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抗議


 組合は、ただちに抗議行動に立ち上がった。退職攻撃が行なわれた翌日の八月二十三日、組合三役が総務課長に面会を求め、それを追及すると、「たしかにそういうことは話したと聞いているが、特別、税関を辞めろと言ったわけではない」とか「本人のためを考えて、法律的なことを説明してやった方がよいかと思い、ちょっと話しただけだ」などと、シドロモドロに白じらしい弁解をくりかえした。本人にはあれほど強圧的に出る当局も、それがおおやけにされると、あわてて温情的なポーズを取るのであるからおかしかった。
こうした動きの中で、組合員の間から「馬渡さんを守り、励まそう」という声が急速に高まってきた。各分会の中で、馬渡さんを励ます集会が次つぎと計画され実行に移されていった。新港分会がそのトップを切って、八月二十四日の昼休みに馬渡さんを招いて職場集会を開いた。約四〇名ほどいる組合員のほとんど全員が集まった。集会では、馬渡さんの訴え、支部長による労働組合としての方針、当局への要求事項などの説明のあと、次つぎに組合員が発言を求め、馬渡さんの身分延長と職場復帰の運動を強める必要を説いた。つづいて八月三十日には山下分会、さらに高島分会という具合に連鎖的に集会が開かれていった。九月に入ると山下分会が、早朝、港の入口で港湾労働者に対するビラ配り活動を展開した。支部執行部もビラマキ活動を全支部的な規模で計画し、市民への宣伝を行なった。九月三日付の「点字毎日」に、私たちの馬渡闘争の模様が掲載され、全国の視力障害者に紹介された。これはただちに墨字に直されて、組合ニュースに転載された。
この運動が開始された二年前、馬渡さんが私に、「必ず必要になると思うから習っておいてくれ」と言って点字器と教本をくれたので、時どきポツポツ書いたり読んだりしていたのが、ここへきて役に立った。九月四日号の組合ニュースに「馬渡さんの訴え」が掲載された。そこには、税関に入ってから失明までの経過、視力障害センターで学んだことなどが詳しく書かれたあと、つぎのように続いていた。「さて、今年の十月で発病以来四年となり、三年間の病気休職の期間が満了となります。そこで私はこの八月はじめ当局につぎのような希望を述べて、安心してセンターでの訓練が続けられるよう希望しました。
(一)四十七年十月以降も経済的裏付を伴う身分保障
(二)将来、センターで修得した技術(はり灸マッサージ)を生かす方向での職場復帰、具体的には診療室にマッサージ師を置くこと。
 これに対する当局のこれまでの回答は、事務的に人事院規則を説明したにとどまり、依願退職、分限免職、欠勤扱いの三つの道しかないといい、あなたの希望を生かす方向で検討するがあまり期待しないでほしいということでした。上記の私の要求は、そんなに不当な欲張ったものでしょうか。これは長い休職のため、けっして楽でない家族の生活の安定と、落ち着いて勉学に励みたいという切実な要求なのです。どうぞ皆様の暖かい御支持を心からお願い致します。この訴えは、全税関組合員はもとより、職場の多くの人びとに波紋をなげかけた。馬渡さんの問題はけっして他人事ではない。明日はわが身のことかもしれない。そんなとき、当局からこんな事を言われたらどうしよう等々。常日頃、税関当局は第二組合員の若い人たちを集めては「全税関は、馬渡さんを階級闘争の道具にしているのだ」「全税関は、闘争のための闘争をやっている過激な集団だから」などと吹き込み、私たちとの離間を図っていたが、この切せつとした視力障害者の訴えを守ってたたかっている全税関労組の姿は、誰の目にもどちらの言い分が正しいかあまりにも明らかだった。
 組合は、署名運動を展開していた。各分会の組合員は、昼休みになると好きなスポーツもやめ、分担して周囲の労働組合をまわって訴えて歩いた。支部執行部は税関当局に対し、要求書の回答を出すよう再三の働きかけを行なっていたが、当局は言を左右にして逃げまわっていた。関税局の発言があるとはいえ、けっして楽観は許せなかった。そんなとき、視力障害者の人たちが税関に来て、馬渡さんの問題で当局と交渉を行なったらしいということが私の耳に入った。


神視障守る会、税関当局と交渉


 一九七二年九月五日、神奈川視力障害者の生活と権利を守る会は、市川会長をはじめ六名の代表をもって横浜税関を訪れた。八月に開かれた集まりの中で「馬渡さんの身分延長問題は、大事なところへさしかかっている。われわれで独自に税関へ行って交渉してみよう」という提案があり、それをふまえて決定された行動であった。神視障守る会はこれまでも、県や市との交渉は行なったことはあるが、視障者と直接関係のない税関などという役所へ出かけたのは初めてであった。制服制帽のいかめしい税関職員が出入りする庁舎を前にして、足がすくむ思いであったという。取り次いでくれた正面玄関の守衛は親切だった。組合事務室に案内してくれ、すぐ組合の役員を呼び寄せてくれた。専従の役員はいないため、仕事中の執行委員が駆けつけた。事情を説明し、簡単な打ち合わせを済ませてから、総務課の部屋へ案内された。総務課長に会って、話を切り出そうとしたところ、「組合は関係ないから帰りなさい」と、いきなり言われ、組合役員の人は帰されてしまった。市川会長より「馬渡さんの問題について、税関長に会わせていただきたいのですが」と申し入れ、要請書を提出した。


