全体としてはロービジョンの方が圧倒的に多いですが、そういう状況下でも「できること」や「何が課題になっているか」がきちんと整理されないといけないし、一般的には間違えたまま理解されていること自体が課題だと思います。
また、視覚障害は「移動障害」「情報障害」と言われますが、「社会的不利益」から見ると、ひどい言い方ですが、「視覚障害の人を辞めさせるには、情報を与えなければいい」などと平然と言う人も実際いました。現在、そんなことを言う人はいないでしょうが、視覚障害者の持つ障害特性をどうカバーリングしていくか、どういう対処を求めていくかという点がポイントになると思います。
次に、リハビリテーションの問題に戻ると「リハビリテーションとは、本来『名誉の回復』『権利の回復』という意味で用いられた」と東大の上田 敏先生が言われています。つまり、宗教裁判で破門となった人が「再び社会に戻る」という意味の「リ・ハビリテーション」という言葉から来ています。「再び社会に復帰する」という意味でしょうか。先ほどの障害との関係で言えば、社会との接点が排除され希薄な状態から復帰して、その人らしい生き方をするよう目指すことがリハビリテーションになります。
そして、働く問題で言えば、日本国憲法27条で「すべて国民は勤労の権利を有する」と定めているので、それも含めて考える必要があります。また、逆に言えば「なぜ働くか」という問題もきちんと整理しなければいけません。つまり「働きたいから働く」という話ではないのです。
例えば、働くことにより「自己実現」や「社会参加」「経済自立」がなされ、働くことが人としての発達を促すと言われます。ただ、働く際のタイミングですが、実際に自分のやりたい仕事で働けない場合も多く「自分ができる仕事」「社会が受けいれる仕事」という形になります。本当は自分のやりたい仕事ができれば一番良いのですが、社会が受けいれる仕事が最初の要件になりますから、自分のできる仕事をどう拡げるかが大事になります。それが、自分の望んだ仕事に次第に結びつくと言われます。ですから、マッチングの観点から言うと、自分のやりたい仕事を考えるだけでは、次の展開には至らないと思います。
さらに、「障害者雇用の促進と安定のキーワード」と言いますが、「不安感と負担感の解消」という問題があります。例えば、視覚障害の人を採用する場合に「視覚障害の人はどこまで仕事ができるか」「周りはどうサポートしないといけないか」と事業主さんはよく言います。
逆に、視覚障害の人に「こういう仕事をしてみませんか」と言うと、「自分にできるか」とか、「周りに迷惑をかけるのではないか」といった不安感や負担感を持つし、同じように企業も不安感や負担感を持ちます。このことは、先ほど話した障害特性や障害レベルの問題を理解していないと、すべて一括りになりがちです。「見えていないから」「自分には仕事ができないから」という理由によって、マッチングできないと思ってしまうのです。
加えて、「変化と支え」という言い方をしますが、働くことを継続するには「医療と生活管理等のマネジメント」を支えることも必要です。今日は視覚障害の人の話になりますが、現在では発達障害や精神の人たちの多くが労働市場に入っています。しかし、「仕事の内容が変わる」「ケアパーソンが変わる」「職場が変わる」「景気・経済・社会が変わる」などの状況に加え、「自分が変わる」「家族が変わる」という場面になると、知的障害や精神障害の人たちは対応が難しくなり、そういった変化への支援が必要になります。
後ほど触れますが、視覚障害の人に関しても現在はすごい勢いで仕事が変化しています。IT化で仕事が可能になった部分もありますが、IT化のスピードが速いためついていくのが大変な部分もあって、「どういう体制を取るか」という観点も必要になります。
では、「障害者雇用とは何か」という話ですが、「法律で決まっているから、障害を持っている人を採用する」という話では当然ないし、障害者を雇用するメリットは社会や会社の側にも当然あります。「社会的任務責務の達成」「法令遵守」「組織のダイバーシティ多様化に対応」といったことですね。また「環境改善」を考えると、先ほど「企業で仕事が変わる」と話しましたが、環境が変化していく中で、ユニバーサルデザイン的に職場環境を変えないと企業が持たない状態です。逆に言えば、そこで障害者雇用を進めるメリットや優位性が出現するのです。私たちが事業主と話をする時は「障害のある人が働きやすい組織は、誰にとっても働きやすい」と言っています。
そして、つけ加えると、障害者雇用は決して特別な話ではありません。職場には様々な人がいます。「親御さんの介護をする人」や「育休・産休の人」、「年齢の高い人」「がんを治療して復帰している人」、あるいは「透析をしている人」「シングルで子育て中の人」など多くの人がいて、職場はお互いさまで成り立っているのです。
現代は、30年前のように頑強で「ファイト一発」「行け行けドンドン」と高度成長で稼ぐヤツや、トークで会社を引っ張っていくヤツが、優位性を保つ時代ではありません。今は様々な人がいて、その人たちが職場の中で助け合う時代です。皆が個人的事情を抱えているのが現実の職場ですから、逆に言えば障害を持つ人のいることが必要なのだと思います。
また、SDGsを「持続可能な開発目標」と言いますが、2030年までに若者や障害者を含むすべての女性と男性に対し、完全かつ生産的な雇用と働きがいのある人間らしい仕事が求められています。ディーセントワークとも言いますが、資源だけでなく生きている人間が継続雇用により継続して働き、生活していくことも重要なのです。これは周囲の環境だけの話ではなくて、人に対しても必要なのです。
次は2つ目の項目です。障害者雇用対策では、「雇用率制度」「納付金制度」「助成金制度」が3本の柱になっています。どういうことかと言うと、法定雇用率として一定規模以上には雇用率を定めているという話です。また、納付金制度とは雇用率未達成の場合は一人につき月額5万円を不足分として集め、それを助成金(調整金)給付することで経済の公平分担を図るという話です。
そして、一般雇用への支援ですが、窓口としてはハローワークでの取り組みとなります。後ほど触れますが、ハローワークの障害者窓口は専門援助第二部門や、専門援助部門などと言います。かつてハローワークでは、新規の学校卒業生と障害者窓口が一体になっていて、そこで支援をしていた経緯があります。
また、「なかぽつセンター」と呼ばれる「障害者就業・生活支援センター」というものがあり、全国展開しています。他には「地域障害者職業センター」もあるため、ハローワークに加えて、「就業・生活支援センター」「地域障害者職業センター」を使われた方もいらっしゃるかと思います。実は、数字を少し紹介すると、地域障害者職業センターとしては、東京では上野に東京障害者職業センターがあって立川に多摩支所があります。こちらの職業センターを利用した方は、少し古いデータですが27,147人です。そのうち視覚障害の方は何人ぐらいだと思いますか。数としては、27,147人に対し157人になります。
こちらにはジョブコーチ支援として、障害を持つ人が入職する時のアセスメントやその後の支援を行うための「ジョブコーチ制度」があります。全国の数字では2,746人がジョブコーチの支援を受けました。では、2,746人のうち視覚障害の人は何人かと言うと29人になります。何が言いたいかというと、施設も含めて制度をどう活用していくかという観点も必要なのです。そのため、「なぜ制度が使えないか」についても議論しないといけませんが、視覚障害に特化したジョブコーチが十分に配置されていないことも、大きな要因なのです。
ですから、地域障害者職業センターに相談に行っても、企業とマッチングしてアセスメントをする際、視覚障害に対応できるジョブコーチを一緒に支援する話まで行かない点も、1つの要因だと思います。そのため数的に少ない問題に加え、その制度を活用できる仕組みをどう作るか対応策を考えることも必要なのです。
障害者関係の法律のスライドを映していますが、「身体障害者雇用促進法」は昭和35年(1960年)に制定された法律です。その時からかなり年数が経ちますが、スライド表示の「分野別福祉関係の障害者法律」では、身体障害者雇用の部分に「身体障害者雇用促進法」があり、これは後に「障害者雇用促進法」へと名前が変わります。
