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A氏のメモをめぐって


 ある日組合員のA氏から、私にメモが渡された。これを執行委員会で検討してほしいというのである。メモの内容は、
一 馬渡さんの職場復帰を実現するには、税関当局の温情に訴えた運動が必要である。すなわち馬渡さんと夫人を税関首脳部に引き合わせ、涙を流してお願いする。それでもだめなら、税関長室の前の廊下に坐って夫妻で涙をもって訴える。
二 組合ニュースでは、正当論だけを主張するのではなく、当局の温情を引き出す意味のことも書いてゆく。理屈だけで攻めるのではなく、当局側に逃げ道を作っておいてやる。
三 訓練を終わるまでは身分を安定させ、終わったら復帰しないで税関を辞めるなどといった妥協も、支部長と税関当局の間で取り引きすること。
四 それでもむずかしい時には、馬渡さんを労働組合から脱退させることを条件に、身分確保をはかることなども、検討する必要がある。
 私はこれを見てあきれてしまった。あまりにも敗北的な戦術なのである。まだ運動がはじまったばかりだというのに、もう妥協しろとか、取り引きを開始しろという。しかも、障害者の働く権利など主張したら当局を硬化させるだけだから、そういう事はやめろというのである。だが、A氏はけっして悪意からこのようなことをいうのではなく、むしろ逆で、彼なりに馬渡さんの生活の保障を真剣に考えたあげくのメモだったのである。今でこそ私たちは「障害者の職場復帰は当然の権利」などと主張してはばからないが、当時はそんななまやさしいものではなかった。田中豊氏や神視樟守る会、全視協の黒岩氏などの話は頭の中で理解できても、いざそれを運動に展開するとなると、なかなか簡単に割り切れるものではない。盲人の職場復帰という前代未聞のたたかいは、あまりにも壁が厚く感じられ、その実現に見通しが持てない以上、A氏のような意見が出てもふしぎはなかった。十八人いた執行委員の中にも、馬渡さんの職場復帰が実現できると確信を持っているのは、ほんの数人でしかなかった。
メモをめぐって執行委員会の意見は三つに割れた。一つは、同情に訴えた主張を中心にすえ、あまり権利だとか法律といったことはいわない方がよいのではないか。税関当局とも、正面からぶつかり合うのはなるべく避け、裏取り引きを大切にしたらどうかという意見。二つめは、現在のように弾圧がはげしい中では、当局との取り引きなどとうてい考えられない。障害者の労働権を堂々と主張し、全国的なたたかいに発展させる中でだけ、勝利の見通しが開けるという意見。三つめは、その折衷的な意見で、権利は正々堂々と主張し、理論的にも法律的にも要求の正当性を明らかにし、全国的なたたかいに発展させる。その一方で、職場労働者の同情にも訴え、幅広い層の支持を獲得する。税関当局との正面交渉とは別に、可能な限り裏交渉も追及してゆく、という主張であった。
執行委員会では、感情的な怒鳴り合いまで起こって、延々三時間に及ぶ大討論になった。そして最終的には、権利も主張するが同情にも訴えるという、第三の意見にまとまったのである。A氏のメモにあった「組合脱退」と「夫妻による涙の訴え」ということは、労働組合が取るべき戦術ではなく、また、夫妻の気持を傷つけるということから、排除された。馬渡闘争は、けっしてきれい事ずくめで進行したのではない。全税関労組が最初から立派な組合だったわけでもない。これからも続くが、馬渡闘争は泥くさい人間的な成長の過程であった。
支部は、他の労働組合や民主団体に支援を要請することを決め、多数の組合員がオルグに散った。どこの労働組合へ行っても、皆、一様におどろきの眼でむかえられた。「えっ、メクラの人を職場復帰させようというのですか? そんなバカな!」とあきれる人。「眼が見えないで、いったいどんな仕事ができるのですか」と疑問を持つ人。「そんな非常識な運動が、成功すると思っているのですか」と批判する人。各地の優れた労働組合幹部から、こうしたさまざまな反応が示された。身体障害者雇用促進法という法律があることを知っている人は、ほとんどいなかった。組合員は必死に説明した。話をすすめるうち、やがて「そういえば、うちの組合員にも前に失明した人が居たけれど、その時は職場復帰闘争なんて思ってもみなかった。みんなで出し合った餞別を貰って辞めていった」「なるほどな、労働者の働く権利を守るということには、そういうことも含まれるのか」「たしかに今まで気がつかなかったが、こういうことは大切なたたかいだ」などという、反応に変わっていった。
馬渡闘争は、周囲の労働組合に、今までなかった新しい型の運動を投げかけていったのである。話が終わると、どの団体・労働組合も税関長あての「職場復帰要請書」に、こころよく印鑑を押し署名してくれたが、この中には総評議長の市川誠氏の名前もあった。こうして集められた団体署名は、五〇団体に及んだ。支援の輪は、急速にそして大きく拡大されていった。