要請書


 〃馬渡さんの国家公務員としての身分を保障してください〃
 私たちは、全国の視力障害者いやすべての身体障害者の意志と支援を感じつつ、標記につき強く要請いたします。私たちは、日本国憲法においても明示されている「人間としての権利」そして「人間らしい生活」を求め努力しております。然るに現状はどうかと言えば、高度経済成長のひずみによる物価高、公害、交通ラッシュ等と、ただでさえ生活しにくい中で、障害者の生活は益々追いつめられています。そこには、自由な安心できる生活はなく、職業選択の自由もなく、働く権利すら奪われようとしています。−−−中略−−−馬渡さんにも、貴下の下において再出発の喜びをかみしめる日が、必ずくることを信じております。重ねて、国家公務員としての身分保障と職場復帰を強く要請します。 以上
 読み終わった総務課長は「税関長はあなた方と会う必要はない。われわれとしても馬渡さんの問題では、よい方向で考えている」と、そっけなかった。「ほんとうに馬渡さんのことを考えているのでしたら、早くその結果を本人に知らせて安心させてください」と言うと総務課長は、「あなた方がこうやってここに来たからといって、税関の方針が変わるわけではない」と、すぐ帰れといわんばかりの態度であった。税関というところは、うわさの通り人情味の薄い役所であった。

 この交渉内容と要請文は、ただちに組合ニュースに発表された。職場の中に、感嘆の声が処処から起こった。「眼の見えない人たちが、わざわざ馬渡さんのために、税関に来てくれたんだってな」「それにしても総務課長は冷たいよな」「馬渡さんの首はどうなるんだ」等々、職場では組合所属のちがいを超えて、馬渡さんへの関心が高まっていった。税関一〇〇年の歴史上、視力障害者による陳情などということは初めての出来事である。これは、税関当局にとってもショックだったらしい。まさか、白杖を待った視障者がこのような形で、全税関に対する支援行動に出るとは、思ってもみなかったであろう。


東京12チャンネルで復職を実現した!


 失明したテレビカメラマンの鈴木英世さんが、元の職場である東京12チャンネルへの復帰に成功したというニュースが、私達の組合機関紙に発表されたのは九月七日である。これより一年程前の事である。私は東京12チャンネル労組の島村矩弘委員長の訪問を受けた。「うちの組合員で鈴木君という人が居るのですが、失明して神戸の病院に入院しています。このままいけば首を切られてしまいます。今までは組合として、何とか病気休職の期間を引き延すようにと財団(会社)と折衝してきたのですが、先日、全視協の黒岩さんに御相談したところ、横浜税関ではそれを職場復帰運動としてたたかっていると聞いたのです。くわしくお話ししていただけないかと思いうかがったのですが」という。私は、これまでの馬渡闘争の経過を説明し、どんな障害者になろうと訓練を行ない、その持てる能力と希望が生かされるなら、職場復帰して働き続けることは、充分可能であることなどを詳しく話し、手持の資料も差し上げた。
それから数カ月後、東京12チャンネル労組は七二年春闘の重点要求として、鈴木さんの職場復帰闘争を位置づけた。「鈴木君を守る会」が作られ、組合執行部のもとに「鈴木問題専門委員会」が組織された。新たに就任した全視協の橋本宗明会長や黒岩事務局長から、数かずのアドパイスを受け、たたかいの方向が定められた。鈴木さんの職場復帰を要求するストライキ権確立の投票が、九四・六パーセントという高率で批准された。このとき、東京12チャンネルの下請会社の労働者で組織されている地区労分会では、実に百パーセントという批准投票を得て、支援ストに入ることを決定している。
組合は、一万人署名運動を開始し、一万五千枚のチラシが、都内のターミナル駅周辺で配られた。全組合員は「鈴木さんに光を」と書かれた顔写真入りのワッペンを胸に付けて仕事をした。七月六日、ストライキ決行。この日のテレビは、電波こそ発射されたものの生放送はすべて中止され、管理職の職員によって録画されたものだけが放送されたという。そして七月十三日に開かれた団体交渉の席上、財団は労働組合に対し、「鈴木英世さんの職場復帰を認める。復職は十月二日とする。新たな職場は、現在訓練中の東京都心身障害老福祉センターの答申と本人の意向を尊重して決定する」と回答したのである。
九月七日の全税関横浜支部の機関紙には、つぎのような手紙が掲載された。
 前略、鈴木英世君の職場復帰闘争は、七月十三日会社側が「復帰」を認めたため、勝利へ向け重要な一歩を踏み出しました。九月から始まる秋闘では、鈴木君の新たな職場、貸金、研修期間などの諸問題についてたたかいを開始します。鈴木闘争は、貴労組の馬渡闘争がなければ存在しなかったでしょう。文字通り先進的なたたかいに深く敬意を表し、御協力に心から感謝いたします。貴労組がたたかいをさらに強められ、馬渡さんが職場復帰実現の日を迎えられるようお祈りしております。このために私たちもあらゆる支援を微力ながらしたいと思います。鈴木闘争の資料を同封しました。川崎の中村さんにどうぞよろしく。 民放労連東京12チャンネル労組委員長 島村矩弘 全税関横浜支部執行委員会の皆様へ
 東京12チャンネル労組が、こうして失明者の職場復帰という困難なたたかいに勝利したことは、私たちの馬渡闘争に限りない励ましを与えてくれた。現実の前例が打ち立てられたのである。馬渡さんの復帰は、夢ではなくなった。九月十日に開かれた全税関労組神戸支部の定期大会で、馬渡さんの身分保障に関する要請書が大会決議として採択され、横浜税関長に送りつけられた。大会の席上、一代議員から提案され、それが満場一致で決定されたというのである。 これは横浜支部にとって、思ってもみなかったうれしいニュースだった。