しかし、一番古い法律は精神障害の人たちに関する法律でした。これは100年以上も前の話です。現在は変わりましたが、当時は精神障害の人たちを家族が座敷牢で看る状況でした。これは東大の呉先生が言われた言葉で、私も一番感銘を受けた言葉は「この病を得た不幸と我国に生まれた不幸を併せ持つ」というものです。障害や病を得たいと思う人はいませんが、この国に生まれたがゆえに、制度・政策が不十分というもので、先生が大正時代に実態調査を行った際の言葉です。
つまり、「病気や障害は、制度によって苦しめられてはいけない」と私は思っています。私的意見ですが、ハンセン病やチッソの問題、サリドマイドの問題に関し、ずっと個人的に様々な関わりを持ってきました。誰もが幸福になれる権利を持っているのですから、お金は何の役にも立たない裏金ではなくて、こういう施策にきちんと使ってほしいと考えます。
さて、「障害者に対する差別の禁止」「合理的配慮の提供義務」は皆さんご存じと思います。これは雇用の入口で、例えば「点字受験したいと言われたら保障しなさい」というものです。2024年4月からは、白杖を使う人や盲導犬ユーザーがお店等に行かれた時に、民間事業者にも合理的配慮が義務化されています。
これは私が住んでいる地域の話ですが、白杖の資格申請のために、つまり白杖取得のため市役所の福祉課の窓口に行き書類申請しようとした人がいました。すると、市役所の職員が「では、これに記入してください」と書類をピラッと出して渡したそうです。その方は私の知り合いの視覚障害の女性でしたが、「何なんだろう」と思ったそうです。自分は見えないから白杖申請をしているのに、書類を出され「これに記載しなさい」という言い方はないという話になったのです。
言い方は悪いですが、役所の窓口にも感覚のズレた人が未だにいますから、そんな状況を無くすには様々な手立てが必要なのだと思います。今日はこの話を細かくしませんが、私は多くの場所での経験を踏まえ、「特別の配慮や遠慮はするな」という言い方をしています。でも、「合理的な配慮はしなさい」と。合理的な配慮の第一歩は、例えば障害を持つ人たちから相談があれば、その相談窓口で「必要かどうか」という合理的な判断がきちんとでき、相手の立場に立った想像力があることです。それが必要なのだと言っています。
今、私が関わる7,000人ほどの民間企業では、障害を持つ人たちを人事で採用し、現場に配置しています。たまたま発達障害の人を各現場に3~4人ずつ配置したところ、現場では「障害者雇用とは何か」がわからなかったそうです。発達障害の人たちの特性も含め、どう対処したら良いかわからないのです。それで、「人事から言われたから」「障害者雇用の対象者だから」「障害者だから」という理由で遠慮して仕事を渡さなかったり、その人に特別な配慮を行い、「その人の言うことは何でも正しい」というやり方をしているのです。
そうすると、結局のところ現場では周りが疲弊してしまいます。「何が必要か」「どういうことが合理的配慮なのか」という点が整理されないと、働く側にしても周りの人にとっても、お互い難しくなってしまいます。今、それを少し感じています。
障害者雇用制度の問題では、皆さんご存じのように役所も含め民間企業にも「法定雇用率」という制度が定められています。2024年3月31日まで民間の法定雇用率は2.3%で、国・地方自治体の法定雇用率は2.6%です。これは5年ごとに失業者数を割り出し、議論の後に計算して法定雇用率を出します。つまり、法律で雇用率を決める仕組みなのです。
ただ、障害者雇用促進法における障害者の範囲は、「身体」「知的」「精神その他」のため、この法律で最初に努力義務として雇用率の対象となったのは身体障害の人たち、次が知的障害、そして精神障害の人たちという順番です。これには様々な運動の結果もありますが、障害者団体が要求をきちんと伝え要望することが重要なため、身体障害者が中心となってきたわけです。
次に知的障害の人たちに対しては、養護学校の義務化というのでしょうか。知的障害の人の学ぶ権利を保障する目的で、義務化が進められました。そして、出口問題ということで、作業所づくりやその後の運動が展開する形になりました。加えて、精神障害の人たちには、「家族も関わりたくない」という状況もありましたが、今は医療の発達により安定して生活する人が多くなりました。「働ける人を労働市場に」の対象となり運動が展開されたのです。
以前、私が障害者問題に関わった頃は「障害と病気は違う」と言われていました。つまり、病気が固定したものが障害であると。ところが、今は網膜色素変性症など進行性の病気の人もいるので、そういう部分も含めどう見ていくかという問題が生じています。
また、先ほどは手帳保持者を障害者雇用の対象とすると説明しましたが、ハローワークの窓口でもコロナ後遺症の人たちが仕事探しに苦労されている話をよく聞きます。ですから、誰もが働ける社会をつくるなら、そういう点も含め今後の展開を考える必要があるのです。
少し歴史を振り返ると、1960年は法定雇用率が1.3%で身体障害者が対象でした。それも努力義務でしたが、身体障害者の人たちの要求で制度が変わりました。さらに、知的障害の人たちを雇用率に算入することで制度自体も大きく変化しました。例えば、特例子会社制度のように制度が様々に変わり、良いか悪いかは別にしても障害者雇用政策は拡大し展開をしていく状況です。
次に障害者雇用の状況をご説明すると、毎年6月1日現在で、民間企業も官公庁も障害者の雇用状況報告書を提出します。昨年6月1日付の状況が12月22日に公表されたところ、民間企業での法定雇用率は2.3%ですが、働く障害者数はカウント数になっており、重度の場合にはダブルカウントが適用されます。これを前提に話すと、雇用障害者数は64万2,178.0人です。ハーフカウントがあるために小数点がつきますが、64万人のうちの36万人が身体障害で、15万1,722.5人が知的障害、精神障害は13万298人となり、民間企業で雇用される障害者の半分は身体障害者なのです。そして、四分の一ずつが知的障害者と精神障害者になります。
昨年の雇用率を実雇用率といいますが、民間企業における実際の雇用率は2.33%です。つまり、法定雇用率は2.3%ですから、初めて法定雇用率を上回った形です。先ほども少し触れましたが、障害者雇用に特化した子会社として、例えばA会社が特例子会社Bを作ると、子会社Bで雇用する障害者はAにカウントができる仕組みです。現在、この特例子会社は598社ですから、障害者雇用を行うための子会社が約600近く作られているわけです。
実は、私が関わる民間企業は7,000人規模ですが、昨年12月に特例子会社を立ち上げました。「良いか悪いかの議論はある」と話しましたが、例えばタクシー会社は乗務員の数が圧倒的に多く、乗務員の中には身体障害の人も数名はいますが、運転免許証がなければ運転ができないため、雇用自体ができないのです。先ほど、「本人がやりたい仕事」「できる仕事」「社会が受けいれる仕事」と話しましたが、免許が無いとその仕事はできません。そこで、障害を持つ人への仕事の切り出しと言いますが、バックヤードの仕事として職場環境整備や業務の集約により雇用率を達成するため、働く場所を作ることになります。やはり、様々な心配があるので、注意しながら展開していく形です。
では、数だけ簡単に話すと、国の機関での障害者雇用は9,940人で、実雇用率は2.92%です。法定雇用率は2.6%ですから国は達成しています。また、都道府県は10,624.5人で実雇用率2.96%のため達成し、市町村は35,611人で実雇用率2.63%ですから何とか達成しています。ただ、都道府県・市町村の教育委員会は16,999人で、実雇用率は2.34%です。教育委員会の雇用率設定は2.5%のため未達成ですが、これには様々な理由があります。
例えば、私も埼玉・某市の障害者雇用支援をしていますが、1,000人規模の地方自治体のために窓口業務が圧倒的に多いので、障害者雇用がかなり厳しいのです。さらに、人事異動の面も影響があると思います。