さがしあてた前例


 支部執行部は税関長交渉を申し入れたが、当局は「個人の人事問題については、いっさい、交渉に応ずるつもりはない。だいたい官庁の中で眼の見えない人が働いているなんていうことは、今まで聞いたことがない」との一点張りだった。私たちは、官庁の中で働く視力障害者の例をぜひとも知りたいと思った。全国に国家公務員が百万人も居るのだから、かならずそういう人が居るにちがいなかった。もしそれが分れば、当局側の壁をつき崩すことができるかもしれないのである。そこで、全視協の黒岩会長に問い合わせたが「大阪の共同通信社に視力障害者が居るほか、学校の教員で職場復帰した人は少しいるけれど、普通の官庁では知りませんね」という返事であった。そんなところへ、先に依頼しておいた全税関労組中央執行部から「九州の財務局と東京国税局に、眼の見えない人が働いているそうだ」と、そこの電話番号と組合役員の名前を連絡してきた。財務局も国税局も、税関と同じ大蔵省の外局である。
さっそく現地へ、くわしい実情を問い合わせることにした。九州のある財務局の場合、そこの労働組合の役員に連絡をとったところ「たしかにおっしゃる通りの眼の不自由な人は居ますが、本人は必死につらさに耐えているようなので、できれば、そっとしておいてあげたい。その人に迷惑がかかるといけないから、くわしい事は言いたくありません。公表してもらっては困ります」という返事があり、残念だが仕方なかった。東京国税局の方は、全国税労組の役員(国税局支部長)である斉藤豊さんから「お越しいただけるなら、いつでもくわしいお話をします。必要なら本人に会わせてあげます」という好意ある回答が返ってきた。私は期待に胸ふくらませて、東京国税局を訪ねた。東京国税局の総務部相談室に勤務している山口正彦さん(当時五十二歳)がその人で、斉藤さんも同じ職場で面接相談の仕事をしていた。山口さんは、おぼろげながら物の輪郭は解るが、字は全く読むことができないという視力障害であった。
仕事は、あらゆる税金に関して、むずかしい税務法令の解釈についての問い合わせや苦情などに対し、電話を通じて応対するという「テレフォンサービス」であった。山口さんは、昭和十九年に税務署に入り、ついで昭和二十四年以来国税局で、大企業に対する納税の監督をする調査部や、大口脱税の摘発を主とする査察部で活躍してきた大ベテランで、総括主査という税務署の副署長に相当する重職まで歴任した人である。視力障害さえなければ、とうに大税務署の署長になっている人であろう。ところが昭和三十六年、原因不明の病気で急速に視力が減退しはじめ、三十七年から約二年間休養し、病院を転々と変えて治療にはげんだが、視力は回復しなかった。重度の視力障害であった。
上司から「公務員宿舎の専任管理人にならないか」という好意あるすすめがあった。本人がその気でいたところ、改めて上司や同僚、友人などが心配してくれた結果「現在の税務相談室は、行政サービスとして今後大きく発展していくだろう。今までの知識を生かし、相談官として働いてみてはどうか」という話がきた。東京国税局にそれまであった税務相談室は、書面相談と面接相談の二つだけであったが、国税当局はいろいろ考えた末に、新たに「テレフォンサービス」を開設し、山口さんの職場復帰を保障したのである。一九六五(昭和四十)年三月、全国で初めて、しかもたった一人の「国税局テレフォンサービス」が誕生した。税務相談官としてやってゆくためには、大ベテランとはいえ、改めて法律や通達などを完全にマスターしなければならず、本人の血のにじむような努力が払われた。膨大な法律や通達を、連日、昼は職場で同僚に聞きあわせたり、帰宅してからは深夜まで奥さんや息子さんに読んで聞かせてもらい、じっと記憶した。この間に点字も練習し、必要な箇所を書き留めていき、やがて、その点字メモは二メートルもの厚さに達したという。
今では、山口さんは税務相談室においてかけがえのない重要な存在となり、毎日精力的に税金の相談に答えるかたわら、後進の指導、監督にあたっている。彼のために新たに作られた「テレフォンサービス」ではあったが、開設してみると、山口さんの熱意と努力によって非常に好評であり、相談件数は爆発的に増えていった。そこで国税庁では、全国十一の国税局税務相談室に同じくテレフォンサービスを設け、さらに、傘下の百を越える分室にも、面接と合わせてテレフォンサービスを行なわせるようになっている。
以上が斉藤さんから聞いた話である。山口さんにも会って話を聞こうと思ったが、仕事がとても忙しそうなので遠慮した。物静かに電話で親切に応対をしておられた事を、今でもおぼえている。国税当局は、かつて労働組合(全国税労組)の分裂を策し、さまざまな卑劣な手段をもって労働者に弾圧と差別を加え、第二組合をデッチ上げたところであるが、この山口さんの処遇に関する限り、障害をもつ人の労働権保障のあり方について、模範を示したのである。すなわち、現在ある仕事に無理やり障害者を合わせるのではなく、障害に見合ったように仕事の内容を改善し、このように新たな仕事の分野を開発してそこに障害者を配置するという、まさに身体障害者雇用促進法の真髄をみごとに適用したものといえる。
さて、前例が無いことを復職拒否の口実のひとつにしていた税関当局は、これを聞いて、かなり動揺したらしい。まさかと思っていたことが、現実に存在したのだ。当局はただちに国税局へおもむいて、くわしい調査を行なっている。だが、これだけでは復職は認めなかった。あれほど「前例がないから」などと言っておきながら、いざその前例が持ち出されると、今度は「国税局の人とは条件や仕事の内容がちがう。また国税局の人は、失明してすぐ仕事についたのではなく、二年間休職してその間に本人は、かなり努力している。国税局は休職ののちに本人の知識や経験を生かして配置転換を行なったのだ。馬渡さんの場合は、まだ休職期間がたくさんあるし、訓練も積んでいない」ということを新たな口実にしてきた。
これから三年余の後に、馬渡さんの職場復帰が実現するのだが、そのとき配置された職場というのが、電話と面接による対外サービスを仕事とする税関案内所であったことは、税関当局が国税局の山口さんをそのモデルにしたということが明らかである。しかし、これが実を結ぶためには、まだまだながいたたかいが必要であった。