馬渡藤雄氏の身分保障に関する要請書

 貴官に対し、つぎのことを強く要請します。
 一 馬渡氏の身分について全税関横浜支部と団交すること。 
 一 馬渡氏の職員としての身分を保障し、安心して技能訓練に励めるよう措置すること。
理由 
 そもそも日本国憲法は、国民の働く権利と国の社会福祉、社会保障の向上及び増進を義務づけています。「身体障害者雇用促進法」もその趣旨にそったものですし、他省庁でなされていることが税関でできぬはずがありません。神戸税関に働くわれわれは、馬渡氏の処遇に関し明日はわが身と重大な関心をもって見守ってきました。税関に働く者すべてにとって、安心して働ける職場であるかどうかの試金石として、全国の職員が注目しています。貴官が英断をもって馬渡氏の身分を積極的に保障するよう重ねて要求します。 昭和四十七年九月十日 第四十二回全税関労働組合神戸支部定期大会


誓約書の罠


 こうした支援の拡がりは、身分延長以外許さないものとして、税関当局を包囲していった。全税関各支部などから寄せられた署名も、たちまち五〇〇名を超え、当局に迫った。こうした中で、九月八日、税関の影井人事課長と矢野考査官の二人が、視力障害センターの馬渡さんを訪ねてきた。「重要なことを話したいので、一ヵ月後の十月六日にこの視力障害センターへ、奥さんともう一人誰か親族の人を呼び集めてもらいたい」というのであった。実姉の御主人(福島時夫さん)が埼玉県庁に勤務している旨話すと、それではその人を列席させるようにと言われた。あとで聞くと、当日は視力障害センターの職員にもその場へ出席してほしいと依頼があったのだという。そこで身分問題の決定が通告されるであろうことは疑いの余地もなかった。このいきさつを馬渡さんからの電話連絡で聞いた私たちは、ハテ、と首をひねった。これまでの経過から見て当局としては、とうてい首を切ることはできなくなっている。としたら何らかの形で身分延長を認めることになろうが、それを本人に伝えるのに、なぜことさら奥さんや親戚、さらにはセンター職員まで立ち合わせる必要があるのだろうか。ただちに対策委員会が開かれた。
その結果「これは何か特別な条件をつけるつもりなのだ。ひょっとすると、白紙の退職願書か、それともセンター卒業と同時に辞職するという、誓約書を書かせるつもりかも知れない」ということになった。これは大変なことであった。馬渡さんとの間では、電話で再三の打ち合せが行なわれた。九月十九日には私と高嶋昭がセンターに行き、最後の対策が練り上げられた。ここまで運動が高まった以上、もうけっして首を切られる心配はないこと、だから当局が持ち出すどんな条件にも応ずる必要はないし、どんな文書にも印鑑を押したりしないこと、などについてくわしく説明し、馬渡さんもそれを納得した。そのあと高嶋は、埼玉県の浦和へ福島さんを訪ねて訴えた。福島さんは、心よく了解してくれた。私も奥さんに会って説得した。奥さんは「いくらなんでも、税関がそんな変なことはしないと思いますよ。中村さんたちの考え過ぎではないですか」と、われわれの取り越し苦労とばかりの口ぶりであったが、終わりに「わかりました。もしもそういうことがあったら、けっして判は押しませんから」と約束してくれた。
こうして万全の手を打った上で、組合はその十月六日の夜に組合員を集めて決起集会を開くことにした。もし馬渡さんの身分延長が成功すれば、勝利報告集会になるし、逆に失敗すれば、ただちに抗議集会として、今後の行動配置を提起する構えをとった。一九七二年十月六日、ここ国立東京視力障害センターの一室には、税関の影井人事課長、矢野考査官の二名のほか、視力障害センターの指導係長、同カウンセラー、そして馬渡さん本人、奥さん、義兄の福島さんが集められた。ものものしい雰囲気であった。影井・矢野の二人はろくに口もきかず、センター職員は落ちつかず、奥さん、福島さん、馬渡さんの三人は息を詰めて不安に耐えた。(いったい、どんな決定が下されるのだろうか。もし、免職だなんていうことが出されたらどうしよう)  
影井人事課長が、おもむろに口を切った。「馬渡さんの問題については、われわれとしても誠意を持って取り組んできたことは御存知のことと思います。今回税関当局としては、馬渡さんが今後とも安心してセンターで勉強できるよう措置することに決定しました。現在の休職は十月二十日で切れるのですが、それ以後は病気休暇扱いということにし、三ヵ月ごとに更新してセンター卒業まで認めます。これは、本省(大蔵省)段階で決定された特別の異例の措置です。本俸は五割しか支給されませんが、そのほか扶養手当やボーナスなども出るようになりますから、これまでの共済組合からの給付金よりいくらか多くなると思います。ただし・・・」