今後は、民間企業は現在2.3%の雇用率が、令和6年4月から2.5%に引き上げられます。さらに、民間企業は令和8年7月に2.7%となり、今より0.4%引き上げられますが、0.4%の引き上げは現在までない状況です。これには様々な影響がありますが、法定雇用率による計算をすれば、こういう数字になります。現在のところ、民間事業主は従業員43.5人に対し障害者を一人雇う必要がありますが、令和8年7月には37.5人に対し一人を雇わなければいけない状況となります。
そして、もう一つの除外率という制度ですが、先ほど例に出したタクシー会社では除外率が現在55%なので、100人いたら55人分は母数から外して良い形です。ただ、この数字は廃止が決定されていて、令和7年4月に除外率は10ポイント引き下げとなります。つまり、今まで母数から55%引いていたのが10%引き下げられ45%となるため、今度は母数が逆転して100人なら55人が母数となります。
さらに、現在は精神障害の人の場合、週の労働時間が20時間以上30時間未満であれば、雇用率を1でカウントしますが、令和6年4月以降は所定労働時間が10時間以上20時間未満の精神障害者、重度身体障害者、重度知的障害者も雇用上0.5カウントで算定するようになります。どういうことかと言うと、週に10時間働くというのは、一日2時間ずつ5日働けば10時間以上になるため、その人を0.5でカウントできるということです。しかし、週に10時間の労働で生活が成り立つのでしょうか。後ほど触れますが、従来パートで20時間以上働く人は雇用保険の被保険者で雇用率の対象でしたが、この制度により10時間以上なら雇用保険の被保険者にする方向性が出てきたのです。
これは何を意味するのでしょうか。労働者の生活や、「働く」ことを本当に目指しているのでしょうか。よく「精神の人は短い時間しか働けないから」「重度の障害者は短い時間の方が働きやすいから」と言いますが、本当にそうなのでしょうか。データ分析をしてみると、少し違う部分も見えますが、この点が今は変わりつつあります。雇用率の改定と同時に、様々なものも変わってくるのです。
障害者雇用納付金制度でも「雇用率に一人不足なら月5万円」と従来は言ってきました。しかし、大手企業には1,000人以上の規模でも雇用率を問題なく達成している会社もあります。また、雇用納付金の反対給付として超過分には雇用調整金を支給する制度もあるため、その企業に多くの資金が支給されるという批判も生じ、この制度も少し変わっていきます。
さらに、障害者総数965万人中で、18歳~64歳までのいわゆる労働力世代は377万人と言われています。そのうち、福祉サービスの就労移行支援に33,000人、就労継続支援A型に77,000人、就労継続支援B型に287,000人、就労定着支援が11,000人です。こういった部分が一般雇用ではない「福祉的な就労」です。このうちA型には雇用関係がありますが、B型は福祉作業所ということで、該当者はその中で働いています。先ほど話をしたように、雇用状況報告での障害者雇用では64万人が働いており、ハローワークから企業に就職した人は一年間で10万人ですが、福祉的な雇用関係のA型では25,000人が働いているのです。
では、ハローワークを通じどんな就職がされているのでしょうか。就職数だけ話をすると、昨年5月31日に発表された数字ですが、令和4年度一年間にハローワークを通じ就職した人(身体障害者)は21,914人です。知的障害の人が20,573人、精神障害の人が54,074人ですから、先ほど言った雇用状況数とは逆に精神障害の人たちが半分を占めていて、四分の一ずつを身体と知的の人たちが占めています。現在の労働市場の傾向としては、精神障害の人たちの就職数が多くなっていると理解いただければ結構です。
今、身体障害者の就職者数を21,914人と言いましたが、そのうち視覚障害者は何人ほどだと思いますか。21,914人のうち視覚障害の人は1,499人で、そのうち重度の方が782人なので、1,500人の半分は重度の方という状況です。後ほど質問があればお答えしますが、AMED(日本医療研究開発機構)の研究の関係で、「ハローワークにおける視覚障害者の就労支援の実態」に関し、平成29年に日視連相談室長の工藤正一氏と都内ハローワークで調査を行いました。
「視覚障害者から手帳提示と見え方説明が十分か」と聞いたところ、17のハローワークのうち「十分」が7、「不十分」が9、残りが「どちらとも言えない」という結果でした。さらに、「視覚障害者の就労支援で困難と感じるのはどういうことか」と聞くと、
・視覚障害者の病気や見え方がよくわからない
・適職判断ができない
・見えないと仕事はできないと思いがちで、求人の開拓ができない
・就労支援以前の生活や歩行など課題が多い
・職業訓練でスキルを身につける機会が無く、できる仕事が少ない
というものでした。
この中では、先ほど言ったように「病気や見え方がわからない」という回答が一番多く、9か所ありました。あとは「訓練やスキルの部分がわからない」で、これらをハローワークの職員が感じています。職員自身が病気や見え方への理解を持っていないため、職業紹介の専門性を発揮できないのです。さらに、就労支援以前の課題に加え、福祉・生活・歩行訓練の多様性や必要性も感じていて、必要なケアも含め支援機関との連携が必須と感じさせる内容でした。
何が言いたいかというと、「自分の見え方やできることについて、きちんと自分で説明できるか」ということです。なぜなら、それが第一歩だからです。最近のことですが、ずっと電気関係の会社に勤めていた人が再雇用となり、それが一年で終了しました。そのため都内のハローワークに行ったところ、「60歳を過ぎて視覚障害の人の求人などありませんよ」と職員から言われたそうです。「それはちょっと良くないよね」という話になり、そのハローワークに行き高橋 広 先生監修の『みる 見る 診る』という冊子を渡しました。なぜなら見え方の問題だけでなく、視覚障害者へのハローワーク職員の対応訓練が十分と言い切れないからです。現在は、精神や発達障害の人が得意な相談員が圧倒的に多いかもしれません。
何故こんな状況が生じたかというと、先ほど話したように、知らないからそういう対応をとるのです。ですから、怒るのではなくきちんと教えないと、物事を変えることにならないからです。そこで、ハローワークに行き相談員や統括指導官に話し、資料を渡すことで求人開拓のお願いをしました。つまり、何がミスマッチを引き起こすかというと、我々がきちんと説明できていない部分かあることに加え、言い方は悪いですが、ハローワークの窓口に理解不十分な人がいることでミスマッチが起きるのです。
私は先輩から「ハローワークのミスマッチはなぜ起こるのか」と聞かれたことがあります。すると、先輩は「介在者がミスマッチを引き起こす」と言いました。つまり、介在者が変に思い込んで相談者と話をすることで、逆に繋がらないことも生じます。「見えないこと」や「できないこと」、あるいは「どんな見え方をしているか」という病気の状況、「どんな支援や機材があれば良いか」をきちんと伝えることも、大事になってくるのだと思います。
視覚障害者の雇用拡大と安定には対策化が必要として、労働政策審議会等では日視連の竹下会長も含めて様々な発言をしていますが、在職者が研修やスキルアップの機会を確保できるようお願いしたいし、都市部以外ではそういう機会も大変少ないと感じます。
また、アセスメントについては、合理的な配慮や環境整備を行なったうえでの能力評価をお願いしたいと考えます。そして、ジョブコーチに関しては障害特性を理解し、それぞれの障害種別に対応した支援ができる人材を配置願いたいと思います。現在デジタル化の進展や新型コロナの影響によりテレワークが広まっていますが、在宅でのリモートによる職場システムへのアクセスでは、関連のセキュリティシステムが音声出力に対応しないなどの様々な問題が生じています。そういうことも含め問題提起していることを、皆様にはご理解いただきたいと思います。
今回、令和4年10月の閣議決定により障害者雇用促進法が変わりました。変わった点を覚えてほしいのですが、従来の障害者雇用促進法第5条は「すべて事業主は、障害者の雇用に関し、社会連帯の理念に基づき、障害者である労働者が有為な職業人として自立しようとする努力に対して協力する責務を有するものであつて、その有する能力を正当に評価し、適当な雇用の場を与えるとともに適正な雇用管理を行うことによりその雇用の安定を図るように努めなければならない」というものでした。