支援の輪を拡げて


 障害者運動における進歩的な全国センターである障全協に、支援を約束してもらうことは、この場合、ぜひとも必要なことであった。私は永田事務局長に電話した。名高い日教組の中央執行委員である。二百名足らずの小さな労組の支部役員である私など、相手にしてもらえないかもしれないと不安であった。電話に出た永田氏は「ああ、その話なら全視協の黒岩さんから聞きましたよ。大事なたたかいですね。これが成功することは、障害者運動にとって大きな意義があると思いますよ。ええ、いつでも会いますよ」と気さくに応じてくれた。胸の不安がスッと消えるとともに、力強い信頼感がそれにとって変わった。私は日教組の本部へ出かけた。そこでは、近く開かれる障全協全国集会において、私たちが訴えの発言ができるよう、取りはからってくれることを約束され、そのうえ、参考資料をたくさんもらった。
一九七〇年十一月二十九日、障全協全国集会が開催された。組合からは、私のほか二名が参加した。私たちは、障害者がこのように一堂に会するのを見たのは初めてであった。大きな声をあげて会話を交し合う視力障害者、壇上の手話通訳をじっと見守る聴覚障害者、会場の最前列で、車椅子に乗ったり机の上に横になったまま聞きいる肢体障害者等々の光景は、私たちのドギモを抜いた。障害者がこんなに多く、しかも、苦労をして全国から集まってきたということに、感激とともにその力強さ、運動の拡がりを思った。私は壇上に登って訴えた。「皆さん、それまで普通に働いていた労働者が、ある日突然、身体障害者になったとたんに、無能力者扱いされ、職場を追い出されてしまう。こんなことが許されてよいでしょうか・・・」終わったとき、会場をゆるがすような大きな長い拍手でむかえられた。あまりの反応の大きさに、訴えた私自身がびっくりしてしまった。私はうれしかった。私たちのたたかいが支持されたのである。全国的な支援が約束されたのである。
馬渡闘争は、こうして、少しずつ人びとに知られるようになった。だがそれは、まだまだ限られた人でしかなかった。何とか、マスコミに取り上げられることが望ましかった。国民的な支持があれば、税関当局もその頑固な態度を取りつづけることは困難になる。ある組合員は、朝日、毎日、読売、サンケイ、東京、神奈川といった新聞に、軒なみに投書をした。執行部も各新聞社に電話を入れ、記者に会って、運動の実態を説明し、記事にしてくれることを頼んだ。日頃マスコミが、障害者問題を人道的によく取り上げているし、「盲人の職場復帰運動」などというセンセーショナルな問題ならば、当然記事になるものと思っていたが、あにはからんや、どの新聞社からも反応は全くなく、投書も掲載してくれなかった。 労働組合が関係した問題になると、マスコミは、とたんに冷淡になるようであった。
ところが、それから一ヵ月程過ぎた頃、神奈川新聞社から組合に電話があった。神奈川新聞は、県内に十数万の読者を持つ中堅の地元紙である。「投書が編集局の企画室に回送されてきたので読んでみた。おもしろい運動と思われるので、取材したうえ、取り上げてみたい」というものであった。マスコミからの最初の反応である。来たのは、黒沢三代志という企画部の記者であった。黒沢記者は、障害者の問題にもかなりくわしく、そのうえ、私たちの運動に協力的であった。執行部から小泉支部長、高嶋副支部長、それに私が応対し、馬渡闘争の経過とわれわれの主張などを細部にわたって説明した。その後、黒沢記者は、一週間ほど県内をかけまわって取材をかさねたらしい。そして書き上げた原稿をもって、再度訪ねてきた。そこで「この原稿をよく読んで、悪い所があったら指摘してほしい」というのである。こんなに誠実な人とは思ってもみなかった。それだけでなく、県内で調査した障害者の雇用実態についてのメモを「役立つならば使ってください」と渡してくれたのである。
長い原稿であった。馬渡さんの失明に至る経過、休職期間中における(各自治体や企業との)収入の比較、障害者雇用の実態、企業主へのインタビュー、全盲者の雇用が皆無の事実、馬渡さんの職場復帰闘争の意義、労働組合や本人の主張等々がくわしく書かれていた。十二月二十二日の神奈川新聞は、一ページの半分を占める大きさを使って、この特集記事を掲載した。「あと二年で解雇」「閉ざされた全盲者の就職」「失明した馬渡藤雄さん」「休職制度と身障者の雇用」という大見出しが掲げられていた。その日、黒沢記者は、発行された十部の神奈川新聞を届けてくれた。お礼の電話をすると「いやあ、あなた方も、これから大変でしょうが、がんばってくださいよ。今日、税関からうちに抗議がきましたよ。税関側も努力しているのに、組合側の言い分だけ載せるのはけしからんということらしいんですがね」といって笑った。黒沢記者は、この数年後に、亡くなられたという。だから馬渡さんが復職を勝ち取ったことは知らない。惜しい人であった。
まもなく、全視協の機関誌「点字民報」、全障研の「みんなのねがい」、憲法会議の「憲法ニュース」に、それぞれ馬渡闘争のもようが掲載された。馬渡さんの家へげきれいや問い合わせの手紙が寄せられるようになった。運動は、ますますひろく知れわたり、税関当局を包囲していった。


