特定非営利活動法人タートル 情報誌
タートル 第13号

1998年10月9日第三種郵便物認可(毎月3回8の日発行)
2010年11月30日発行 SSKU 増刊通巻第3675号

目次

【巻頭言】

「視覚障害者の就労に思う」

副理事長 安達 文洋

長引く日本経済の低迷から就労に対する環境は年々厳しくなっているような感じがします。我々、視覚障害者にとっても同様で、いくら頑張っても中々雇用主に理解されないのは残念な事です。それは雇用主が見えない事に対する不安が先行して、視覚障害者を理解しようとする姿勢に欠けていると言っても過言ではないでしょう。

実際に一昨年タートルが独自に全国から無作為に約130社を選び、視覚障害者の雇用に関してアンケート調査をした結果、「通勤に不安」「どんな仕事を与えてよいのか分からない」という回答が大半をしめました。

その結果を踏まえて、「優秀な人材を見落としていませんか」という15分間のDVDを自主制作しました。お陰様で、良い評価を得たので、今年は「ヤマト福祉財団」と「読売光と愛の事業団」から助成金を受けて1500枚を増刷しました。

これから企業、眼科医、訓練施設、ハローワーク、就労支援施設、盲学校等へ幅広く頒布して視覚障害者の就労を理解していただくよう活動する予定です。

さて、雇用主が障害の有る無しに関わらず、雇用にあたって求める人材像はどんなものでしょうか?一般的に「何事も前向きにチャレンジして実行する人間」だと言われています。最近、「指示待ちの社員が増えてきた」という声がよく聞かれます。言い換えれば、創意工夫して提案する姿勢に欠けている事ではないでしょうか。我々も見えないから出来ないという観念を棄てて、こんな条件、環境であればこんな仕事が出来ると雇用主に積極的に提案する事が大切だと思います。

また、視覚障害者としての特性を生かすのも一つの手段です。例えば、感じる能力である「感性」は一般の健常者よりも優れており、もう一つは「集中力・持続力」が秀でている人が多いと思います。このような特性を生かし、社内研修などの企画や、議事録作成など集中力を生かす仕事も有ると思います。

タートルでは交流会、セミナー、啓発DVD等を通して実例を紹介しておりますが、まだまだ未知の世界が沢山あるのではないかと思っています。皆様の中で、こんな仕事をしているが、他の障害者の人にも参考になるのではないかと思われる仕事があれば、ご連絡していただければ幸いです。

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【9月交流会・講演】

「我々だって、こんなにできる、我々ならではのアイディア」
サブ・タイトル:一人ひとりの能力を生かそう

 株式会社井門コーポレーション 課長 長野 一郎

皆さん、こんにちは。私はただいまご紹介にあずかりました長野一郎と申します。40分ほど、今司会の方からご紹介がありました「我々だって、こんなにできる、我々ならではのアイディア」というテーマにてお話をさせていただきます。

まず、私とわが社の概況について、ご説明します。
私は、1956年8月生まれの当年とって54歳で、1980年の3月に学習院大学理学部数学科を卒業後、同年4月に旧大丸百貨店、現状は井門エンタープライズという名前の会社に入社しました。その後、企業再編を経て、1996年4月に現株式会社井門コーポレーションに転籍。一貫して私は情報システムを担当しており、1988年から現在に至るまでずっと課長という肩書を拝命しております。

現在所属している井門コーポレーションというのは、井門企業グループの18社の中の中核企業として位置付けられており、本社機能はすべて井門コーポレーションに集約されています。小売部門では、家具・宝石・貴金属、新規事業の鉄道模型の小売部門があり、関連子会社では、不動産賃貸・倉庫管理・中国料理の外食産業があります。

私どもの創業者井門富士逸が、大正時代に愛媛県から上京して、家具中心に月賦販売の会社を起こしました。今では月賦販売も、皆さんには馴染みが薄いのですが、それは信用販売の仕組みが世の中に蔓延してきたからです。この環境変化に伴い、月賦百貨店では、売り場面積の制限などもあり、商売がやりづらくなってきたということで、1983年から秋葉原の電気専門店のラオックスと業務提携をする傍らで、現金専門店化を目指しました。

私は小売部門に配属され、情報システムを担当しておりましたが、ある出来事をきっかけに、商品管理担当のプログラマーとしてこの会社の中で自分の生きる道を見つけました。本社機能が集約されている井門コーポレーションは小売部門だけを担当しているわけには行かず、関連会社の不動産賃貸や倉庫管理などのシステムの全ての管理も、私に任されております。

それでは、本題の「我々だって、こんなにできる」というところに、話を移させていただきますが、ここからは、聴衆の皆さんが何らかの形で会社や団体組織に属しておられたということを前提に話します。

私は、1980年入社した当時は矯正視力の利かない弱視でしたので、いつ失明するのだろうかという不安を抱えながら暮らしていました。しかし、見えなくなったという時、それは単に眼が見えないということであって、それまで培ってきた経験や知識もすべてなくなるということではないと思いました。即ち、その知識や経験を、別の形で職場で生かすことが、可能ではないかなと思ったのです。

私は、プログラムは眼で作るものではなく、頭で考えて機械の中にシステムを打ち込めば、動かせるという考えで、眼が見えなくてもできる仕事だと思っております。入社して1年後には、先輩に仕事を貰っていました。数分後に仕様から頭の中で出来上がったプログラムを、パンチカードに入力して成果物にしていました。