変わったのは条文のアンダーラインの箇所で、そこを「適正な雇用管理並びに職業能力の開発及び向上に関する措置を行うこと」という形になりました。つまり、職業人として採用されれば、職場も変わるということです。キャリア形成やキャリアアップを行うためには、訓練を受けなければいけませんが、訓練を受ける状況について言うと、見えている人の受けられる訓練が圧倒的に多いのです。ロービジョンや見えていない人が受けられる訓練制度を作らなければ仕事のキャリア形成はできないし、能力開発ができない形になりますから、是非この部分は覚えておいてほしいと思います。
また、新しい資本主義への実行として「労働市場改革で障害者雇用はどこへ行く」というスローガン的な言葉をスライドに載せました。私が今気にしているのは、障害者雇用の人材ビジネスの方向性です。令和5年3月末の数字では、障害者雇用ビジネス事業者は23法人、就業場所は125か所あり、6,568人の障害者が働いています。法改正において、参議院でも衆議院でも問題になりましたが、今は人材ビジネスが横行しているのです。例えば、倉庫や農園を10区分に分割して、A社の障害者、B社の障害者、C社の障害者という形で障害者雇用を、人材ビジネス会社が儲けの道具として展開する状況がかなり見受けられるのです。
本来、雇用関係では指揮命令や出退勤管理等が前提ですが、大企業の障害者雇用が上手くいかない場合、人材会社がお金を貰いA社、B社、C社の障害者雇用として障害者を採用し、一括管理を行う方法が散見されています。「これは問題だ」として国会でも議論されていますが、今後疑わしい点に関しては見ていく必要があると思います。
そして、新しい資本主義の実行ということで、経済情勢が本当に大きく変わっています。昨日も労働組合の「連合」が、「賃上げができたが、これから中小企業にどう波及させるか」と言っていました。持続的な賃上げに向けた労働市場改革として「年功制の雇用慣行を転換し、学び直し支援や、成長産業への労働力を伸ばす」と述べていますが、一体何が出てくるのでしょうか。
確かに、「中小企業に賃上げ効果が届くのは1~2年先」という学者もいます。一部には賃上げによって効果が届くかもしれませんが、年功序列の雇用形態はガラガラ崩れていく状況です。そのため、労働力が切り売りされる展開に流されてしまうことを、私は個人的に心配しています。
さらに雇用保険の関係ですが、失業給付の緩和要件の話をすると、従来は自己都合で退職すると3か月間は給付制限がかかりました。しかし、今後は在職中にキャリア形成の研修を受けた人が退職した場合、給付制限を短くする話も出ています。現在、議論がどこまで行ったのか把握していませんが、20時間未満も対象とする動きが制度の側から大きく出ていて、労働市場を変えています。そういう状況の下、障害を持つ人たちが簡単に離・転職ができるのでしょうか。私はやはりそこが心配なのです。
時間が少なくなりましたので、話を少し変えて、公務職場の問題に触れたいと思います。2月3日に日視連で会議を開きましたので、公務職場に関し問題提起をしたいと思います。公務職場については、国の機関で3,700人、地方自治体で3,800人、全体で7,500人が不適正という問題が2018年明るみに出ました。何が問題かというと、「各省庁の担当者がわからないまま提出した」という形になっていますが、厚生労働省では「国の機関における障害者雇用への関心の低さ」に加え、「障害者の範囲や確認方法に不手際があった」「障害者の計上の方法について正しい理解の欠如があった」と言っています。
本来、民間企業ではハローワークに報告書を提出すると、担当の雇用指導官、次長、所長を含めて書類をすべて点検し、障害者雇用に対する正しい情報を民間企業に提供しますが、霞が関では厚生労働省に提出されたものを誰がチェックし確認したのでしょうか。そこが重要であり問題なのだと思います。
また、障害者活躍推進計画を作るということで、公務部門における障害者雇用マニュアルが策定され、障害者活躍推進計画には作成に加え公表の義務があります。各省庁のホームページに載っているはずですし、厚生労働省が作った形で掲載されていると思いますが、5年経った時にその本質がきちんと捉えられているのか、各省庁で働く障害者がきちんと見ているかという問題もあると思います。
では、「水増し問題」発覚時にどれだけの人が採用されたかというと、人事院では2回の試験が行われました。でも、これは障害者雇用拡大のための試験だったとは思えません。雇用率を一足飛びに達成するため各省庁が試験を2回行ったわけですから、その後「試験しなさい」と言っても、試験は行っていません。私はそこが課題なのだと思います。
 最終的には合格者998人のうち身体障害の人が408人となりましたが、身体障害のうち視覚障害の人は何人だったでしょうか。47人で点字受験の人が3名でした。そういう点ではこの段階で試験にトライし、頑張って採用された方が一定程度いるのです。さらに、地方自治体では自治体ごとに予算組みをすれば、人事委員会を通さず自分のところで採用試験ができるのです。
2018年の際は過去問題集として、視覚障害の人たち用に日視連の工藤室長たちが様々な取り組みを行いました。ところが、最近になって某市の職員採用試験を視覚障害の人が受験したところ、一次試験で落ちてしまいました。情報提供という形で、例えば人事院のホームページには「各省庁が追加で職員を募集している」という情報が載っていますが、よくよく考えてみれば視覚障害者は「過去問題」に当たれないことが多いのです。
つまり、ロービジョンを含めた視覚障害の人は、書店で公務員の「過去問題」を買い勉強する機会のないことがわかったのです。そのため、誰かがきちんと情報提供することが必要です。公務員関係でもハローワークの民間求人でも同様で、「求人が出ている」状況を全体に知らせることが必要なのだと思います。
アンケート結果の細かい数字はまだありますが、まとめに入ります。先ほど言ったように、国の機関で東京の職場には1級が5人、2級が5人、3級が2人勤務し、その他にノーアンサーが1人で、内訳は全盲が4人、ロービジョンが9人でした。疾病名では網膜色素変性症が6人でした。これは、最近集まった公務員交流会の中で、国家公務員の内訳です。そのうち在職5年の方が9名ですから、2018年に障害者枠で採用された人が多いということです。その他、採用後発病された方が4人いました。
逆に、地方自治体の場合は1級が6人、2級が5人、4級が1人で、そのうち全盲が2人、ロービジョンが9人になります。障害者枠の採用が6人で、採用後の発病が6人になります。東京都もそうですが、地方自治体は意外と障害者枠採用を実施していて、そこが国の制度と異なる点です。
アンケートはざっくりと集計し、コメントも入れましたが、一番気になったのは「周囲や上司とのコミュニケーションが十分とれているか」という点です。そう質問をしたところ、両極端の結果が出ました。周囲と上手くやっていける部分と、遠慮して上手く聞けない部分がありました。そういう点で言えば、職場でのコミュニケーションがポイントだと思います。
あとは先ほども触れた支援機材やジョブコーチの部分です。どう制度化し強化していくかは必要なことになります。役所などの場合には、パソコンのソフト等を結構入れ替えます。業者と癒着しているとは思いませんが、「なんで変えるのか」と思うぐらい変えるのです。ただ、そういう時には合理的配慮として、「視覚障害者へのフォローもきちんとします」ということを入札条件に一筆入れるぐらいの取り組みをしないと、いつまで経ってもそこは変わらないと思います。ですから、制度設計自体に私たちが枠をはめていくことも必要です。
また、今回の「職場環境の満足度」というアンケートですが、厚生労働省が作ったサンプルはA4用紙一枚でしたが、私たちが今回使用したものは、コミュニケーションの問題に加え、不足する支援機器や現在使っている支援機器などについても触れました。先ほど、「公務員には障害者活躍推進計画の作成が義務づけられた」と話しましたが、6月1日現在の雇用状況報告書を民間事業者に提出の義務付けをしていますが、その際に、「障害者に対する活躍・推進の取り組みとして、どんなことをしていますか」というアンケートぐらいは求めても良いと思っています。