税関当局の変化


 国立東京視力障害センターへの入所については、福祉事務所でかなり努力してくれたらしく、ほぼ入所まちがいなしという返事を得ることができた。ここにきて、私たちはこのセンター入所を、何とか研修扱いによる税関からの派遣ということにしたかった。研修扱いになれば、税関に再び戻って働くことが前提になるのであるから、身分は確実なものとなり、首切りの心配はなくなる。それのみか、賃金が支給され家族の生活も保障される。今のままでは、たとえ視力障害センターに入れたとしても、あと二年後には休職期間が切れて、解雇される可能性が強い。だが、税関当局は頑として、それを認めようとはしなかった。しかし、運動が税関だけでなく全国的な支持を受けるようになってきた中で、当局側もかなり前向きな方向で考えざるを得なくなってきていた。全税関の中央執行部が十一月十七日に行なった関税局長交渉の場において、当局側は「大蔵省として馬渡問題の担当者を設置して検討を行なう」「二年後の休職期間が切れる時点には、その時に何とか努力する」と答えている。
明けて一九七一年一月から、新たな署名運動が開始された。これまで行なってきた団体単位の署名ではなく、個人署名である。三月三日には「馬渡さん支援と激励集会」が、一二〇名の組合員を集めて、盛大に開かれた。この集会のために、全視協から黒岩会長、神視障守る会からは市川会長ほか五名が応援にかけつけてくれた。席上、馬渡さんは、視力を失うとどんなに不安なものか、日常生活や将来に向かっての生活不安、首切りの心配などを切せつと訴えた。会場は静まりかえっていた。つぎに立った黒岩さんは、馬渡闘争が日本全体の障害者運動において、重要な役割をになっていることを述べたあと、「日本では、独占資本本位の政治によって、交通事故、労働災害、公害、薬害などにより、毎日毎日、続ぞくと身体障害者が作り出されています。一方ベトナムでは、アメリカによる毒薬散布やボール爆弾、さまざまな殺人兵器により人が殺され、多くの障害者が生み出されています。われわれ身体障害者にとって、国民本位の政治が行なわれ、ベトナム戦争をやめさせることが最大の願いです」と語った。
市川さんは「身体障害者には同情はいりません。馬渡さんに対する全税関労組のように、共に考え、共に運動してゆくことこそが最も必要なことだと思います。〃名もなく貧しく美しく〃という映画の中で、「同情よりも理解を」というセリフが出てきますが、私はこの立場が大切だと思います」と述べた。集会は大成功だった。三人の話は、組合員に、今までになかったものをもたらした。組合員のほとんどは、馬渡さん以外の視力障害者に接したことがなかった。話にはきいていたが、進歩的な障害者組織の実態にふれるのは初めてであった。私が、五ヵ月前に初めて神視障守る会の会議に出席した時と同じく、組合員の多くは、盲人を同情にすがったあわれな存在としか理解していなかったものが、そのたくましい姿にふれる事によって、今までの観念が一挙に崩壊し、新たな親しさと連帯に変わっていった。
集会が終わったあと、ある組合員が私に「おれ、おどろいたなあ。だって眼の見えない人がだよ、ベトナム戦争を批判するんだからなあ。おれたちと同じことを考えているんだな」とわざわざ言いにきた。みずからのショックを率直に表わした声である。異なるのは、ただ眼が見えないというだけで、それ以外は考えていることも、やっていることも、みんな同じだということがわかってきたようである。馬渡闘争は、組合員の障害者観を確実に変えていった。
税関当局は、これまで馬渡さんに関する税関長交渉には絶対に応じられないとはねつけてきた。だが、運動が横浜税関だけでなく、県内から全国に拡がる中で、微妙な動揺が見えてきたのである。「税関長との交渉はダメだが、総務部長会見ということなら、組合と会ってもよい」と言ってきたのである。総務部長は、税関長に次ぐ地位にある。総務部長との交渉などということは、今までなかったことである。運動の発展は、総務部長を引き出した。税関当局は公式見解を、こうした形で表明しようというのである。三月十八日、支部執行部と総務部長との間で「会見」が行なわれた。その席上、渡部総務部長はつぎのように述べた。
「馬渡さんのことは、人道問題として真剣に考えている」「視力障害センターに入所することについては、休職中であっても黙認するが、それ以上の要求(研修扱い)には応じられない」「税関当局としては、馬渡さんの現状のままでは、復職を考えることはむずかしい。復職要求には応じられない」「君たち(全税関)は、休職期間が切れたら自動的に首を切られると言っているが、法律にはそうは書かれていない。当局としても今まで、その時に免職するなんて言ったことはない」「身分をどうするかは、休職期間が終わる時点で前向きに検討したい。今は結論を出すことはしない」
 結局、この時点での職場復帰と研修扱いによるセンター入所は認められなかった。われわれの運動の限界であった。だが、あと一年半の後にせまった休職期間満了時において、何らかの形で身分を継続し免職はしないということを、ほぼ確実なものとして、明らかにさせたのである。しかも、税関当局の公式見解として、休職期間中における視力障害センター入所を認めさせたのである。しかし、けっして力をゆるめることは禁物であった。税関当局の全税関労組への攻撃は、今もなお、連日のように加えられているのであるから、甘い期待などにゆだねたら最後、一片の口約束などたちまち反故にされてしまう恐れが充分であった。馬渡さんの視力障害センター入所が、四月二十日ということに決った。身体検査や面接テストには組合員が同行して案内をした。あとは、入所を待つだけになった四月の上旬のことである。ある日、馬渡さんの家に約二万五、〇〇〇円の金が届けられた。これは、第二組合にいってしまった馬渡さんの友人や先輩たちが、ひそかに持ち寄って集められたものであった。
当局は、第二組合員が私的に全税関組合員と接触することは絶対に禁止していた。かつて親しかった全税関の友人が結婚しても、式に出席することは禁止させられ、葬式にさえ行けなかった。もし、それに反することをすれば、たちまち上司に呼びつけられ、「何のために行った」「どういう話をしてきたか」「これからも会うつもりか」「おまえは全税関に協力するつもりか」「これからどうなっても知らないぞ」などと問いつめられ、脅迫された。そして事実、そういう者に対しては、ボーナスの上乗せは取りやめ、特別昇給の対象から除くなどということが現実に行なわれた。こうした厳しい攻撃のもとで、第二組合員の間から、全税関組合員である馬渡さんに対する激励のカンパが、秘密のうちに集められたのである。当局に見つかれば、たちまち自分の昇進がフイになるかもしれないことを恐れながらも、勇気を出して組織された貴重なカンパであった。馬渡さんは、この金でテープレコーダーを買った。そして、今でも使っている。
入所を目前にひかえた四月十七日、全税関横浜支部は「馬渡さん送別激励集会」を開いた。この時も多くの組合員が集まり、それぞれ心のこもった励ましの言葉を述べた。馬渡さんの表情は明るかった。はり灸マッサージが、人間の健康管理にとって、いかに有効かということや、これから勉強するセンターのことなどについて、大らかに語った。四月二十日、馬渡さんはセンターに入所した。