と、矢野考査官は、やおら何やらぎっしり書かれた書類を取り出した。「この文書に、ここに居る方がた全員の印鑑を押してもらうことが条件です。今話した通りのこと、つまり馬渡さんがセンターを卒業するまでは、身分を保障するということが書かれています」おかしな話であった。センター卒業まで身分を保障するということだけのために、なぜ、わざわざ印鑑の捺印が必要なのであろう。それだけしか書いてないのだろうか。しかし、その文書は手渡してもらえなかった。矢野考査官がしっかり握ったまま内容の説明をしていたが、もう馬渡さんにも奥さんにも耳に入らなかった。(やっぱり条件を出してきた。まさかと思ったことが本当に起こった。中村さんたちの言ったことは本当だった)
影井氏は説明の中で、さかんにセンター卒業まで、ということを繰り返していた。この文書には「センター卒業とともに辞職する」ということがはっきり書かれているにちがいなかった。そうでなければ、判など押す必要がない。影井氏も、それらしいことを言っていた。「さあ、皆さん印鑑を押してください」有無を言わせない強引なものがあった。奥さんにしてみれば、恐ろしくもあった。(もしこのまま印鑑を押さなかったら、一体どういうことが起きるだろう。首を切られてしまうかもしれない。中村さんたちは押してはいけないと言っていたけれど、押せば、少なくともセンター卒業までは安心できる。どうしよう。どうしよう・・・。とても拒否できそうにない・・・)
馬渡さんも同じ思いに焦った。文書は読めなくても、だいたいの内容は想像できる。(ここで押さなくても、絶対に首を切られないという確証がどこにあるのだろう。あれほど、高嶋君や中村君から言われたことだから、押せば、組合はもう支援してくれないかもしれない。組合から見放されたって、一年半すればはり灸の免許が取れるし、どうせ将来は三療の開業しかないのだから、税関に職場復帰なんかしなくてもよい)  捺印を迫られながら、必死に考えついた結論であった。奥さんから手渡された印鑑を右手に、手さぐりで指示されるまま、追われるように夢中で捺印した。奥さんも続いて押す。福島さんもそれにならった。おどろいたことに当局は、視力障害センター職員にも印鑑を押させたのである。一同が終わると、矢野氏は素早くそれをカバソの中に納めてしまった。
馬渡さんにしても奥さんにしても、思いは複雑だった。押し終わってホッと安心する一方、何か悔に似た思いがそれを包んでいた。最後に影井人事課長は、厳として申し渡した。「この件に関しては、皆さん絶対に秘密にしておいてください。もし、他へ洩らされると、どのような事態が起きるかわかりませんから、了承しておいてください。又、馬渡さんには公務員としての身分もあることですし、勝手なふるまいをされると『処分』ということもあり得ますから、その点、充分注意してください」  この日、私のもとへ馬渡さんから電話が入ることになっていた。もちろん当局側の回答のもようについての報告である。ところが、いつまでたっても電話が来ない。仕方なく、午後私の方からセンターに電話した。
−−−どうだった?
「うん、病気休暇に切り換えるって・・・」
−−−そうかよ、そりゃ良かった。それじゃ、首にならないで、身分延長は成功したんじゃないか。
「・・・・・・」
−−−で、どうだった? 何か条件でも出してきたかい?
「・・・・・・」
−−−誓約書か何かに判子を押したんじゃないだろうね。
「・・・押したんだよ」
私は、すべてを悟った。
やっぱり無理だったか。卑劣な税関当局には、赤子の手をひねるにも等しかったにちがいない。しかしまてよ。これで少なくともあと一年半先までは首がつながったわけだ。誓約書のことは、起きてしまったことだし仕方ない。対決が先へ延びただけのことだ。運動は確実に一歩前進したのではないか。今はともかく、当局が馬渡さんに言ったように秘密ということにしておこう。しかし、馬渡さんの動揺は激しかった。敗北感から自棄的になり、私との電話さえ嫌った。十月二十三日に私と高嶋はセンターへ行き馬渡さんを励ました。そしてようやく自信を取り戻した。 しかし、押印した心の重みはいつまでも消えなかった。十一月二日、馬渡さんを迎えて盛大な祝賀会が開かれた。わざわざ東京12チャンネル労組の組合員の仲間たちと鈴木さんも出席してくれた。