ですが、あくまでも人から言われた作業なので、これだけでは我々だってこんなにできるとは言えません。我々だってこんなにできると言えるようになるには、いろんな人達の助けを借りて、作り上げる物の中心に自分がいられるようになるということです。

皆さんもご苦労はあると思いますが、眼が見えなくなるというだけで、絶対に諦めないでください。総務担当の方や、タートルのように中途失明者の復職や継続雇用を考える団体から支援していただきながら、会社で生きる道を探すということを考えるべきだと思います。

私がもう1つ言いたいのは、精神力の強さで苦難をどう乗り越えるかです。
私の場合、電算室要員は1980年の入社の際に11人いましたが、1985年には自分と部下の2人になり、当時私が主任でしたので必然的に責任者となりました。これはピンチに思えますが、会社に対し、それだけ大きな発言権ができたというチャンスなのです。1986年の春先には、部下も肝臓を壊して退職となりとうとう一人になりました。当時、300人の社員を相手に情報システムを動かす状況にあり、限界を超えていましたが、この苦難を乗り切れば、絶対に明るい未来は開けると思っていました。そして、この苦境を打破すべく行動を起こしました。

1回目は1984年。既存システムを破棄し、新たなシステムを構築したいという提案をしました。が「費用が掛かり過ぎるな」との理由で否認されました。1985年、2回目の提案をしました。が「時間が掛かり過ぎるし、先のことは分からない。これに金は出せない」との理由で否認されました。私は、今度承認されないのであれば、この会社にいる価値がなく、退職しかないと思いました。その強い覚悟で3回目の提案書を作り上げました。1987年の初冬の役員会において、私は社長の正面に座していました。その席で、国産からIBMのハードウェアに置き換えてシステムを再構築すると言う提案をしました。私自身が作り上げたデモンストレーションテストを、IBMの機械はクリアしていました。ですので、自信を持ってシステムの提案ができました。

提案して1週間後。ゴーサインが出てからは、毎日朝9時に出勤して午前3時に帰ると言う苦しい日々が続きました。しかし、私は一人ではありませんでした。IBMの方々、協力会社の方々が私を助けてくれました。それで、私は新たなシステムを作り上げることができたのです。我が社のシステムは私がすべてを設計したので、私の頭の中にシステムが入っています。ですから、私が分からないことは、会社の誰も分からないということです。我々だってこんなにできるという1つの事例になると思い、お話させていただきました。

現在に至るまでの苦労を幾つか説明します。
私は、1980年の入社当時は弱視でした。それが、1990年12月24日の通勤時、雪が降り積もっていたところをサングラスを家に忘れてしまったため、私は眼をつぶって歩いていました。ところがその途中、同行してくれていた父の「危ない」と言う言葉に、眼を開いてしまったのです。その瞬間、雪の照り返しの光が飛び込んできて、目の前が真っ白になりました。あれ、もしかしたら自分は失明したのかな?終わりがきたのかな?それでも、明日は見えるようになってくれないかなと思いながら、3日間悩みました。見えなくなると思えば、普通落ち込むかもしれません。が、見えなくても死ぬわけではないし、何とかなる。そう思いながら、学生時代を過ごしていましたので、3日間で気持ちを切り替えられました。

また、人から命令される立場では、命令されてそれでお仕舞いになるわけです。が、私が眼が見えずとも頭になれば、「これやってくれないかな」というふうに、やってくれるのは眼が見える部下です。こういう環境を会社に入った時につくらないと、私の残る道はないと思っていました。それが、先程お話させていただいた状況になったわけです。こんなに世の中が上手くいくことはないのかもしれません。

また、私の部下は酒飲みでした。ですから彼を、毎日12時の業務終了後「飲みに行くか」と誘っていました。そうやって毎晩飲み歩きましたが、それが原動力にもなっていました。私は、この苦しさを乗り切れば、その先に未来が開けると思っていましたが、実際に未来が開けたのです。

1988年にオンラインを動かし始めると、会社も長野一人で全てを見させてはいけないということで、すぐに私の部下を3人つけてくれました。が、すぐに女性の一人は辞めてしまい、男女各1名が私の部下になりました。それから、1989年、90年と部下を入れてもらい、私の部下は6人になりました。そうすると、また、いろいろなことができるようになるのです。事業の拡張にともない、現場の要望に沿ってシステムを作り上げていくのですが、それは私が作るのではありません。私が設計して、部下や、協力会社の人達にその内容を説明して、システムを作り上げるようにしたのです。

井門という会社に私が入れたということが非常に幸運だったと思います。失明して私自身が3日で立ち直れたのも、良い部下に恵まれたからだと思います。私は3日間悩みました。が、見えなくなっても自分が必要とされる仕組みを作ろうと思って、IMONSを作ったのではないか。そうであれば、眼が見えなかろうが、見えようが自分の頭の中にあるシステムだから、それを動かしていけばいいだけの話だというふうに思えるようになり、立ち上がることができました。