時間が来てしまいました。何かありましたら質疑の中でお答えしたいと思います。
ご清聴ありがとうございました。

2024年通常総会記念講演
「失明から50年 病院と学校、地域で出会った人々に支えられて」

社会福祉法人日本盲人福祉委員会常務理事
指田忠司(さしだ ちゅうじ)氏

[失明までの経緯]

ただいま、ご紹介いただきました指田忠司(さしだ ちゅうじ)と申します。
私は先ほどの紹介のように1968年に失明していますが、生まれは埼玉県の狭山市です。1953(昭和28)年の4月1日生まれのため、学年は1952年生まれの人と同じで、現在71歳です。実は、私が失明した1968年は大変な年でした。現在、アメリカ大統領選にジュニアが出馬していますが、ロバート・ケネディ氏が大統領選挙に立候補し、キャンペーン期間中にカリフォルニアで暗殺されました。また、マーティン・ルーサー・キング牧師は「I have a Dream」(私には夢がある)と表明し黒人の人種差別撤廃運動を行い、1964年の公民権法制定に大変尽力されましたが、1968年に暗殺されています。
そして1968年6月1日には、私たちがずっと励みにしているヘレン・ケラー女史が、確か88歳ぐらいで亡くなられました。その記事が自分の眼で見た最後ではありませんでしたが、彼女の晩年写真を新聞記事上で見たことを明確に覚えています。
そして、その写真を見てから10日ほど経った6月の半ば、体育の事故が起きました。従来、私は左目が見えていました。右目は見えない片目の生活でしたが、左目は斜視も治り眼鏡をかければ矯正視力で0.4は見えました。そのため、盲学校への通学を拒否し、普通の学校に行っていました。
ところが、高校在学中に体育の事故で失明することになりました。長くなるので省略しますが、体育の授業中に友達の手がぶつかって私の見える目を打ってしまい、1時間ほど休んだ後、所属していた水泳クラブで練習を始めてしまいました。皆さんご存じと思いますが、10年か20年前にスイミングの映画がありましたね。『ウォーターボーイズ』のモデル校の水泳部で、私は1年生として泳いでいたのです。すぐに療養をせず泳いだことが影響したのかわかりませんが、目を打ったことが明らかな原因となって私は網膜剥離で失明したのです。
実際、失明に至るまで医者巡りを2か月ほどしました。どの先生も手術を引き受けてくれず大変がっかりしましたが、最後に現在の新宿区戸山にある国立東京第一病院(現:国立国際医療研究センター病院)の眼科医長の堤修一先生が、「何とかしましょう」と言ってくれました。そして投薬や手術を2回してくれたのですが、最終的には視力は回復しませんでした。
そういう経過で失明し、盲学校に入るまで1年半ほど病院での療養生活を送りましたが、その時にはかなり悩みました。小学校の頃、校長から盲学校に行くように勧められたのに、これを拒否して地元の中学校に進み、自分が目指した高校に進学したのだから、失明しても同じ学校に戻って勉強を続けられると思っていたのです。
しかし、主治医の先生から「視力が回復する見込みはないから、盲学校に行きましょうね」と最終的に告げられて、「もうこれは仕方ない」と思って、盲学校に入ることを決めました。この決定までに1年ほどの時間がかかりました。私は体育の事故で失明したのですが、原因となった体育の先生がいろいろ心配してくれました。学校生活に戻れるかについて多くの方に助言を求めてくださり、皆さんにご心配いただく中で、当時の東京教育大学附属盲学校(現筑波大学付属視覚特別支援学校)の高等部に再入学することになりました。
当時は、視力のある左目も眼前手動だけで、右目は全くゼロでした。盲学校には入学試験があり、点字はボランティアの看護学生に習ったので少しは読めましたが、さすがに試験は大変だろうという話になり、口頭試問で全科目を受けることになりました。驚いたのは入学試験でいきなり50メートルを走らされたことです。一年半入院していたこともあり、大変な思いでフラフラしながら何とか10秒ほどで走りました。「盲学校でも体育を行う」ということがわかって心強く感じました。また、盲学校に入ってからは「点字学習」や「歩行」といったリハビリ関係も学習しました。やはり盲学校では点字が読めないと、様々な授業を受けられず勉強が進まないのです。
そのため、私は入院中からボランティアの看護学生に点字を習っていました。当時、一番励みになったのは、点字でしっかりと自分の記録をつけることでした。そこで日記を書きましたが、先生に「盲学校に行くように」と言われてからは、特にその分量が増えました。当時、点字は1ページに16行か17行書きだったと思いますが、毎日3、4ページは点字板を使って書いていました。同室の人たちは「何しているのか」と思ったかもしれませんが、気にしていたら何もできないため、夕食後も点字でいろいろと書いていました。ですから、書く方は上達しましたが、読む方が大変でした。

[盲学校での点字学習と大学進学]

当時、盲学校では点字関連の授業はありませんでしたが、中途入学の人たちが点字の読み書きを速くできるよう、理療科のベテランの先生が特別に指導してくれました。現在の日本視覚障害者職能開発センターの前身「日本盲人カナタイプ協会」が製作・発行していたカナタイプ練習教材(オープンリール)を使って、点字を一定速度(1分間に120ストロークで)点字を打つ練習をしていたのです。
また、点字を読む方に関しては「ひたすら読むように」と言われました。でも教科書は面白くなかったので、主に五木寛之著『風に吹かれて』等の軽いエッセイを読みました。そういう形で点字学習は徐々に進みましたが、スピードを上げないと受験問題を時間内に読めないため大学受験で大変な思いもしました。
このように、軽い本を速いスピードで数多く読むことも大事ですが、大学受験には基礎学力がないと厳しいため、予備校の夏期講習にも行きました。ただ、最終的には浪人となったため、授業の教材準備を考えて、英語や国語等の単科を受講しました。また、夏期講習などの短期講習も教材が準備できる範囲内で受けました。
私は盲学校に入ることで様々な先輩との出会いがありましたが、タートルで活躍された大橋由昌さんも当時の先輩です。現在、横浜市視覚障害者福祉協会の会長をされています。その頃、私がなぜ大橋さんに関心を抱いたかと言うと、1970年か71年の全日本視力障害者協議会の懸賞論文に大橋さんが1位で入賞されたと協議会の機関誌で読んだからです。正確ではないですが、タイトルは「附属の三無主義」で、大橋さんは附属の「無気力・無関心・無責任」を生徒として自ら批判し、奮起を促す内容の論文を書いていたのです。私はそのことに刺激を受けました。また、大橋さんは私が高2の時に高等部生徒会の生徒会長(専攻科を含む)でしたが、期せずして私が高等部・部会長となったため、相談にものってもらいました。
当時、点字教材というものは全部手書きでした。盲学校では点字教材を左手で読み、右手で書き写していましたが、その時に先輩から後輩へという形で、大橋さんから英語の受験本で有名な西尾孝さんの教材を貰いました。何十ページかの教材を書き写して読んだところ、英文解釈が非常にわかりやすいことに気づきました。
その頃、東大点友会というボランティアグループが中心になり旺文社のラジオ講座の教材を点訳するので、「盲学校の生徒皆で亜鉛板を使い、複製して全国に配ってはどうか」という提案が大橋さんからありました。そこで、私は部隊長のような立場になり、その活動を1年ほど続けました。活動はその後も何年か続いたようです。
そんな形で生徒会活動として点字印刷も行い、最後の年は盲学校で教育闘争も経験しました。1972年の11月から翌年1月にかけ様々な議論があり、教官と生徒集団とが対立してストライキや対話集会等を行いました。私は過激派ではありませんが、高等部をどう取りまとめるかという問題に取り組み、先生方とも協議して皆が卒業できるよう尽力しました。
ただ、大学受験は見事に失敗しました。受験で一番大事な時期にそんな活動をしていたからですが、これは「世のため人のため」と言うのでしょうか。日本の盲人や盲教育のために何かをしたいと考えたし、少しは先生方に話を聞いてほしいと思いました。そこで、ゲバ棒は持ちませんでしたが、点筆を持って文集作りに取り組みました。文集は『おれたちの声』という冊子になり、点字と墨字(ガリ版刷り)で数百部を印刷して学校関係者や家族に配りました。特に私たち障害児を育ててくれた親兄弟に、「自分たちは果たしてどういう生き方をすべきだったか」「自分たちの教育はどうあるべきだったか」と訴えたのです。これが青春時代の思い出です。

[大学の勉学環境とその改善]