勝利への輪を拡げて


最後の方針


 視力障害センター二年生を終了した一九七三年の春、馬渡さんは「あんま、マッサージ、指圧師」の免許を取得した。彼は、センターの中でも評判の勉強家と言われ、ここで学ぶ講義や実習に加えて、さらに新宿の鍼灸研究会に入って学習し、「黄帝内経素間・霊枢」や「難経」などといった難解な経絡理論の古典を買い求め、図書館でテープに直してもらって、毎日聞いていた。私がセンターを訪れると、誰かしらが馬渡さんの部屋へ来ていて、むずかしいはり灸の話をしていた。来年三月に行なわれる「はり師」「灸師」の資格試験も、難なく通るにちがいないというのが周囲の評であった。馬渡さんは、勉強もよくやったが、その一方では「東京視力障害センター学友会」の会長として、自治会活動の面でも活躍していた。(二年生の十月から三年生の九月まで)事が起こればセンターと交渉し、集会を組織し、署名を集めては国会請願を行なうというバイタリティは、多くの学友の信頼を集めていた。
卒業を一年後にひかえ、加えて、本格的な職場復帰闘争の展開が課題にのぼってきた。失明して以来四年半、これまで、分限免職を阻止し、税関職員の身分を保持したまま全寮制の視障センターに入所することを認めさせ、そして、三年間の休職期間が終了した時も病気休暇に切り換えさせることにも成功した。だが、これまでのたたかいは、どっちかというと身分保障を求めるもので受け身の要求であった。 これからが本物の職場復帰闘争である。国家公務員の労働運動史上例を見ない新しいたたかいの開始である。この段階で改めて「われわれは何を要求するのか」「どのような職場に復帰することを要求するのか」ということを明らかにする必要があった。馬渡さんから「税関に戻って働くなら、ぜひとも診療室で、税関職員の健康管理にたずさわりたい」という強い希望が表明された。
現在四十四歳、今から税関を辞めさせられても三療以外に働くところは全くない。だがその三療ですら、開業したからと言ってすぐ定収が得られるわけでもなく、早い人で三年、遅ければ一〇年たたなくては生活が安定しないといわれてきたが、最近は、さらに晴眼者(目の見える人)の著しい業界進出に加え、交通ラッシュのため、全盲では出張治療は不可能とさえ言われている。いきなり開業というのではなく、税関に戻って働くことができたなら、どんなに安定できるかしれない。
こうした推敲の末にまとめあげられたのが、「視力障害センターを卒業した後は、その習得した特技を生かし、横浜税関の診療室に三療師(はり灸マッサージ師)として配置すること」という要求であった。税関職員の中に腰痛や頸腕症侯群などの病気に罹っている人は多く、はり灸による治療を受けている人もいた。また、高血圧や胃腸障害なども多く、税関の中にはり灸治療を行なう所ができれば、そういった人たちから大歓迎されることは間違いなかった。この要求は、馬渡さんにとっても税関職員にとっても望ましいものであったが、これまで日本の労働運動史上始めてみる内容でもあった。「職員の健康管理のため、盲人のはり灸マッサージ師を配置せよ」こんな要求が今まであったろうか。だが、前例がないだけに実現は容易なものとは思われなかった。この要求実現のためにどのような運動が必要か、対策委員会が何度となく開かれ検討が加えられた。
このほかに、私や高嶋ほか数人の間だけで、例の「誓約書」の扱い方について話し合われた。休職から休暇(病気休暇)に切り換えるにあたって、税関当局が本人に示してきた「センター卒業と同時に辞職する」という条件を書いた誓約書のことである。それを読むこともできない全盲の障害者に向かって、印鑑を押さなければ免職にするということを、ほのめかしながら迫った税関当局の卑劣なやり方は、どんなに弁解しても許せるはずのものではなかった。税関当局から二名、センター職員二名、そして家族二名というものものしい雰囲気の中で、印鑑を押すか押さないか、いま首になるかそれとも身分延長になるか、当局は馬渡さんに迫ったのである。脅迫であった。国家公務員法にも人事院規則にも、そのどこにも書かれているわけでもない違法の誓約書を、当局は人道主義の名の陰で、脅し取ったのである。しかも「この事実を他人(労働粗合)に知らせたなら、どういうことになるかわからない」などといったやくざまがいの脅しも付け加えられていた。法律にもどこにも書かれていない文書だが、視力を失い、将来に限りない不安を抱えた馬渡さんにとっては、非常な重圧感をもって束縛するものであった。
この事実は、一般組合員には知らせることはできない。数人の組合幹部だけの胸に秘められ執行委員会にも報告されなかった。もしも、それが明らかになれば、当局は馬渡さんに何をするかわからない。生殺与奪の権限は税関当局にあるのだから、どんな名目でも首を切ることができる。分限免職を発動するかもしれない。だが・・・、署名運動が全国に拡がり、支援が全国から押しよせるような事態の中で、首切りなどとうていできないような世論の高まりの中でこれが公表されたらどうだろう。センター卒業と同時に辞職させることを取りつけた文書は、当局にとって決定的な武器であった。組合がどう騒ごうと、これさえ取ってあれば難なくクビにできる「お守り」みたいなものであった。だがこの誓約書こそは使い方によってはみずからも傷がつく「諸刃の剣」でもあった。たんに馬渡さんと当局との間の約束事に済ましておく限り、当局にとって重要な力を持つ文書でも、ひとたび公表されたなら、世間に対してはどのようにも弁解できない違法文書でもあった。
当局は、馬渡さんを陥落させる決定的な切り札を得たつもりだろうが、気がついてみたらそれが恐しい爆弾に化けていたということになる。たたかいの高揚によって敵の武器を味方の武器に変えてしまう。まさに「たたかいの弁証法」であった。だが、切り札は、時期を選んで決定的な時に使わなくてはならない。出す時を間違えば、何の役にも立たないばかりか逆効果をもたらす。当局があくまでも職場復帰を認めず、一方で各界・各層の中に支持が拡がり、署名が山と積まれた時点がそれである。それまではじっと秘匿することである。運動の基本はあくまでも大衆的な拡がり、全国への支援の拡大である。