立ち直って仕事をし始めると、自分は眼が見えないので、見てもらえばいいんだと単純に思い込み、周りの人間にやたらと聞くようになったのです。 ある時部下に文書を見てもらった際、部下が凄く不機嫌な声で、「XXXと書いてあります」や、「XXXです」というので、なぜ不機嫌なのかなと思いました。ちょうど正月休みになったのでその理由を考えてみました。すると、与えた仕事を部下がしているのに、それを中断させて、私が色々聞くわけです。不機嫌になるのは当たり前だな、考えているのにぶち壊してしまうなと思いました。実は私自身も振り返ってみると、そうでした。一所懸命考えている際に上司に「長野君、ちょっといいかな」と言われます。良くないよと思いながらも、「ハイ」とさわやかに返事をするのですが、内心はコノヤロと思いながら。それと同じことなのです。

それで正月明けに、皆を呼び集めて「悪い。実は今までは若干は見えていたのだが、不注意から最近眼が見えなくなった。助けてくれ」というふうに説明したのですが、分かってもらえませんでした。

そこで毎日自腹で部下を誘って酒を飲みました。その中で、表面的な話ではなく、本音を皆に聞いてみました。すると、「自分達も作業をしているのですから、途中で中断されたら嫌ですよ」ということでした。「ではどうしたらいいかな」と聞いてみると、「例えば、まとめてやってくれませんかね」や、「今日は誰それが担当ということを決めたり、ある程度溜めておいて、今日は資料を1時間読んでくれないかな」と言った話が出てきました。そこで、「なるほど、分かった」と伝えました。1991年当時ですからパソコンも高いですし、音声化ソフトもOCRソフトも今のように優れた物はありませんので、「皆の眼を借りなければ仕事ができない」ということでした。

他に、1985年会社にいろいろあって、電話交換手などもすべて廃止となりました。それで、本社に電話が掛かってきたものは、誰でもが取れるようになったのですが、他部署の、大先輩に電話を取らせるわけにはいかないと思い、私どもの部署が取っていました。それを、「本社に電話が掛かってきた時には、私が積極的に電話を取るよ」「僕がいないときには取ってもらうようになるが、僕がいるときは皆取らなくていい」というようにお互いが支え合えるような形を提案しました。

今振り返ってみると私も管理職に成り立ての頃、非常に傲慢なところもあったと思います。私は弱視ながらもプログラムは2,500本作りましたが、これは3年か4年ぐらいで作っているのです。言われるとすぐ頭にプログラムが浮かぶものですから、入力してコンパイルして一丁上がりという形です。プログラミングには自負があって、大体人の4倍ぐらい仕事はできるかなと思っていました。それで部下も教育すれば、人の2倍・3倍ぐらいには、仕事ができるようになるだろうと思っていました。

しかし、その考えは間違っていました。部下の性格や考え方などを理解して、能力に応じた導き方をして、育てるしかないということ。これは人の言葉を借りると、“やってみせ、言って聞かせて、させてみて、褒めてやらねば人は動かじ”ということです。まさしく課長は率先垂範して見せる。そして、部下にこういうふうにやるのだよとさせてみて、「おお上手くいったな」となれば褒めるし、「叱ること」が10個あれば1つだけ言って聞かせる。そうやって人の和を段々作り上げていくのです。すると、私の言うきついことも聞いてくれますし、皆でやっていこうという和が生まれます。そういうものを、視覚の如何に関わらずその人が持っている能力で、「これはできるが、これはできない」を理解しなければなりません。

アイディアや論理的思考など、経験をもって10年・20年・30年選手で見えなくなった人達は、脳の線条体に、無意識の知識がどんどん蓄えられてきているはずです。 例えば、危険なことが起こりそうだなと思うと「危ない」と、私は直感することがあります。理由は分からなくても、取り敢えず止めとけということがあります。経験から得た直感が、見えなくても働くわけです。こうしていろいろな力を働かせることにより、未然に危険を回避したりします。つまり、見えている人にも、見えない人にもいろいろな知識や、能力、経験などがあるのです。

皆さんは能力を持っているから仕事をしてきたわけです。その中の一つの能力である眼が見えなくなったというだけのことです。そうであっても、別の力を使って会社の中で生き残っていくということは、必ずできます。部下には、私の能力でできることは私に任せてくれと言います。

例えば1990年当時パソコンは出たばかりですが、この頃はCUIでした。それが1993年辺りから、GUIになりました。それで、今まではコマンドを全部打てばよかったのですが、私にはどんどん使いづらくなりました。1995年にWindows95が出るに至って、本当に最悪でした。それ以降の5年間、非常に苦労しましたが、皆の助けがあったために救われました。2000年にパソコンを全店に導入するに当たって、部下に、「君はパソコンを勉強してくれ」「君はポスレジと売り場のいろいろな事務手続きに関するプロになってくれ」などと伝えました。こうして、部下に私の肩代わりをさせました。そこで、キャリアパスを作らせるというような形で、できる能力に応じて仕事を与えてきました。要するに、スペシャリストの集団を作ったということです。

会社は、ゼネラリストを要求します。が、見えなくなったら、スペシャリストを目指さなければいけませんし、ゼネラリストにはなれません。広く薄く何でもできるというのは無理ですから、スペシャリストを目指すしかないのです。特に情報管理部門では、見える見えないに関わらずスペシャリスト集団を作る。そうすれば、できることとできないことを併せることで、皆の協力でできる仕事があるのです。そういう形で作り上げたのが私がいる今の職場です。