一浪した後、1974(昭和49)年、私は大学に入りますが、大学の門戸が未だ開かれていない時代でした。法学部に行こうと考えても当時2、3校しかないため、新たに国立大学等に掛け合ってほしいと思い、盲学校の先生方にもお願いしました。先生方も手弁当で大学と交渉し、「自分たちが点訳しますから」など様々な条件を出してくれましたが、結局は大学側の理解が得られませんでした。
当時、私がお願いしてもダメだったのは、静岡大学、中央大学、東北大学、一橋大学などでした。別に恨みはありませんが拒否されました。当時、受け入れてくれたのは早稲田大学と明治学院大学で、全国的にはいくつかありましたが、関東はその2校でした。私は1年間勉強をしてから何校か受験し、何とか大学に合格できました。早稲田の法学部では点字受験の第一号の合格者となり、先生方も大変喜んでくれました。法律家になるかは別としても、一人前の研究者に育つかもしれないと考え、先生方は勉学環境の充実のため様々な努力をしてくれました。
また、大学時代には「早稲田大学点字会」というボランティアグループに大変お世話になりました。浪人時代から予備校の問題を点訳してもらったり、読み上げてもらったりしていましたが、特に大学に入ってからは法律書の点訳、ドイツ語や英語の点訳など様々な面で大変お世話になりました。当時は早稲田点字会以外に明治学院大学、東京大学、東京女子大学にも点字グループがあり、和光大学、社会事業大学、日本女子大学等には朗読グループもありました。そして、大学入学時には「日本盲大学生会に入らないか」と言われ、参加させてもらうことになりました。
当時の目標はいろいろありましたが、先ほどの話のように大学の門戸が狭いこともあり、大学の門戸開放を柱とした陳情活動を考えました。私個人は大学に入って本当に充実した勉学環境に恵まれました。本来は教授の授業を支援する院生の仕事のようですが、TA(ティーチングアシスタント)という制度があり、これを転用して視覚障害学生の教材づくりや補助として使うように取り計らってくれたのです。それでも、点字のできる方や、英語点字のできる方、朗読経験のある方々を見つけるのは大変で、当時付属盲学校におられた塩谷治(しおのや おさむ)先生にもお世話になりました。実のところ人探しが大変だったのです。私は、早稲田大学点字会に自分の点訳もお願いしましたが、盲学校の後輩で受験段階にある方々の点訳も頼みました。
加えて、盲大学生会で必死に活動したことの一つに国会請願があります。1975(昭和50)年6月、衆議院文教委員会に「大学の門戸開放と勉学環境の改善について配慮してほしい」という請願書を数百名の署名を添えて提出したところ、見事に採択されました。その後、同年8月になりますが、今度は三木内閣の文部大臣 永井道雄さんに、「拝啓 文部大臣 殿」ということで請願書を提出しました。
するとその後、文部省の大学局の課長補佐から事務局長をしていた私に電話がかかってきました。「大臣が会うとおっしゃっていますが、どうですか」と言われ、「こんなことはあり得ない」と思いながら、社会事業大学、和光大学、早稲田大学の盲学生4人と東京大学、社会事業大学等の点訳ボランティア学生のあわせて6人で大臣室に伺ったところ、大臣が30分ほど話を聞いてくれました。1968年の大学紛争以来、「大臣は学生とは会わない」と決まっていたようですが、永井大臣は「私は会いますから」と言って面談し、1か月ほど後には様々な措置ができたのです。
例えば、国立大学で視覚障害者を受け入れた場合は学生一人分の2倍の予算を出すとか、私立大学では私学助成を使うものの100万以上の支出は文部省から国費を出すという話になりました。様々な背景があったと思いますが、私たちの請願が認められ、何とかプラスの方向に進んでいくことになりました。
私自身は大学内でもそういった運動を広めたいと思い、点字サークルの皆さんと一緒に就職問題も含め様々な問題提起のため、大学祭での展示や、啓発活動を行いました。失明から生じた自分の体験をもとに、盲学校では「皆がこんなに元気で頑張っている」というのがわかったのですから、多くの人に知ってほしいと思いました。そして、差別のない世の中にしたいと考えて、一般学生たちとも積極的に交流しました。特に、先生方には様々な事情があったとは思いますが、「早く門戸を開いてください」という形で働きかけてきたのです。

[海外の視覚障害者とのコンタクト]

次は、海外についての話です。私が盲学校を卒業する前後の1972年頃に、「関西SL(関西スチューデントライブラリ)」というグループが発足し、海外の状況に関する報告が1977年頃の機関誌に載りました。学生らによる「アメリカの教員採用試験に関して」という報告で、一般学校で教える視覚障害教員の状況の調査報告が掲載されていたのです。私はこの報告を読み「これは面白い」と思いました。私自身も視覚障害の法律家を目指すグループを作っていたので、視覚障害のある法律家の状況に関して、アメリカ、イギリス、ドイツ他の欧米先進国の状況を調べ始めたのです。
その時に手伝ってくれたのが、オプタコンの輸入と日本での普及に尽力されたキヤノン御手洗氏のご夫人でした。御手洗氏は後にキヤノン社長になりますが、その夫人に1974年お会いできました。当時の活動グループは現在のCWAJ(カレッジ・ウィメンズ・アソシエーション・オブ・ジャパン)で、今はその中のVVI(視覚障害者との交流の会)というグループになっていると思いますが、そちらの方々との交流が始まったのです。
 1977年、私は初めてAFB(アメリカ盲人援護協会)に手紙を書きました。「アメリカの盲人法律家の状況を教えてほしい」ということで、様々な質問を考えましたが、英文タイプを打つのが難しいため御手洗さんに代筆していただきました。2週間ほどして返事が届き、「アメリカには400人以上の視覚障害の法律家がいる」と初めて聞き、「これは更に面白い」と興味を持ったのです。
当時、御手洗さんの紹介で英語を個人レッスンしてくれたイギリスの方が、六本木に住んでいました。毎週そのお宅を訪ね、美味しい紅茶を飲みながら英語のレッスンを受けました。すると、その先生も「いろいろ勉強になるから、イギリスでも調べてみよう」と言ってくれました。そこで同様の質問状を出したところ、イギリスには60人の事務弁護士がいることが判明しました。「これは面白い」と思い、今度はドイツも調べてみることにしました。
ドイツについては、千葉大学の小島純郎(こじま すみろう)先生にお願いして、先生から貰った論文を友人が翻訳し、まとめる形で研究の深みにはまっていきました。視覚障害者の法律家関係の情報は、様々な方のルートを頼り、現地からの情報を取り寄せる形で進みましたが、そこでまた話が拡がりました。

[障害者雇用の研究と海外事情の紹介]

1980年当時「身体障害者雇用促進協会」という団体が東京にあり、障害者雇用に関する調査研究を募集していました。その募集に応じた文月会(日本盲人福祉研究会)の調査委員会の一員として視覚障害者の専門職従事の状況に関する調査を行いました。調査には、全体の企画を立てた直居鐵(ナオイ テツ)先生、現日本点字図書館会長の田中徹二(たなか てつじ)先生らとともに研究を進めたのですが、海外部門の調査は私が一人で担当しました。この調査をきっかけに視覚障害者の雇用だけでなく、障害者の雇用全般の研究をすることになりました。
実は1980年代半ば、ドイツのミュンヘン大学で教えていたハインリヒ・ショラー教授から頼まれて、来日時の日程調整など、私は秘書官のような役目を担当していました。というのは、ショラー教授が日本、韓国、台湾、中国などで講演される時は、その件を私のところに全部依頼してきたからです。スケジュール調整に加え、国内で話したことのない大学の先生方とショラー教授は交流を持っていました。「何時来るのか」「来る時はどうしたら良いか」などについて、私は電話で打ち合わせを行いました。
一部の人はご存じだと思いますが、1987年に笹川良一という人が日本船舶振興会(現在の日本財団)のトップとして、競艇から得た収益を様々な福祉活動に使っていました。その頃、私自身のためではありませんが、ショラー先生からの紹介でフィラデルフィアのオーバーブルック盲学校の留学プログラムに日本からも盲学生を派遣してほしいと言われました。その資金をアジアの中で一番豊かな日本からも出してほしいという要請があり、私は募金集めに協力するようにと依頼されました。松井新二郎先生からも「指田君、やってあげたらいいよ」と言われ、私もオーバーブルック盲学校のアンケ・リムロットさん(ドイツ系の方)を手伝い、各所の財団を回りました
その後留学プログラムが発展し、コンピュータと英語だけでなく日本語も教えることとなり、日本語教師の募集、プログラムのための資金獲得のためトヨタ財団を訪れることになりました。
1990年、トヨタ財団の方から「指田さん、あなたは自分でも研究しているのでしょう」と言われたので、「はい、しています」と答えると、「あなたも自分のための研究をしなさいよ」と言われました。「35歳が応募限度なので、奨学金を貰って研究しなさい」と言われ「そういう道もあったか」と思いました。今さらですが自分は能力を超えたことばかりしていたと思い、それなら自分のやりたいことをと思い奨学金プログラムに応募しました。その時に行なったのが「視覚障害者の職場における支援システムに関する研究」です。アメリカやイギリスの事例を中心に研究したのです。