 「馬渡さんを守る会」の結成が準備されていた。八月三十一日が結成大会と決められた。


馬渡さんを守る会結成


 「馬渡さんを守る会」を作ろうと計画しているとき、一部の組合員から「全税関っていう労働組合があるのに、なぜわざわざ別にそんな組織を作る必要があるのだ。組合が馬渡さんのことを全く取り上げようとしないっていうのなら、守る会を作って独自の運動をしなけりゃならないだろうが、全税関は今までも馬渡さんの問題には全力をあげてたたかってきたではないか。それに守る会ができたって、入るのはほとんどが全税関の組合員ばかりだろう。結局、組合と二重組織になるだけで、かえって運動を複雑にするだけではないか」という疑問が出された。もっともな話である。たしかに、全税関労組はこれまで馬渡さんのことでは、あらゆる努力は惜しまなかったし、これからも変わらないであろう。また、守る会に入ってくれるのは大半が組合員に限られ、第二組合員はほとんど参加してくれないだろう。
しかし全税関労組がいかに立派で、馬渡さんの問題を真剣に取り組んでくれるとしても、馬渡さんのことだけをたたかっているわけにはいかない。そのほかにも賃金闘争、職場環境改善闘争、組合員差別反対闘争などさまざまな課題を処理していかなくてはならない。ことに春闘の時期にぶつかれば、ストライキなど重要なたたかいを取り組むことになり、馬渡闘争などはどうしても片手間仕事にならざるを得ない。それに組合執行委員は、それぞれが多くの任務を抱え、せいいっぱいの活動に明け暮れている。そこへきて、馬渡闘争のような前例の少ない運動を全国的な規模で、しかも大胆かつ緻密な戦術が要求される大詰めのたたかいを展開するためには、労働組合だけの力ではどうしても無理がある。この職場復帰闘争だけを組織し展開する強力で持続力のある特別な運動体が必要である。
 八月三十一日、横浜市従会館で「守る会」結成大会が開催された。何人集まってくれるか自信がなかった。会場も五〇名収容の小さな部屋を取った。だが、結成大会は大成功だった。続ぞくとつめかける仲間たちで、たちまち会場はいっぱいとなり、ほかの部屋から椅子を運び込むほどで、七十数名がぎっしりと座った。集会には、神視障守る会の市川会長、竜崎執行委員、全視協の黒岩事務局長、それに東京12チャンネル労組から鈴木英世さんに石原さん、全税関労組から北島中央執行委員が駆けつけてくれた。馬渡さんの隣りには、奥さんの敏子さん、そして一粒だねの勝之ちゃんが座っている。集会は、むんむんする熱気の中に始まった。全税関横浜支部の麻生支部長のあいさつに続いて、馬渡夫妻が立った。「私、こういう場所で話すことは初めてです。よくしゃべれませんが、主人のためにこうして、こんなに多くの方がたが集まってくださり、本当にうれしく思っております。主人が失明して以来不安な日をたくさん過ごしました。でも税関の皆様がこんなに応援してくださり、とても心強く思います。
来年、主人が視力障害センターを卒業しますが、それから先どうなるのかと考えると、胸が締めつけられるような気がします。 税関に戻れるなんて夢みたいな話で、それが本当のものになるとは信じかねています。皆さま、私たちもいっしょうけんめいがんばります。どうか御支援をよろしくお願いいたします」。奥さんの話に、会場は破れるような拍手だった。馬渡さんの話も明るかった。はり灸に生涯をかけて生きようと決意したこと、今年の夏、税関の中で治療実習をしたいと当局に申し入れたところ、あわてて家にまで断りに来た話など、会場を笑わせながら職場復帰闘争への決意を力強く語った。
神視障守る会の市川会長は、「近いうちに県内の各団体を結集して、支援共闘会議をつくって運動を支えたい。神視障守る会は、全組織をあげて運動する」と、頼もしい決意を語ってくれた。全視協の黒岩事務局長も、全国の組織をもって支援運動を展開すると約束してくれた。東京12チャンネルの鈴木さんと石原さんは、12チャンネルの職場に「守る会」を作りたいと、私たちが思ってもみなかった計画を話してくれた。
会則も全員一致で承認され、会費は毎月百円ということに決った。会長には、岩元秀雄が選ばれた。馬渡さんの一年先輩であり、温厚でねばり強く周囲の信頼が厚い人である。かつては、全税関横浜支部の書記長も歴任している。 副会長に氷見英治と高嶋昭、事務局長は私である。事務局次長に高橋鉄雄、幹事には寺内武郎、島崎了一、針生功、加藤義文、土屋光昭が選ばれた。頼もしい仲間たちだった。この一〇名の幹事が一丸になって、一年後の守る会解散まで苦楽を共にした。原稿書き、印刷、郵便物の発送、オルグ、宣伝、交渉、座り込み、馬渡さんの手引き、集会での訴え、会議等々、まさに馬渡さんの願いをわが事として献身したのである。馬渡闘争において、この活動家集団が無かったならば、あの最後の勝利はのぞむべくもなかったであろう。
守る会には、この日だけで六十数名が加入した。十日後には九五名、そして九月末には一二〇名をこえた。この中には、第二組合である横浜税関労組の組合員も数名含まれている。当局にわかればたちまち、いやがらせがくることは覚悟の上で加入してくれた。九月中旬、署名用紙が完成した。二種類が一枚の紙に印刷されている。一つは労働大臣あての請願書で、もう一つは横浜税関長あての要請書である。裏面には「失明した馬渡さんの職場復帰実現のため、支援を訴えます」と大書され、「守る会」結成大会の時の馬渡さん一家のにこやかな写真とともに、訴え文が寄せられている。訴え文は、全税関労働組合、馬渡さんを守る会、神奈川視力障害者の生活と権利を守る会、全日本視力障害者協議会の四者による連名であった。労働大臣あての請願書は、「身体障害者雇用促進法を統括する立場から、横浜税関長に対し同法の遵守、当人の職場確保の旨を監督、指導してほしい」としたもので、横浜税関長あての要請書の方は、「センター卒業後はただちに職場復帰させ、氏の特技を生かし、診療室において理療師(はり灸マッサージ師)として配置するよう」要請するものであった。
この署名用紙は二万枚印刷された。一枚五名分の署名欄があるから、全部で十万名分である。各地の署名運動の経験によると、実際に署名されて返ってくるのは一割で、カンパの方は署名者一名当り十円というのが相場だという。するとこの場合、一万人分の署名が集まって十万円のカンパが寄せられるなどと、まだ何も行動しないうちから皮算用して笑ったりした。労組と守る会は一斉に行動を開始した。組合員、特に守る会会員には一人五から十枚ずつ渡され、毎日、どこへ行くにも持っていって訴えるよう頼んだ。視力障害センターの馬渡さんのもとにも、三〇〇枚の用紙が渡された。守る会幹事会では、そのほかに、全国各地の労働組合、学者、文化人、革新首長、国会議員などに返信用封筒を入れて郵送しようということも計画した。これは、金と労力のいる仕事だった。守る会の会費では、とうていまかなえない規模の運動になりそうであった。全税関労組は、三人の解雇者を支えている上にさらに激烈な分裂攻撃による組合員の減少によって、財政的な期待は無理であった。 結局は、署名と共に訴えるカンパに期待するところ大であった。
一人当り一〇円、一万人で十万円、こんな金額では持ちそうにない。この忙しい中で物資販売などやるわけにもいかない。ええ、ままよ。金がないから運動を制限するようなことはすまい。貧しい運動からは、集まる金も貧しくなる。思いきった規模の、税関と政府をゆるがすような運動に高めよう。カンパもたくさん集めて豊かなたたかいを展開しようo


関西オルグ


 全国に支援の輪を拡げる場合、この細長い日本列島の東側からだけでは不充分さを感じた。もうひとつ西側に、何とか拠点がほしかった。いろいろ考えた末、われわれはとりあえず関西オルグを派遣して、労働組合や障害者組織によびかけ、運動の協力者になってもらおうと考えた。九月二十一日から二十四日までの四日間、「守る会」は、私を大阪・神戸に送り出した。全税関労組神戸支部では、昼夜二回の組合員集会を開催して私の訴えを聞いてくれ、「馬渡さんを守る会」の結成を約束してくれた。同大阪支部でも懇談会を開いて、私を激励してくれた。兵庫県障害者連絡協議会でも取り組みを約束し、大阪視力障害者の生活を守る会の集まりでは、目の不自由な仲間たちが集まって私の話を真剣に聞いてくれた。また障害者(児)を守る全大阪連絡協議会も、私の来阪に合せて集会を開催し、持っていった署名用紙三〇〇枚はたちまち底をつき、改めて一、〇〇〇枚追加して送ることになった。この関西オルグでは、馬渡闘争の強力な味方を得るとともに、多くの貴重な経験と教訓をもたらしてくれた。