ところが、1995年から結婚退職とか、自分で会社を作りたいとか、1997年から始まった鉄道模型の事業に、鉄道の趣味を持っているので移りたいとか、そんなことで3人抜けて、残りは私を入れて4人になりました。1999年に、一身上の都合で一人部下が辞めようとした時、ちょうどそれまで使いづらかったパソコンが、何とか使えるようになってきました。

皆さんもご存知の通り95リーダーや、2000リーダー、アメディアさんのヨメールとか。そういったものがいろいろと出てきました。私が今使っているのがらくらくリーダーです。このOCRソフトで名刺を読ませてExcelに格納させたりなどして、作業ができるように改善できました。

いろいろな意見書とか稟議書など、きちんとした形式の書類、私には作れません。ですので、原案はメール、もしくは、ワープロのベタ書きみたいな形で作ります。それを部下に校正してもらうような形をとっています。

以上にて私の講演を終わらせていただきます。ご清聴ありがとうございました。

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【定年まで頑張りました】

「都立中央図書館の視覚障害者サービスを担当して思うこと」

田中 章治氏

初めに

私は、先天性の弱視でしたが、20代で完全に失明し、30歳前後から盲導犬を使用して生活しています。私は、東京都が1973年に全国に先がけて実施した点字による公務員採用試験(職種は「福祉」)に合格し、都立中央図書館に就職しました。そこで最初に、私が35年間勤務したこの図書館における視覚障害者サービスのあゆみについて、概観してみます。

1970年4月  都立日比谷図書館で視覚障害者サービスが開始(録音サービス)
1970年10月  同図書館で対面朗読サービスが試行的に開始
1973年1月  都立中央図書館オープン、視覚障害者サービス本格実施
1974年4月  筆者(田中・視覚障害職員)が採用される。3名の専任職員体制が確立
1980年4月  点訳サービス開始
1988年4月  マスターテープをオープンリールからカセットテープに切り替え
1996年4月  視覚障害者サービス室が1階から3階に移転
1999年4月  録音図書のDAISY化取り組み開始
2006年3月  筆者が定年退職
2009年3月  筆者が再任用期間を満了し退職

公共図書館と言う職場と視覚障害者

前述したように私は、点字による公務員試験に合格した最初の者ですが、これがわが国における視覚障害のある図書館員の第1号でもありました。私は、当時から視覚障害者の雇用促進運動に関心がありました。そして、実際に公共図書館という職場に勤務してみて、「図書館は視覚障害者に向いている職場だなあ」と実感しました。なぜなら、私たち視覚障害者が担当できる業務は、大変多くあるからです。それ以来、私は公共図書館への視覚障害者の採用の問題をいろいろな場でアピールするようになりました。

ここで、公共図書館における視覚障害者の仕事には、どのようなものがあるか、まとめておきます。@サービスの利用案内に関する業務(電話や来館者に対して)。A録音図書・点訳図書・拡大写本等視覚障害者用資料の製作に関する業務。B音訳者、点訳者等資料製作者の養成や指導に関する業務。C資料の貸し出しや資料案内、レファレンスに関する業務。D対面朗読や音声パソコンの指導など、利用者へのサービスに関する業務等、無数にあります。

ところで、私が就職したころの都立中央図書館の視覚障害者サービスは、全国のモデルケースであり、連日のように他の図書館職員の見学やマスコミ関係者の取材がありました。就職して間もない私の仕事の柱の一つに、「対面朗読者への依頼事務」すなわち対面朗読サービスのセッティングがありました。ここで最も苦労したのは、登録していただいている朗読者の朗読技術の質の問題でした。確かに当時の朗読者の質にはばらつきがあり、その原因は中央図書館開館に向けて館側は、朗読者の募集を「抽選」と言う方法で実施したからです。

1974(昭和49)年度の中央図書館発行の『事業年報』によると、年間の対面朗読の利用実績は、934人(1日平均3.4人)、朗読時間は4191時間にも達しています。また、録音図書の製作は毎年、専門書を中心に100点近くになっています。

なごや会結成のこと

1970年代から80年代にかけては、視覚障害者の雇用促進運動が非常に盛んで、またそれなりの成果も上がるという、時代状況がありました。その背景には、「完全参加と平等」をテーマとし、1981年に取り組まれた「国際障害者年」と、これに続く10年間の国内長期行動計画、「国連障害者の10年(1983〜1992)」の影響も大きかったと思います。私の後に続いたのが、横浜市戸塚図書館(当時)に就職した川上さん、豊中市立岡町図書館に就職した三上さん、名古屋市立鶴舞中央図書館に就職した大塚さんでした。そして、1989年、公共図書館に勤める者が10名になったのをきっかけに、「公共図書館で働く視覚障害職員の会(通称「なごや会)」が結成され、私が代表に選ばれました。(現在は、顧問)。なごや会は、名古屋の地で結成されたと言うことと、「和やかに」活動しようと言うことで、会の名称が決まりました。

現在のなごや会の会員数は、45名、内、公共図書館に勤務する視覚障害職員は、22名となっています。(2009年3月末現在)その他の会員は、視覚障害者情報提供施設(点字図書館)の職員、視覚障害者として大学図書館や公文書館に勤務している者、音訳ボランティアなどが参加しています。年1回、会員が勤務する図書館を見学することを軸に、全国各地で例会を開催しています。観光などのレクリエーションがスケジュールに盛り込まれている他は、会結成当時と、今も開催スタイルはそれほど変わっていません。また、東海北陸地方以西を西部支部、それ以外の東を東部支部として、集会の開催など各々独自の活動もしています。そして、全国に散らばっている会員同士を結び付けているのが、年2回発行されている「なごや会会報」です。