分限免職とのたたかい


たくましくなった馬渡さん


馬渡さんが視力障害センターに入って三ヵ月過ぎた七月二十二日、組合は「馬渡さんをかこむ集い」を催した。三年間も寮に住み込んで訓練と勉強を続けるとなれば、どうしても組合員や職場の人びととの間が、疎遠にならざるを得ない。顔を合わせる機会が乏しくなれば、感情的にも支援する気持が薄れがちになる。あと一年半後に迫った休職期間切れ、三年後のセンター卒業と職場復帰の問題、こうした長い先までみんなの気持を結集し運動を拡大してゆくためには、あらゆるチャンスを生かして、馬渡さんと職場の仲間との交流をほかることが要請された。夏休みで帰宅した馬渡さんとの懇談会は、こうして計画されたのである。
さて、視力障害センターに入った馬渡さんはどうなったであろう。私たちの目にもはっきりわかったのは、おどろくほど明るくなったこと、そうしてたくましくなったことであった。わずか三カ月とはいえ、その訓練の成果もいちじるしく、たとえば、センターに電話をして呼び出してもらうと、電話のある場所から部屋までかなりの距離があるにもかかわらず、たちまち電話口にかけつけてくるのであった。広くて曲りくねったセンターの中を、一人で自由に歩きまわれるようになっていた。自宅の狭い部屋の中でさえ、手さぐり足さぐりで歩いていたのがウソのようであった。
夜になると、あちこちの同僚の部屋をめぐり歩いては雑談に花を咲かせ、昼間の講義の内容を、テープレコーダーで復習し合ったりすることも日課になっているという。入所して二週間程たった頃、訓練中の全盲の同期生が、誤って二階の屋上から転落し重傷を負うという事故が起きた。馬渡さんは、自治会が計画した災害補償要求の署名運動にみずから積極的に参加し、街頭にも立って訴えたそうである。陰うつな入所前の姿とは、別人の感があった。三療で生きてゆくという人生の基礎が明確になったとともに、同じ視力障害者の仲間がたくさんできたことが、その要因らしかった。
馬渡さんは「集い」の中で、一時間にわたるつぎのような話をきかせてくれた。「私は、皆さんに二つのことをお話ししたいと思います。一つは四月二十日の入所以来、私がどのように変わったかということ。もうひとつは、センターの中で起こった生徒の墜落事故と、この問題をめぐる私たちのたたかいについてです。私たちは、基礎訓練として施設内をできるたけ早くのみ込むことを教わりました。センターの中は、廊下は複雑に曲りくねっていますし、あちこちに段差もあり、生活訓練にはもってこいのような所です。訓練の一環として掃除もやらされます。居室はもちろん、便所、廊下、体育館などあらゆる所を当番でやるため、一日に二ヵ所も当番がまわってくる日もありました。この歳になってバケツやモップを持って、便所掃除をしようとは思ってもみなかったのですが、やってみるとなかなかおもしろいものです。
日課は、六時半起床、七時体操、七時半食事、九時から午後三時まで授業、夜は七時から九時まで自習時間です。私は三年課程のはり灸マッサージ科ですが、授業は週三五時間のうち講義−−−解剖学、生理学、あんま、はり灸理論など−−−が二〇時間、実習が一五時間です。これらの講義の内容はテープにとっておいて、後で自習します。解剖学では、体内の骨の名前を全部おぼえなければならず、この部分のテープだけでも二〇回は聞きました。所内ではクラブ活動が盛んで、私は「盲福祉研究会」と「短歌会」に入っています。最近作ったうたで、先生に褒められたものに、こんなのがあります。
ひさびさの市外電話に妻よべば 遠く吾が子の泣き声聞こゆ目の見えぬ父とは知らぬ幼な児は 絵本の自動車(くるま)指させとせがむ
 また、歩行訓練には一人三ヵ月もかかるのに、全盲五〇名に先生が二名しか居ないため、自分たちで「歩行会」 を作り、近所の女子高校生のお世話で、朝六時に起きてセンターから一五分程のところにある阿佐ケ谷駅まで毎朝歩行訓練をしています。墜落事故は、私にとっても生徒全体にとってもショックでした。いろいろ議論はありましたが、私たちは今まで恩恵的なものに頼りすぎていた、障害者の問題は障害者自身が立ち上がらなければだめだ、という結論に達し、駅頭その他で『事故の起こるような状態はなくせ、精神的肉体的負担を補償せよ』という厚生大臣あての署名運動をやっています。このほか、訓練、体育、実習などの施設や、先生の増員、医師の常駐、身障者の問題などをもっと改善させるために、今後もがんばりたいと思います」
時どきみんなを笑わせながら語る馬渡さんの話は、なかなか楽しいものであった。私はこれを聞いて安心した。入所前の彼といったら、会えばグチをこばすし、運動の進め方でちょっと自信の持てないところにくると、黙ってしまって賛成も反対もしない、これではたして職場復帰闘争などたたかってゆけるだろうかと疑問をもったこともしばしばであった。それが、わずかのうちに、このように変わってきたのである。この「馬渡さんをかこむ集い」を計画するとき、執行委員会の中で若干の議論があったことに触れておこう。「休職中にもかかわらず視力障害センターに入れたのは、税関当局の黙認があったからで、これをあまり公然と宣伝するのは考えものだ。当局側を刺激して悪い結果を招くのではないか」というひとりの意見をめぐっての議論である。
討論の結果としては、つぎのようにまとまった。「馬渡さんは、動くことができない病人なのではなく、一定の訓練さえつめぱいくらでも働くことのできる身体障害者である。職場復帰をめざして訓練機関に入ることは当然であり、有給の研修扱いも認めなかった税関当局こそ身体障害者雇用促進法に違反している。休職中の馬渡さんの視障センター入所を認めさせたのは、われわれの運動があったからこそかち得た成果である。運動が全国的な支援を受けるようになった現在では、たとえ休職中のセンター入所を公然と発表しても、税関当局としては馬渡さんの解雇などできなくなっている。今後は、職場復帰をめざして訓練と勉強をしているということを、もっと多くの人たちに宣伝することが、運動の成功につながる」 事実、最初のうちは 〃センターにおける馬渡さんの近況〃 などという記事を組合ニュースに掲載すると、当局が「あれは黙認事項なのだから、ニュースなんかに出さないでくれよ」などと言ってきたが、やがて何も言わなくなってしまった。