職場復帰支援会議結成


 一九七三年十月十日、「馬渡さんの職場復帰支援会議」が結成された。労働組合と障害者団体が手を結んで馬渡さんの職場復帰を実現させようという、画期的な組織であった。この日の集会には、全税関労組、馬渡さんを守る会、神奈川視力障害者の生活と権利を守る会、全日本視力障害者協議会、神奈川県国家公務員労働組合共闘会議の五団体が参加した。この支援会議の中核は、全税関と神視障守る会であった。計画は数ヵ月前から相談し練り上げられた。神視障守る会の執行委員会は、かなり以前からこの問題が検討され、「全税関労組のたたかいを支援するのではなく、障害者の立場からみずからの問題として取り上げ、独自の方針を作って関わってゆく」ということが決められていた。そして、全視協に対しても中途失明者の問題を特に重視するよう問題提起していた。
ここまでくるのに会員の中にもかなり異論があったという。たとえば、「視力障害者の問題というが、結局は労働組合の内部問題ではないか。われわれがそれを取り上げてゆけば、運動が偏よるのではないか」「馬渡さんは労働組合にこんなに支援されているのに、本人はあまり動かない。おかしいではないか」「自分が失明した時には誰もこんなに援助してくれなかった。馬渡さんは恵まれすぎている」「職場復帰なんて成功するはずがない。馬渡さんがセンターを卒業すれば結局われわれと同じ開業せざるを得ない。だからセンター卒業後の共通問題を扱った方がよい」等々・・・
それに対し執行委員会は、先にあげた基本的態度を決め、それに基づいて「会の一部の人だけで動くのでなく、会全体に拡げるべく多くの人で参加してゆく」「本人の希望を中心にすえて運動すべきで、組合にひきずられたのではたたかいきれない。全税関にこの点を申し入れる」「守る会としても馬渡さんに会って、その決意をきいて会員に知らせる」などということが打ち出されていた。全税関横浜支部と神視障守る会は何回も会って協議を重ね、支援会議の結成へとこぎつけた。この集会で全視協の橋本会長は「これまで労働運動は日のあたる運動、障害者運動は日かげの運動とでも言いましょうか、とにかく異質のものと考えられてきました。馬渡闘争によってその常識が破られました。労働運動と障害者運動が連帯する中で、本当の勝利が展望できるでしょう。運動の中心はまさにこの支援会議の場であろうと思います。視力障害者の働く権利の問題は非常に困難なもののひとつです。しかし、公害や日照権なども最初は各地でバラバラにたたかわれていたものが、一つひとつ勝利する中で世論を動かしてきたのです」と、その意義を強調した。
神視障守る会の大谷昌司さんは「馬渡さんが首になったら官公庁からの身障者追い出しを、国が社会に認めることになる。運動がここまできた以上絶対に負けられない。今まで、われわれの視力障害者運動は孤立してきた。 他の団体とともにひとつの問題をたたかったという経験はない。このように人間的な連帯で、労働組合とたたかうということに感動する」と、その感激を述べた。神奈川国公共闘会議の渡辺副議長は「これまで取り組みが弱かったが、今後、馬渡さんのことについては、働く権利を守る立場から、高齢者や婦人に対する退職勧奨、労働災害、職業病などのたたかいと同じく位置づけたたかってゆきたい」と語った。
馬渡さんも、最近当局から「税関はあなたの将来にふさわしい所ではない。あなたに合った職場へ就職したらどうか。もしその気があるなら、視力障害センターの職員となるよう考えてもよい」と言われたことにふれ、「私は税関以外にゆきたいと考えているのではありません。税関に戻ってみんなの健康管理の仕事がしたいのです。視力障害者になって、誰も知らない人ばかりの職場へ行ったって働くことなど大変なことだと思います。ほかで働くならこんな運動はしないで、さっさとやめてしまっています」と、決意を披瀝した。支援会議議長には市川邦也氏が選ばれ、事務局長に私が任命された。そして、神奈川県内で少なくとも署名一万人分は集める、各地で街頭署名を実施する、税関当局、労働省などと交渉する、加盟団体をさらに増やし支援会議を充実するなどの方針が明らかにされた。
守る会が運動の中核なら、この支援会議は組織の中核と言えた。労働組合と障害者組織の結節点として、運動を広く全国の視力障害者の中に拡げ、さらに全視協から障全協を通じて全国の障害者運動に結んだ。それだけでなく、神奈川県内のあらゆる場に署名が持ち込まれ宣伝される中心ともなっていった。支援会議にはその後さらにつぎの団体が加盟してくれた。横浜港湾労働組合協議会、横浜地区労働組合協議会、横浜市立高等学校教職員組合盲学校分会、平塚市視力障害者協会、ベーチェット病友の会神奈川県支部、働く身障者友の会。(合計十一団体)
結成総会のしめくくりとして、支援会議議長となった市川さんは、「私は議長をおおせつかりましたが、今日の皆さんの発言をきき任務の重大さをつくづく感じます。今まで労働運動が障害者問題とかかわるとしたら、労働災害や病気にかかった人の退職金、補償金、休暇延長などといった程度でした。それを全税関労組は、身障者の職場復帰の運動にまで高め労働権のたたかいに発展させました。私たちのこの運動は、法でありながら法の効力を持たない身障者雇用促進法に、新鮮な活力を吹き込むたたかいでもあります。すなわち本当の法をつくるたたかいなのです。馬渡さんが来年センター卒業と共に職場に戻れるよう、皆さまと共にこの関門を突破していきたいと思います」とむすんだ。