会活動の二つの柱は、(1)親睦、情報交換と、(2)調査研究活動です。特に、(1)については、電話やメール等で仕事上の悩みを相談したり、職務上のノウハウを相互に交換したりしています。この点で大きな役割を果たしているのが、例会や支部会への参加であり、「会報」を通じての交流です。これらによって、個々の会員は、どれだけ職務遂行能力をアップさせ、職場で存在感を発揮できたか計り知れません。

公共図書館への雇用を進めるために

さて、なごや会の目的の一つに、「公共図書館への視覚障害者の雇用を進める」と言うことがあります。たとえば、かつては都道府県や政令指定都市の図書館に対し、視覚障害者の採用計画の有無を会として調査したこともありました。この件に関連し一言したいのは、国立国会図書館に対する視覚障害者の雇用の問題です。具体的な受験希望者が出てきたこともあり、私たちは当初から積極的にはたらきかけてきましたが、館側の厚い壁に阻まれ、いまだに職員採用試験が受験できないのは大変残念なことです。

最後に気になることを一つ書きます。1990年代後半以降、公共図書館に就職する視覚障害者の増加率が、めっきり鈍化していることです。その要因として地方自治体の財政難と、これに伴う図書館への民間委託や指定管理者制度導入の動きが関係しています。したがって、私たちは今後、「本物の図書館サービスは正規職員で」と言う理念を踏まえ、「視覚障害者の図書館員こそが障害者サービスを発展させられる」と言う確信の下、アピール活動をいっそう強めていく必要があるでしょう。

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【特別寄稿】

「タートルと共に歩んで15年」

理事 篠島 永一

はじめに

「タートルって何なの?」「そもそもタートルと名づけたのには何か由来があるの?」この疑問は誰もが最初に持つでしょう。
名付け親は、野呂真堂(のろまどう)さんです。国家公務員の現役の時は本名が出せずペンネームを使ったのです。その人は前理事長の下堂薗保さんです。その由来は、「タートルの会」の会報(創刊号)に記載されています。

カメルーンの寓話「ウサギとカメ」から採ったという。カメが競走の挑戦をする。相手にならないと拒否される。さらに挑戦し説得に努める。ウサギはしぶしぶ挑戦に応じる。そこで、カメは作戦を練り、知恵と工夫を搾り出す。そして考えたのが大勢の仲間に呼びかけ競走に参加してもらう。リレー方式をとったのである。競走が始まり、ウサギは悠々と走り出すが、途中、「カメくん、ついてきているかい」と声を掛けるが、いつも後ろについてきている。ウサギはまた勢いよく走り出すが、いつも後ろにカメがついてきているため、頑張りすぎて、とうとうグロッキーとなってしまい、カメが勝った。

@挑戦(積極性)、A説得(明解性)、B準備(戦略性)、C連携(協調性)、D実行力(継続性)といった教訓を含んでいます。これらは中途視覚障害者にとって、職業自立に必要条件と考えたのです。

一方、タートルネックに象徴されるように首を絞められている状態、いつ首を切られるかわからない、不安がつきまとう。事が起きたら、首を引っ込め、収まるまでじっとしている。しかし、着実に一歩一歩前へ前へと進む。これもまた真なりです。

発足のきっかけ

1995年6月に「中途視覚障害者の復職を考える会」(通称:タートルの会)は、任意団体として正式に発足しました。きっかけは国家公務員で病院の庶務課で働いていた中途視覚障害者のAさんの原職復帰を果たしたことです。

今もタートルの中枢で働いている国家公務員3人(会の発起人)が中心になって、Aさんの復職に力を尽くしていました。
Aさんは弱視で障害者枠で入省していたのですが、突然全盲となってしまい、神奈川県総合リハビリテーションセンター七沢ライトホームで視覚障害リハビリテーションを受けた後、社会福祉法人日本盲人職能開発センター東京ワークショップに入所して職業訓練を受けることとなったのです。ここから私もAさんの復職にむけての活動に少しずつ関わりを持つようになりました。

当初は国家公務員にとどめた会を考えていましたが、地方自治体や民間企業に勤める中途視覚障害者に広げ、「働く」問題を考えよう、復職を支援しよう、そして徐々に輪を広げていこう、少しずつ着実に進めていこうと「中途視覚障害者の復職を考える会」(通称:タートルの会)としたのでした。

互助をめざす

「タートルの会」は、自らの体験を通して、その知恵と工夫を次に続く中途視覚障害者に伝えていこうと考えたのです。自分が目が不自由になって、「これからどうすればよいのか」「誰に相談したらよいのか」「見えない、見えにくくなった人たちは一体どのように暮らし、どんな仕事をどのようにしているのか」など情報が全くない状況を痛感していました。

そこで、まず、情報を集めようと、全国の中途視覚障害者の仲間に呼び掛け、体験記を書いてもらうことにしたのです。27人の中途視覚障害者から手記が集まりました。これを「視覚障害をバネとして」とタイトルを付けて一つにまとめて、情報提供していったのです。

中途視覚障害者の雇用継続、復職、再就職がなされない限り、視覚障害者全般の雇用は進むわけがない、そのためには事例の積み上げが先決だろうと、互助を進めていったのです。