障害者の免職を定めた公務員法


 一九七二(昭和四十七)年三月十七日、あと半年後に近づいた休職期間満了をひかえ、馬渡問題対策委員会が開かれた。これには、春休みで帰ってきた馬渡さんも参加し、高橋鉄雄執行委員のリードで、八名による討議が行なわれた。私は昨年の夏、組合の役員配置の必要から全税関横浜支部の執行委員を降り、川崎分会の分会長となり、支部執行部の馬渡問題担当は高橋執行委員が引き継いでやってくれていた。十月二十日の休職期間満了をむかえ、身分延長のたたかいをどのように展開するかということが討議の目的であった。昨年の三月、総務部長が「休職期間が切れたからと言って、その時に免職するとはいっていない。その時点で前向きに検討する」とは言っているが、やはり、理論的にも組織的にもはっきりした運動を展開しなければ、約束を実行させることは困難であるという結論に達した。そのためには、まず、休職期間が終わった後に加えられてくるかもしれない分限免職についての法律的解明が必要であった。
馬渡さんの職場復帰闘争をたたかうにあたって、特に休職期間が切れようとしているこの時点においては、どうしても国家公務員法の分限規定との対決は避けられなかった。国家公務員法には、身体障害者雇用促進法の「官庁や企業は身障者を積極的に雇用すること」という趣旨を、真っ向うから否定するつぎのような条文が設定されている。

国家公務員法
 第七十八条(本人の意に反する降任及び免職の場合)
 職員が、左の各号の一に該当する場合においては、人事院規則の定めるところにより、 その意に反して、これを降任し、又は免職することができる。
 一、−−−略−−−
 二、心身の故障のため、職務の遂行に支障があり、又はこれに堪えない場合
 三、四、−−−略−−−
 そして人事院規則には、その具体的な内容について、次のように定められている。
人事院規則十一の四(職員の身分保障)
 第七条(本人の意に反する降任又は免職の場合)
 一、−−−略−−−
 二、法第七十八条第二号の規定により職員を降任させ、又は免職することができる場合は、任命権者が指定する医師二名によって、長期の療養若しくは休養を要する疾患、又は療養もしくは休養によっても治ゆし難い不具廃疾その他の心身の故障があると診断され、その疾患又は故障のため職務の遂行に支障があり、又はこれに堪えないことが明らかな場合とする。
 三、四、−−−略−−−
 えらくまどろっこしい言い廻しであるが、簡単に言えば「長期間の休みを必要とする病人や心身障害者であって、仕事に支障があったり、仕事に堪えられない場合には、降任(役職から降ろすなど)や免職(クビ切り)ができる」ということである。休職の期間三年間が過ぎても病気や障害が回復しないとの理由で、この分限免職規定によって官庁をクビになった人は数多くいた。馬渡さんの場合も、失明という重い障害を負うことになった結果、まさにこの該当者なのである。あと半年たたないうちに休職期間が切れる彼にとって、首切りの危険が充分に考えられた。ただ、法文をよく読むと「免職にする」とは書いてなく「免職することができる」とあり、首を切るかどうかは任命権者(この場合、横浜税関長)の裁量いかんにかかっている。われわれのたたかい方によっては、それを阻止できる可能性も存在するのである。


生きつづける明治の亡霊


 この法律の条文は、障害者にとってきわめて不当なものであった。長期間の療養を必要とするような再起の見通しの立たない「病人」と、障害部位以外はすべて健全で、一定の方策を講ずれば通勤も勤務も充分可能な「障害者」という明らかに異なるものをいっしょくたにしているのである。それだけではない。「職務の遂行に支障があり」とか「職務に堪えない」場合には免職することができるというのだが、障害者となった者に対して訓練を施し、その障害に見合った適職に配置転換するなどによって「職務の遂行を可能にする」ような任命権者の義務が全く規定されていないのである。 結局、仕事に支障のある障害者は解雇してよいということになる。障害者が働く場合、職務に一定の支障が生ずることは当然である。脚が不自由ならば、命令されても簡単に目的地へ行けない。手が不自由ならば、物をつかんだり、書いたりすることがよくできない。聴力障害者であれば、上司や同僚の話を聞いたり話したりすることは困難である。視力障害者であれば、法律や通達などの文書を読むことや、字を書くことはきわめて困難である。
だが、ザル法といえども身体障害者雇用促進法は、こうした「職務の遂行に(一定の)支障がある身障者」こそ雇用すべし、と規定されているのではなかったのか。国家公務員法の分限規定は、障害者を新たに雇用するどころか、すでに雇用されていた者が障害者になったことを理由に免職してもよいと定めているのであるから、身体障害者雇用促進法の存在すら否定しようという不当な条文なのである。法律をいろいろ調べてゆくうちに、この分限規定は、明治時代に作られた「勅令」にその源を発していることがわかった。
 官吏分限令(明治三十二年三月二十八日、勅令六十二号)
 第三条 官吏左ノ各号ノ一ニ該当スルトキハ其ノ官ヲ免スルコトヲ得
 一、不具・廃疾ニ因リ又ハ身体若ハ精神ノ衰弱ニ因リ職務ヲ執ルニ堪へサルトキ
 二以下、−−−略−−−