新しい陰謀


 十月十九日、全税関横浜支部は支部長と書記長が横浜税関の総務課長に詰めよった。

 組合 あなた方は来年三月にセンターを卒業する馬渡さんをどうしようとしているのですか。本人はぜひ職場に戻りたいと言っているのに、どうやら当局はそれを拒否しようとしているらしい。
 当局 まずはっきりさせておかなくてはいけないのは、こうした個人の人事問題なら、当局としては組合とは一切話し合うつもりはないということだ。われわれはわれわれなりに馬渡さんの将来については真剣に考えている。
 組合 ひとりの障害者が、その将来に不安をもってけんめいに勉強しているというのに、その重大な問題で組合と話さないということは許せない。
 当局 個人の人事問題は、国の管理運営の事項に該当する。国家公務員法では、こうした問題では組合とは交渉できないことになっている。それから、昨年十月に約束した「セソター卒業までは身分を保障する」(病気休暇への切り換え)は組合で宣伝しないでもらいたい。
 組合 組合の宣伝は、組合が決める。当局が口出しする必要はない。馬渡さんの職場復帰を認めよ。
 当局 とにかく、これ以上話すつもりはない。本人の気持もよくきいて処理したい。

 私たちは、当局が最後に言った「本人の気持ちをききたい」という言葉にひっかかった。組合と本人が職場復帰を要求してたたかっているのに、なぜことさら本人の意見をきこうというのであろうか。このとき、私たちはこれをさほど深く考えてもみなかった。だが、ここに重大な問題がかくされていたのである。これが判明するのはもう少し経ってからであった。当局はあいかわらず組合との交渉を拒否していた。


署名は全国に拡がる


 守る会幹事会は連日の大奮闘に明けくれていた。二万枚の署名用紙をどうやって、どこへ送ったらよいのか。今までつきあってきた周囲の労働組合の数は高が知れていた。県内の労働組合名簿を引っぱり出し、今まで一度も行ったことのないところをリストアップし、職場の仲間に署名用紙を持っていってもらった。全国の革新市長会の名簿、学者、文化人、国会議員の名簿もようやく手に入れ、支援要請書と署名用紙を発送した。 その数はおよそ八〇〇通、すべてに返信用封筒も同封した。新聞社に対する依頼も大切だった。われわれは横浜税関の中にある記者クラブにちょくちょく顔を出し、馬渡闘争の経過や意義を話した。マスコミは、ともすると障害者問題を安易な同情と美談で処理しようとする。運動の中で、泥くさいたたかいの中でだけ、真の障害者の解放がもたらされるということを、何とかしてわかってもらう必要があった。
多くの組合員が、署名用紙をかかえてオルグにとびまわっていた。私たちは彼らに「馬渡さんへの支援を訴えるだけでなく、そこの職場の中でそういう人が居ないかどうかよく聞き、居たら馬渡闘争のようにたたかぅ必要があることも話す必要がある。われわれの周囲の労働組合に、今後障害者の解雇を許さないという気がまえをつくり上げること」をよく理解して行ってもらった。東京12チャンネルに「馬渡さんを守る会」ができた。三〇名の会員が生まれたという知らせが入った。前委員長の島村さんや鈴木対策委員会の石原さん、それに鈴木英世さんなどの奮闘の結果だと思われた。
「支援会議」は、結成されるとただちに街頭署名運動を計画した。一九七三年十月二十七日、川崎駅の近く〃さいか屋デパート〃前でその第一回が実施された。十月末とはいえ、師走を思わせるような寒風が吹きすさび、じっと立っていると腹の皮がふるえてきそうな冷たい日だった。税関から一〇名、神視障から六名も参加して盛大にやられた。ビラを配りながら通行人に呼びかける。「馬渡さんの職場復帰のために署名をお顔いしまーす」(馬渡さんて言ったって誰のことかわからないじゃないか)「あ、そうか。 横浜税関で失明してクビを切られそうになっている馬渡さんの職場復帰を要求する署名に御協力お顔いします」(長すぎるよ)「それじゃ、失明しても働き続けられるよう署名をお願いしまーす」(なかなかいいよ)「失明した税関の馬渡さんが安心して働き続けられるよう署名に御協力くださーい」街頭署名は初めてだった。わいわい言いながら税関と視障者の仲間はなごやかに署名を訴えた。
この日、約二時間訴えて署名五五、カンパ一九二〇円が集められた。この後、四回にわたる街頭署名運動によって、署名四七九、カンパ二万五、四六三円という多数の署名カンパが得られた。署名一人当りカンパは十円と言われたこの当時の相場は打ち破られた。一万名分で十万円という当初の予想を、はるかに上まわるものとなりそうであった。思い切って規模を拡げて運動をやれそうであった。この街頭署名には、参加者延人数で税関四十四名、神視障二十二名、べーチェット病友の会一名、計六十七名という多くの人が協力してくれた。全税関の組合員にとって視力障害者の仲間と実際に肩をならべて行動したというのは初めての経験であった。 話には聞いていたが、確かに頼もしくたくましい人たちだった。いっしょに呼びかけ、いっしょにビラを配り、いっしょに署名を訴える行動は、今までになかった連帯感をつくり出した。神視障の仲間たちにとっても、晴眼者とこうして肩をならべて活動するのは初めての人が多かった。最初何となくぎこちなかったものが、署名活動を終わって喫茶店でコーヒーを飲む時には、なごやかな冗談さえ飛び交う間柄になっていた。


[続く]

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