当事者が働き続けたいという強い意志を持てるように、悩みを聞き情報を提供する相談会を開いたり、孤立感や不安感を取り除くために理解し合える仲間との出会い、仲間をつくる、広く情報を得られる場としての交流会の開催、それに参加できない人たちのために「会報タートル」を発行し頒布したのです。相談事業、交流会事業、情報提供事業の3つを柱に当事者が当事者をという互助的な、また、先輩が後輩へというバトンタッチ的な形で活動を進めたのです。

タートルの出版物について

最初に取り組んだのは、手記集「視覚障害をバネとして」の発行でした。この手記集を核にして、視覚障害を理解してもらうための入門的な解説と、手記の読後感想などを集めた本の出版を企画したのです。和泉森太初代会長(1995/6〜2001/6)が編集長となり、自費出版しました。

編集会議には、美大出身の中途視覚障害者(持田健史氏)が加わり、さらに同氏の友人の美大教師でデザイナーの吉永俊一氏にも参加してもらい、タートルのロゴやアイドルマークを創ることや表紙のデザイン、そして本全体の装丁に協力してもらったのです。

本のタイトルは『中途失明』、副題が「それでも朝はくる」です。表紙の黒地に何本かの黄色の折れ線のデザインが、中途失明の暗黒の世界と新たな希望の光を表し、失意、苦悩、挫折、葛藤、立ち上がり、いろいろ連想させます。そして更に副題の「それでも朝はくる」は何とも意味深長なフレーズでした。

1997年12月9日(障害者の日)に、日本経済新聞が発刊の記事と本の表紙の写真を掲載してくれたのです。これが社会に衝撃を与えました。マスコミに大きな波紋が広がり、朝日、毎日、読売、サンケイ、東京新聞などの取材を受け記事となり、本の売れ行きはもちろん、タートルの名前が全国的に知られるようになったのです。当事者が中心となって、当事者の働く問題に取り組む団体など珍しかったことも社会にインパクトを与えたようです。ちなみに初版3000部、増刷2000部の合計5000部が売れ、現在は絶版となっています。それが、その後のタートルの会の活動資金に充てられたのです。

発足当初の60人の会員が4年後には3倍強の200人弱まで膨れ上がりました。中途で視覚に障害を受けた者(当事者)、その家族や同僚などが相談できる窓口を求めていたのです。潜在するこのような人たちがいかに多かったことか。相談窓口の役割を担うタートルの会への期待は大きかったといえます。

何よりもこの本の主意は、当事者が「視覚障害の受容」に生かせたことです。手記を読んで勇気と元気を与えられ、自分も自立できるのだという自信を持てたと言うのです。就労継続の決意・意志を固め、そのまま働き続けたり、次なる視覚障害リハビリテーションへのステップに踏み出すことができたのです。(ちなみに持田さんと吉永さんは幹事となりましたが、今は両氏とも辞められています。)

第2弾としては、『中途失明U〜陽はまた昇る〜』の出版でした。この本の主意は、視覚障害のことを社会の人たちに理解してもらおうということでした。自己受容ができても雇用主や職場の上司、同僚などは「目が不自由になったら、何もできなくなる。何もできない」という先入観を持っています。「目が見えないということは、どういうことなのか」ということの理解が進まない限り、当事者の努力が空回りしてしまうのです。中途視覚障害者を取り巻く家族、職場、社会全体の「目が見えづらくても、見えなくても、働ける」という認識が大事なのです。それこそが「社会受容」なのです。

視覚障害者の実態、働く視覚障害者の多様な職種、中途視覚障害者の家族の思いや配慮、新聞記者の目から見た職場の状況など編集に工夫を凝らしました。ここからは下堂薗保2代目会長・初代理事長(2001/6〜2010/6)が編集長となります。表紙のデザインは網膜色素変性症により視力が徐々に低下していく状況にありながら、懸命に好きなデザインの道を続けている池田憲昭会員の作です。

さらに報告書を3冊。社会福祉法人日本盲人社会福祉施設協議会の委託研究として、@「視覚障害者の就労の手引書=レインボー=」(100人アンケート)、A「視覚障害者の雇用継続支援実用マニュアル〔関係機関ごとのチェックリスト付〕〜連携と協力、的確なコーディネートのために〜」を発刊しました。そしてNPO法人認可後、平成20年度障害者保健福祉推進事業(障害者自立支援調査研究プロジェクト)の調査研究報告書でした。B「視覚障害者の就労の基盤となる事務処理技術及び医療・福祉・就労機関の連携による相談支援の在り方に関する研究報告書」という長い題名の報告書で、通称「支援プロジェクト報告書」と称しています。

@の「手引書」は、100人アンケートをベースに、視覚障害者の働く職種事例集をデータベース化しました。ホームページからデータベースに入り検索できます。また、Aの「実用マニュアル」は、関係機関ごとのチェックリストを掲載しており、活用していただきたいと願っています。さらに、Bの「支援プロジェクト報告書」は、15人の働く視覚障害者について、詳細な調査を行い、一覧表にしているため、見易く、かなりしっかり働いて企業の戦力となっていると実感される事例が多く見られます。いずれもホームページに掲載しているので、ご一覧ください。(http://www.turtle.gr.jp/)