 勅令とは、天皇の命令ということである。天皇が神とされ、国民はその臣民とされていた明治憲法のもとで作られた障害者排除の法律が、形を変え、今なお国家公務員法の中に生きつづけているのである。しかも、勅令の中では「職務を執るに堪えざるとき」とだけされていたのを、戦後作られた国家公務員法ではそれに付け加えて「職務の遂行に支障があり」というものまで含めて障害者排除をはかったのである。そしてさらに明らかになったことは、これが国家公務員法だけではなく、地方公務員法第二十八条、国会職員法第十一条、自衛隊法第四十二条、日本国有鉄道法第二十九条、日本電信電話公社法第三十一条、人権擁護委員会法第十五条といった公務員関係法規のすべてに、全く同じ条文が規定されていることであった。
公務員の免職には、懲戒免職と分限免職がある。懲戒免職は、違法行為をはたらいたとして加えられる処分であるのに対し、分限免職はそれと全く趣旨を異にするものである。本来、分限規定というのは、公務員の身分を保障するものなのである。すなわち(違法行為を除き)定められたいくつかの条件にふれない限り、けっして免職や降任はされないということを規定したものである。国家公務員法第七十八条には、第二号のほかに「勤務実績のよくない場合」「その他官職に必要な適格性を欠く場合」「官制若しくは定員の改廃又は予算の減少により廃職又は過員を生じた場合」の三つが定められている。公務員としてふさわしくない者及び、人員削減などやむをえない場合のほかは、どのような場合であっても、職員の首を切ってはならないと定められた条項なのである。
しかし、天皇を絶対的な支配者とし、国民をすべてその従属者(臣民)として定めた専制的な明治憲法のもとで、障害者が役立たずの兵役不該当者と位置づけられた時代は去り、主権在民の新しい憲法が制定された戦後も、時の為政者は障害者差別をなくそうとは考えなかった。そして、一九六〇年には身体障害者雇用促進法という法律が生まれたが、各種公務員法の中から障害者の免職を定めた分限規定は削除されなかった。


全視協第六回大会への参加


 一九七二年七月一日、二日の両日、神奈川県箱根で全視協第六回大会が開催された。私が全視協大会に参加したのは、これが初めてであった。神奈川の市川会長から、受付を手伝ってほしいと言われ、それを引き受けたのである。暑い日射しの中を、全国から続ぞくと到着する仲間達を迎えて、受付のにぎやかなこと。ワイワイガヤガヤ怒鳴るような大声の中で県名と氏名を聴いてチェックし、点字か墨字かをきいて参加費と引き換えに資料を渡す。それが済むと案内係にバトンをタッチする。あい間には、腕の鈴をチリチリ鳴らしながら、会場との連絡に走る。目がまわるほど忙しかった。ひととおり入場が終わり、ほっと一息ついているところへ、大会事務局長がとんできて、「中村さん早く早く、来賓あいさつだよ。馬渡闘争の訴えをやるんだろう」と呼びにきた。受付係から来賓に変身するのだから大変である。トレーニングパンツに汗ぴっしょりのシャツのまま、あたふたと会場へかけつける。
「皆さん、私は横浜の税関に働いている中村紀久雄といいます。税関なんていうと、えらく恐い所に働いていると思うでしょうが、そこには労働組合もありますし、素晴らしい仲間たちもたくさん居ます。私たちは、中途失明した馬渡藤雄さんという人の職場復帰運動をたたかっています・・・」 大広間の畳の上には、一六〇名余りの仲間たちがギッシリと坐り、静まりかえって私を見上げている。これまでの運動経過、馬渡さんが今、分限免職の危機にさらされていること、組合がなぜこの問題を取り上げたかなどについて話した。そして最後に、「皆さん、馬渡さんが職場に戻れる日まで、ぜひとも大きな支援をお願いします。共にがんばりましょう!」と結んだとたん、ドッという拍手に包まれ、それは長く続いた。訴えて良かった。みんな、馬渡さんの問題を自分のことのように考えてくれているのだ。この力が、きっと私たちの馬渡闘争を支えてくれるにちがいないと確信を持った。
この大会では、夜の二時過ぎまでいろいろな人たちと話をした。新潟の全盲の小山敬吉さんから、幼い頃の思い出を聞いたのもこの晩だった。みんな、私を古い友人のように扱ってくれた。たったの二日間で、たくさんの友だちができた。馬渡さんも参加できれば、きっと力強い自信を持つことができたに違いないが、期末試験の真最中では仕方がなかった。視力のない人たちがこんなに多く集まっているのに、会場入場から始まって討論、食事、トイレ、会場移動など、ほとんど混乱もなく、整然と大会が運営されるというのも、初めての私にはただただ目を見張るばかりだった。