[海外とのコンタクトを支えてくれた人々と通信手段の変遷]

こういう形で調査も行いましたが、やはり海外とのコンタクトが大変貴重でした。情報源をいくつか言うとアメリカやイギリスの視覚障害者団体や視覚障害教育団体が発行する月刊誌があり、点字で毎月読んでいました。有料購読の機関誌もありますが、無料で送ってくれる人もいたし、海外旅行のお土産として貰った機関誌もありました。そういったものを見て情報を集める一方、1991年は2か月間トヨタ財団の研究として米国・英国・ドイツを訪ね、約40人にインタビューを行いました。
これは本当に様々な方のお手伝いで可能となりました。住所や電話番号のわかる場所にアンケートを出し、その中で会ってもらえる方を訪ねました。アメリカの西海岸から東海岸まで行き、イギリス、ドイツに渡り2か月ほど各地を訪問しました。この調査ではCWAJ・VVIの方々にお世話になり、特にまとめに関しては多くの方々にご助力いただきました。
ここまで外国の話ばかりで恐縮ですが、大学時代にはボランティア学生のグループにも大変お世話になりました。卒業後は地域ボランティアに頼まないと、週1回の模擬テストや教材等の準備ができないことが判明し、卒業翌年頃から同じ自治体に住む和光大学卒業生とともに、視覚障害者の会の母体となる「図書館を考える会」に入会し、「視覚障害者サービスを公民館でお願いできないか」と、地元の社会福祉協議会に対して働きかけました。
当時は、埼玉県川越市に県立図書館があったので、そちらで朗読サービスを提供していただくことになりました。基本的には1回2時間でしたが、困ったときは朗読者4人が交代で8時間ほど支援してくれました。朝9時から夕方5時頃まで連続して本を読んだり、録音をしてくれました。試験用資料もありましたが、視覚障害法律家の海外での状況を調べる参考書等もあったので、ドイツ、アメリカ、イギリス、フランスにおける法律家の養成課程を調べて記載しました。その時の未完原稿300枚は、今も自宅に保管しています。
その頃にしていた活動として、法律家の可能性を考える「ユスティティアの会」を77年から作っていました。そちらでは情報交換もしていましたが、問題なのは点訳や朗読に際し名前の読み方がわからない点でした。そこで「人名辞典を作ろう」という話になりました。また法律用語の略語略記が難しかったので、ラテン語をはじめ様々な文献から法律用語として出てくる英語、フランス語、ドイツ語の略語マニュアルを作り、ユスティティアの会編集発行で、日本点字図書館の用具部で2冊販売しました。
他には市民としての活動も行いました。地元のボランティア養成のため、ボランティアの協力を得ながら「視覚障害者の会」を作ったところ、10年間会長をすることになりました。そんな状況を周りが見かね、松井先生からも「指田君、これからどうするんだ」と言われ、「何か良い仕事があればお願いします」と言いつつ、トヨタ財団の研究をすることになった話をすると、「今度、障害者職業総合センターができるので、そこを推薦するよ」と言ってくれました。当時の大学の総長やいろいろな方に推薦書をいただき、それまでに書いた論文を業績としてまとめて提出し、障害者職業総合センターに就職しました。

では、障害者職業総合センターで取り組んだ研究についてのお話をします。センターに入る前から続けてきた「視覚障害者の職場における支援システムに関する研究」は、トヨタ財団に提出しましたが、前段階の調査でイギリスのパーソナル・リーダーサービス(個人朗読サービス)を見つけました。これは視覚障害者が働く際に必要な文献やタイピング整理を手伝う人に時給を支給するシステムです。この制度を紹介したところ、視覚障害者の運動団体の方々がそれを読んで参考にしてくれました。
確か1988年度だったと思いますが、その頃「職場介助者制度」がスタートしました。私が直接提案したのではありませんが、視覚障害者団体が海外事例を陳情に入れることで、それが実現したのだと思います。
1992年、障害者職業総合センターで「職場介助者制度の状況」を調査したいと考え、様々な団体にアンケート調査を実施しました。その中のひとつが、現タートル理事長の重田さんが代表をされていたこともある「JVT(全国視覚障害教師の会)」です。
 他の障害者と比べ大変出遅れていた視覚障害者の一般雇用問題として、「どういう支援が必要か」「どういう支援があったら良いか」にも取り組みました。初めての取り組みでしたが、現在も通信社の翻訳業務に従事され活躍している方が、ちょうど就職活動を行っているという話が飛び込んできました。その方に聞くと「やってみたい」ということなので、私も通信社に出向き、様々な調整をしてから試験を受けてもらう形になりました。
また、就職後の業務を考え、当時のMS―DOSレベルのワープロの手伝いもしました。特に、英語の読みについては十分なものが無かったので、音声化ソフト『VDM100』の英語読み辞書をカタカナ書きで作成し、自動変換ができるように調整しました。それを提供して「仕事がしやすくなれば良い」と思いつつ何回かは研究発表会で事例報告を行いました。
その次の出来事は、当時の労働省か厚生労働省の話になると思います。雇用労働が多い中、様々な仕事のうち雇用促進協会やその後の「独立行政法人高齢・障害・求職者雇用支援機構」の研究で対象とならなかった三療(あんま・マッサージ・指圧・鍼・灸)に従事する視覚障害者の状況に関し、調査を行いたいと考えました。そこで、現在の筑波技術大学名誉教授の藤井亮輔さんのグループと共に調査を行いまとめました。三療業に関しては、雇用支援機構での唯一に近い実態調査になると思います。
そして3つ目の調査関係です。皆様も関心をお持ちと思いますが、ヨーロッパやアメリカの障害者の状況、権利保障の状況に加え、2006年に国連で採択された障害者権利条約等の状況に関して、どうフォローするかという研究をしてきました。言語が英語、フランス語、ドイツ語など多岐にわたるため一番大変でした。また、厚生労働省からの注文も多いうえに、内閣府も関係してきます。
そういう中で、多くの大学関係者と接触を取りながら様々な方に原稿の執筆を依頼して、1冊の報告書にまとめました。「3か月から半年ぐらいで全部調査せよ」とのかなり厳しい注文もありましたが、「日本として権利条約にどう対応するか」という情報が少ないために、障害者職業総合センターに様々な発注が来たからです。そこで大学関係者など多くの方にお願いして情報を短期間で原稿にまとめ出版したのですが、大変面白かったと思います。
その関係で海外にも2回ほど行きました。1回は「フランスの雇用制度について運用状況を調べるように」というものでした。8日間の出張でしたが、月曜から金曜まで5日間しかないため10か所すべてを終日通訳つきで回りました。上司と共に訪問し様々な情報を収集し、まとめて出版する形になりました。他にはドイツやアメリカも訪れ、いろいろな状況を確認しました。
特にアメリカでは、私が以前から情報交換していた人々が出世し、クリントン政権下では教育省リハビリテーション局長になっていました。また、アメリカの盲人団体を通して訪問したところ、EEOC(Equal Employment Opportunity Commission)という障害だけでなく人種差別も含めた「雇用機会均等委員会」の偉い方々にも直接会えました。そこでの質問を通じ、様々な情報を収集させてもらいました。時期的にも本当にラッキーだったと思います。
コミュニケーションに関してはフランス語を除けば、ドイツ語は若干出来たし、英語はほぼ自分の力で話せたので、さほど苦労はしませんでした。ただ、情報収集を行うには時差があるため、夜中に起きて架電するケースが多かったと思います。インターネットが使えるようになったのは90年代半ば以降なので、当時は時間がかかり体力的にも大変でした。
先ほど申し上げましたが、コミュニケーション面で手伝ってくれた方は、国内では故松井 新二郎先生、先年亡くなられた元日本ライトハウス理事長の岩橋 明子先生、そして田中 徹二先生などがいらっしゃいます。そういう方々に多くの示唆をいただきながら海外とのコンタクトを続けてきました。CWAJの中では、特に岡村さんという日本人と結婚されたアメリカ人の方から、文章作成等の面でもお世話になりました。
私自身としては視覚障害になってから新たな出会いの連続でした。新しい世界をずっと追いかけてきた50年だと思います。こういった経験をもとに「何をどう残すか」という話ですが、私は1968年に失明しその年に病院に入ったので「失明50周年病院同窓会」というものを勝手に企画したところ、当時同じ病室の方はほぼ亡くなられていました。ドイツ語を教えてくれた方は当時50代でしたから、50年経った現在では100歳を超えています。そのため、病院同窓会を企画しても該当者が見当たらなかったのです。
ただ、今も元気に暮らす方が鹿児島に一人いたので、その方を訪ねようと思いつきました。そこで「病院同窓会をやります」と言って2018年に勝手に鹿児島に行き、彼の自宅を訪ね、様々な話をしてきました。やはり、鹿児島と言うと知覧の特攻隊基地や、鑑真和上が漂着された坊津(ぼうのつ)の浜、あとは玉川大学創立の小原國芳先生等にも縁があるということで、そういう方々の記念碑的な場所を一緒に訪問してきました。