相談会について

当初の相談会には、2通りありました。1つは当事者が諸々の情報を得たいとの問い合せです。それとまだ深刻な状況にないが将来を心配して「いまから不安を取り除いておきたい」という相談でした。視覚に障害をもつ知人もいない、誰に相談すればよいか分からない、周囲には自分のほかに誰も目が不自由なことをわかってくれる人がいない、もちろん諸々の情報が全く得られない。そのような人が新聞記事にあるタートルの問い合わせ先の電話番号を書きとめておき、勇気を持って電話してくるのです。かなり時間をおいて電話を掛けてくる、悶々としている期間があるのだということが分かります。

2つ目は、緊急相談です。とにかく「最初に解雇ありき」の雇用側の立場なのです。「目が見えなくなったら、何もできない」という先入観を取り除くこと、その固定観念を払拭するには大変難しい社会情勢でもありました。

印象に残る相談事例を一つ。ある大手のコンピューター会社で働いていたK氏が視力の低下に伴い、仕事の継続が困難となり、会社に打ち明けたところ、途端に窓際に回されて自分で転身先を考えなさい、と。そして解雇通告。手帳が5級の段階の時、採用されていたにもかかわらずです。

タートルとして、会社側に理解を求めようと働きかけ、デモンストレーションを行うなどして、解雇通告の撤回を求めたのです。弁護士にも協力を求め、復職への方策を考えたのですが、会社側の「解雇ありき」の態度は一向に変わらず、マスコミ(新聞記者)の協力により、紆余曲折の後、解雇の撤回がなされました。1997年の暮れのことです。無給の休職でしたが、視覚障害リハビリテーションを受け復職を果たしました。その復職を祝う会において、当人が語った言葉を下に記します。

「障害者として雇用されながら、こういう形で解雇されようとしていることが残念でならない。他の障害者のためにも何としても実績は残したい。そのためにも、復職して仕事を続けたい。今なら、訓練を受ければ、それなりの仕事はできると思う。今後のためにも、リハビリだけでも権利として保障させたい。会社は嫌いではないし、会社には多くの仲間もいる・・・」と。(会報12号)

現在では、相談会の内容は基本的に変わりはないのですが、連携の在り方がかなり変容してきています。主として、継続雇用の事例が多くなりました。諸機関との連携による雇用継続、再就職、新規就労の実績も増えてきています。特に眼科医の行うロービジョンケアは早期リハビリテーションにつながり、産業医との連携も深まりつつあります。

ここで直近の好事例を一つ。日本盲人職能開発センターの総合相談担当に電話があり、これがタートルにつながってからのことです。

まず、タートルのロービジョン相談会に来てもらい、眼科医のロービジョンケアを受けて、現状を確認、助言。そこから、ロービジョンケアを行った眼科医と眼科主治医との連携とともに、眼科主治医とハローワークとの連携、ハローワークと委託訓練先との連携へと具体的にさまざまな連携が開始されました。身体障害者手帳がなくても、障害者扱いでハローワークに支援してもらいました。その後、手帳も取得できました。この間、本人も頑張り、マイクロソフト社のマイクロソフト・オフィススペシャリストの資格をワードとエクセルで取りました。就職では事務経験がないため、引き続き準備に余念がありません。ロービジョンケアにより、再就職へ繋がった好事例です。

設立当初から現在まで一貫して工藤正一副理事長が担当してきています。自らの体験と厚生労働省の障害者雇用対策課に席を置く立場を生かし、各労働支援機関との連携や、日本ロービジョン学会との長年のかかわりから培われた信頼関係による眼科医との連携が相談会の奥行きや人脈を広げ、成果を上げているのです。

交流会について

交流会の目的は「孤立感、疎外感」をなくし、独りではない、仲間がいるという連帯感が持てる場、そして学習、研修を通していろいろな情報を得る場としていました。

最初のうちは当事者が当事者を支える形の交流会、いわば仲間づくり、情報収集の場、勇気と元気をもらえる場をつくろうとしていました。当事者の「職場で頑張っています」といった体験報告やパソコンでこのように文書処理をしているのだといった学習の場、あるいは職場に定着するためにこんな知恵と工夫をしているのだ、というものもありました。歩行訓練の話は、毎年行い、定例化していました。

一方、少しずつ社会に向けて視野を広げていこうと、交流会や総会の基調講演者に著名な人を選ぶようになりました。サラリーマンから出家した本郷慧成(エジョウ)さんに「人間の幸せについて」(会報15号)、精神科医の和田秀樹さんに「甘えの成熟〜大人の依存法」(会報26号)、ジャーナリストの岡本呻也さんに「慮る力」(会報29号)、人間接着剤と自称する青木匡光(マサミツ)さんに「元気を出して良い人間関係を」(会報31号)、現在も98歳で現役の医者として頑張る聖路加国際病院理事長の日野原重明さんに「視覚、その他の感覚障害者へのケアのあり方」(会報33号)、などそれぞれ素晴らしい話を聴かせていただきました。