第二次闘争開始


 一年余りの休憩を終え、支部ニュースは再び馬渡闘争のキャンペーンの火蓋を切った。七二年七月二十七日、支部ニュースにつぎのようなアピールが掲載された。

 盲目の身で、懸命に訓練に励んでいる馬渡藤雄さん(山下埠頭出張所)は、あと三ヵ月足らずで休職期限が切れます。解雇になる恐れが充分あります。東京視力障害センターに入ってから、すでに一年四ヵ月過ぎました。卒業まで、まだ一年半以上あります。しかし、休職期限は今年の十月なのです。馬渡さんは、四十三年十月に網膜剥離という病気になり、両眼を失明してしまいました。左眼は光の明暗さえ映らず、右眼も視野の一部に、わずかに物の動くのが解るという程度で、ほとんど完全失明の状態です。家族は、奥さんと三歳になる男の子の三人暮らしで、大船の公団住宅に入っています。馬渡さんにとって一番不安なことは、「もし税関をクビにでもなったら、これからどうやって生活していったらよいのか」ということだそうです。たとえ、はり灸あんまの資格を取ったとしても、それで生活できるだけの収入が得られるようになる為には、最低五年はかかると言われております。
 眼が見えないという苦しみに加えて、生活ができないという不安が加わり、さらに、無能者扱いをされるような好奇な眼で見られるつらさの中でがんばっているのです。最近の馬渡さんは、とても明るくなりました。視力障害センターに入って、いろいろ訓練を受けるうち、自信がついてきたのでしょう。最近も「いやあ、この頃思うんだけれど、これで税関に戻れるという自信がついてきたよ。前には毎日がすごく不安だったよ」と言っています。皆さん、馬渡さんを応援してください。当局の方々も、ぜひ馬渡さんのことを考えてください。今年の十月でクビにするようなことの、絶対ないように。

 支部ニュースは、これ以後、五ヵ月間ほとんど毎号に馬渡闘争の記事を載せた。また、馬渡問題対策委員会のニュースが、このほかに六回発行されている。七月二十六日、支部執行部の三役は、税関総務課長に対し「休職期間満了後の身分を保障するよう」申し入れた。八月上旬、組合の仲間に付き添われた馬渡さんが税関を訪れ、同じく総務課長に面会して「十月以降も経済的な裏付けを伴う身分保障を約束してもらいたい。また将釆視力障害センターで修得した技術−−−はり灸マッサージ−−−を生かす方向での職場復帰を認めてほしい。税関の診療室にマッサージ師として配置するなど検討してほしい」と申し入れた。八月二十三日、執行部は「馬渡藤雄氏の身分保障に関する要求書」を税関長に提出した。


卑劣な退職攻撃


 私たちがこうして筋を通して要求運動を続けてきたとき、突然、当局が馬渡さんに対して退職を迫ってきた。執行部が要求書を提出した前日の八月二十二日のことである。夏休みで自宅に帰っていた馬渡さんのところへ、影井人事課長と矢野考査官の両名がおもむき、「休職期間が終わったら、法的には依願退職をするか、または分限免職しか道はない。それでなければ欠勤扱いということになるが、そうなると給料も何も出なくなる。あなたはそれに耐えられますか。当局としても欠勤扱いをそんなに永くは認められないから、分限免職せざるを得ないのですがね」と言うのである。依願退職とは、自分から辞表を出して辞めることであり、分限免職は当局がクビにするということである。どっちを取っても税関を辞めさせられることには変わりない。
それだけではない。人事課長はさらにつけ加えて、今税関を辞めれば退職金はいくらになるし、年金もいくらもらえるなどということを、こまかな数字をあげて説明し出したのである。今すぐ税関を辞めろという意味のことを迫ってきたのである。これは、二年前に当局がやった退職攻撃と全く同じ手口であった。びっくりした馬渡さんが、「休職期間が三年と定められ、それ以上延長することができないというのでしたら、一時出勤して、それからまた改めて病気休暇に切り換えて取るということにできませんか。今まで、そういう例があったと聞いていますが」と言うと、血相を変えた矢野考査官が「視力障害センターに入っている者が、出勤などできますか。出勤できるはずがないでしょう!」と取り合おうとはしない。傍で聞いていた奥さんは、ただオロオロするばかりだった。
卑劣な退職攻撃が行なわれた事実を、馬渡さんから電話で知らされた時、私は怒りでしばらく口がきけないほどだった。税関当局が馬渡さんに言った、「休職期間が終わったら、法的には依願退職か分限免職しか道はない」などということは、まったくのウソッパチのデマであった。私たちは、これまで運動を準備する過程において、法律的な面についても調査と研究を行ない、その結果つぎのような重要なことを発見していた。その第一は、病気や心身障害が回復しない場合においても、三年間の休職期間が終わったら、ただちに出勤しなければならないと定められていることだった。人事院規則十一の四、第六条第二項には「休職の期間が満了したときは、当該職員は当然復職するものとする」と規定されている。しかもこの場合、「休職の原因となった病気や心身障害が回復しているか否かにかかわらず、この規定が適用される」という旨を、人事院が昭和二十八年の行政事例として発表している。
免職するのではなく、逆に出勤しろと書かれているのである。ただ、その時どうしても出勤することができない場合には、分限免職をしてもよいとされているのである。ベッドから起き上がることも通勤もできないような病人ならいざ知らず、馬渡さんは眼以外すべて健全な身体障害者である。誰かが手引きさえすれば、税関に出勤することなど、わけなかった。そして第二の発見は、休職期間が満了して職場復帰した職員に対し、改めて病気休暇や休職を認めることは、法律的にも可能であるということであった。昭和二十七年に人事院任用局長が、人事院大阪事務所長からの問い合わせに対して、「休暇の期間の満了により復職した職員に、引き続き『病気休暇』等の取扱をなすことは、適当であるかどうかは別問題として、違法ではない」と、文書による回答を出していた。
人事院が「違法ではない」と言明している以上、税関長の裁量いかんで、認めることができうるのである。休職が終わったら、馬渡さんはまず出勤し、そこで改めて病気休暇を申請すればよい。あとは運動しだいである。横浜税関当局が、こうした人事院の見解を知らないはずはなかった。にもかかわらず、あえてウソを言って脅したのは、眼が見えないから本当のことを知っているはずがないと、甘く見たからに相違なかった。


[続く]

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