[今後の課題]

今後のことですが、私は現在まで先人たちの力や知恵で職業生活を発展させてきました。そこで得た成果を、単なる報告書だけではない形にまとめたいと思います。報告書は次第に古くなりますし、歴史的な価値はあるかもしれませんが、今から思えば「間違っていた」という場合も生じます。それを消すことはできませんが、私自身としてはそれが生じた背景を皆さんにお伝えできればと考えています。
今回こうした話の機会をタートルの皆様からいただけたことは大変光栄で、貴重な機会であったと思います。身体がもう少し良くなって、皆様と接する機会を持てたらと考えます。長時間になりましたが、ご清聴ありがとうございました。

お知らせコーナー

タートル情報誌今後の発行予定について

情報誌67号 2025年7月発行予定
・2024年11月交流会講演
「現在の歩行訓練と歩行訓練士の役割~なぜ単独歩行が必要か~」
NPO法人グローイングピープルズウィル テクニカルアドバイザー
歩行訓練士、視覚障害リハビリテーション協会理事 中村 透 氏
・2025年1月交流会講演
「フリーランスという働きかたにいたるまで~私のリカバリーストーリー~」
精神保健福祉士・視覚障害者の就労を支援する会 運営委員 高尾 朋子 氏

以上、充実した内容をお届けしますので、ご期待ください。

ご参加をお待ちしております!!

◎交流会

本年度は9月、3月の第3土曜日にオンラインと一部、対面で行います。毎回、講演を聴いたあと、講師との質疑応答の時間も設けます。

◎タートルサロン

上記交流会実施月以外の毎月第3土曜日の14:00~16:00に行います。情報交換や気軽な相談の場としてご利用ください。
他にも、原則第1日曜日には、偶数月にテーマ別サロン、奇数月にICTサロンも行います。

一人で悩まず、先ずは相談を!!

「見えなくても普通に生活したい」という願いはだれもが同じです。職業的に自立し、当たり前に働き続けたい願望がだれにもあります。一人で抱え込まず、仲間同士一緒に考え、気軽に相談し合うことで、見えてくるものもあります。迷わずご連絡ください! 同じ体験をしている視覚障害者が丁寧に対応します。(相談は無料です)
*電話やメールによる相談はお受けしていますので、下記の事務局まで電話またはメールをお寄せください。

ICTに関する情報提供・情報共有を行っています。

タートルICTサポートプロジェクトでは、就労の場におけるICTの課題に取り組んでいます。ICTについては、専用のポータルサイトやグループメールをご活用ください。

タートルICTポータルサイト
https://www.turtle.gr.jp/hpmain/ict/

タートルICTグループメールへの登録は以下をご参照ください。
https://www.turtle.gr.jp/hpmain/ict/activity-2/ict-groupmail/

正会員入会のご案内

タートルは、自らが視覚障害を体験した者たちが「働くことに特化」した活動をしている「当事者団体」です。疾病やけがなどで視力障害を患った際、だれでも途方にくれてしまいます。そのような時、仕事を継続するためにはどのようにしていけばいいかを、経験を通して助言や支援をします。そして見えなくても働ける事実を広く社会に知ってもらうことを目的として活動しています。当事者だけでなく、晴眼者の方の入会も歓迎いたします。
※入会金はありません。年会費は4,000円です。

賛助会員入会のご案内

賛助会員の会費は「認定NPO法人への寄付」として税制優遇が受けられます!
視覚障害当事者はもちろん、タートルの目的や活動に賛同し、ご理解ご協力いただける個人や団体の入会を心から歓迎します。
※年会費は1口3,000円です。(複数口大歓迎です)
眼科の先生方をはじめ、産業医の先生、医療に従事しておられる方々には、視覚障害者の心の支え、QOLの向上のためにも是非、賛助会員への入会を歓迎いたします。また、眼の疾患により就労の継続に不安をお持ちの患者さんがおられましたら、どうぞ、当法人をご紹介いただけますと幸いに存じます。
入会申し込みはタートルホームページの入会申し込みメールフォームからできます。また、申込書をダウンロードすることもできます。
URL:http://www.turtle.gr.jp/

ご寄付のお願い

税制優遇が受けられることをご存知ですか?!
タートルの活動にご支援をお願いします
視覚障害者からの就労相談希望は、本当に数多くあります。また、視力の低下による不安から、ロービジョン相談会・各拠点を含む交流会やタートルサロンに初めて参加される人も増えています。それらに適確・迅速に対応する体制作りや、関連資料の作成など、私達の活動を、より充実させるために皆様からの資金的ご支援が必須となっています。個人・団体を問わず、暖かいご寄付をお願い申し上げます。
当法人は、寄付された方が税制優遇を受けられる認定NPO法人の認可を受けました。
また、「認定NPO法人」は、年間100名の寄付を受けることが認定条件となっています。
皆様の積極的なご支援をお願いいたします。
寄付は一口3,000円です。いつでも、何口でもご協力いただけます。
寄付の申し込みは、タートルホームページの寄付申し込みメールフォームからできます。また、申込書をダウンロードすることもできます。
URL:http://www.turtle.gr.jp/

≪会費・寄付等振込先≫

●郵便局からの振込
ゆうちょ銀行
記号番号:00150-2-595127
加入者名:特定非営利活動法人タートル

●他銀行からの振込
銀行名:ゆうちょ銀行
金融機関コード:9900
支店名:〇一九店(ゼロイチキユウ店)
支店コード:019
預金種目:当座
口座番号:0595127
口座名義:トクヒ)タートル

ご支援に感謝申し上げます!

多くの皆様から本当に暖かいご寄付を頂戴しました。心より感謝申し上げます。これらのご支援は、当法人の活動に有効に使用させていただきます。
今後とも皆様のご支援をお願い申し上げます。
活動スタッフとボランティアを募集しています!!

あなたも活動に参加しませんか?

視覚障害者の就労継続・雇用啓発につなげる相談、交流会、情報提供、就労啓発等の事業を行っております。これらの事業の企画や運営に一緒に活動するスタッフとボランティアを募集しています。会員でも非会員でもかまいません。「当事者」だけでなく、「晴眼者(目が不自由でない方)」の協力も求めています。首都圏以外にも、関西や九州など各拠点でもボランティアを募集しています。
具体的には事務作業の支援、情報誌の編集、HP作成の支援、交流会時の受付、視覚障害参加者の駅からの誘導や通信設定等さまざまです。詳細については事務局までお気軽にお問い合わせください。

タートル事務局連絡先

Tel:03-3351-3208
E-mail:mail@turtle.gr.jp

編集担当者

理事 杉田 ひとみ 大橋 正彦 芹田 修代 協力者 高橋 律子氏

奥付

特定非営利活動法人 タートル 情報誌 『タートル第66号』 2025年4月11日発行 SSKU 増刊通巻第8140号
■ 発 行 特定非営利活動法人 視覚障害者の就労を支援する会 理事長 神田 信
■ 事務局 〒160-0003 東京都新宿区四谷本塩町2-5 社会福祉法人 日本視覚障害者職能開発センター 東京ワークショップ内
■ 電 話03-3351-3208
■ 連絡用メール mail@turtle.gr.jp
■ URL http : //www.turtle.gr.jp/
■ 公式LINEアカウント https://line.me/R/ti/p/@985ziykq?oat_content=url