本郷慧成さんは「少欲知足」、「も、しか」の哲学など、物の考え方や受け止め方を示してくれました。和田秀樹さんの話の中に「アメリカでは精神科医が依存できるカウンセラーがいるんだよ」と、わが国もこうあるべきですね。青木匡光さんは「21世紀は、人間が主役の時代」と。また、岡本呻也さんの講演の中の言葉で、「余情残心」が印象に残っています。これは茶道の言葉で「もてなしの心」の究極です。精一杯客をもてなした亭主が後で、「ああすればよかった、こうすればよかった」などと思いを再び慮っているのです。 日野原先生に講演の約束をとるまでに1年半かかりました。予定が詰まっていて、こちらの熱意にほだされてか、別の講演の合間の時間を割いてくれたのです。こちらの講演を少しだけ短縮して、終えるやいなやすたこらと軽やかに走り出したのです。こちらも一生懸命に走って後についていくのが精一杯でした。待機させていた自家用車に乗り込む寸前に追いついて、深々とお礼を申し上げたというしだい。当時の会長の下堂薗さんと私の2人して息切れしている始末でした。日野原先生は当時92歳でしたが、とにかく元気な方です。「恩送り」の話は参加したボランティアの方々や私どもにも心に残る言葉です。

ちょっと一息。武道の稽古を受ける心得。「あわてず、あせらず、あきらめず」。

1998年の8月に暑気払いの交流会「居合道」(無双庵:大和竜門氏)の話をしてもらったことがあります。話の後半にセンターの屋上に上がり、木剣の代わりに麺棒のような素振り棒をみんなに用意してくれ、それを大きな声で「エイ、ヤッ」と一斉に振る「基礎指導」をやってくれたのです。天気もよくすっかり乗ってしまい、みんな元気よく大声を出していたため、近所の人が飛び出してきて、「一体何が始まったんですか、これを毎日やるんですか」と。

「福島県の安達町役場に復職を目指して頑張る久保賢さんは、竜門氏の打ち込みに最初はたじたじとなっていたが、次第に気迫がこもり見事な受けに入っていった。竜門氏の素振り棒は折れ『3番目の弟子として入門を許す』と言わせるほどだった。ちなみに全盲の弟子が2人いるという。」(会報11号)

最近の交流会は、スカイプにより同時参加を可能にしています。東京の交流会の模様がスカイプによって、大阪や福岡で、さらに仙台で同時に話を聴くことができ、直接参加することができるのです。従来だと、交流会の模様を情報誌タートルにまとめて文字化したものをパソコンの音声で読むことだったので、時間差がどうしてもできてしまいます。まさにリアルタイムで交流会に参加できるという科学技術の進歩を享受している状況になりました。松坂治男理事長(2010/6〜)の発案と実施です。

設立当初からNPOになるまでの交流会担当は新井愛一郎理事でした。次に石山朋史理事と向田雅哉さんに代わり、現在は大脇俊隆理事と運営委員の中村太一さんと朝山義啓さんが担当しています。

ちなみに地方交流会もいろいろな所で行っています。仙台交流会(金子光宏理事)、広島交流会(藤井貢理事)、函館交流会(和泉森太理事)、名古屋交流会(星野史充理事)、福岡交流会(藤田善久理事)など、ほかにも京都、新潟などで行われています。

情報提供について

情報提供の中心は、電子情報のホームページ及び紙媒体の会報タートル(創刊号〜49号)、NPOからの情報誌タートル(創刊号〜13号)です。

ホームページは、1997年に公開されました。吉泉豊晴氏が作り上げ和泉徹彦氏が晴眼者の立場で、吉泉さんの相談にのったり、見た目の体裁等を担当しました。また、吉泉さんはタートルメーリングリストも立ち上げ、運営の責任者として活躍されました。当事者と支援者を中心に活発な書き込みと本音が書き込まれたこともあり、新たにメーリングリスト(ML)に参加する人たちも増えていきました。このMLは、オープンな誰でも自由に入ったり、抜けたりができるため、人数が増えるに従い、次第に顔の見えないMLとなり、本音が書きにくくなってきました。とはいえ、ホームページを閲覧した後、タートルのMLに入り、自己紹介して相談を持ちかける中途視覚障害者自身や家族あるいは知人などがおられること、これはインターネット時代のおかげだと痛感されます。ちなみに正会員だけのクローズドなメーリングリストを立ち上げていますが、任意参加のため、加入者も少なく、活発な意見交換の場とはなりえていません。事務連絡等も含めたMLに育て上げることが課題となっています。

墨字の「タートル」は交流会の模様を中心に、「職場で頑張っています」の投稿記事、お知らせや報告などを編集しています。巻頭言については、役員が持ち回りで執筆してきました。印刷や発送作業を役員等が手弁当で行ってきたという経過があります。特に印刷については、東京都立障害者会館の印刷室で新井さんが軽印刷機を活用して刷り上げていました。ほとんど一人でやっていたので大変だったろうと頭が下がります。発送は、役員が自発的に四ッ谷のセンターに集まり、丁合から始め、B4の二つ折り、そしてタックシール貼り、封筒詰めなどをわいわいがやがやと賑やかに、また楽しげにやっていたことを思い出します。

障害者団体定期刊行物協会(障定協)の加入団体として「タートルの会」が厚生労働省から認可を受けたのは、2001年のことです。タートル18号(2001年8月)から障定協番号SSKUを付しています。通常の第3種郵便物料金の約4分の1で済み、郵送費の軽減につながりました。18号から吉永さんが版下を作成するようになり、かなり体裁がよくなったなといえるでしょう。現在は、東京コロニーの職能開発室所属の在宅肢体障害者に版下作成を発注しています。

情報誌の発送は、正会員及び賛助会員に希望媒体に応じてきちんと送られることが重要です。その名簿管理を担当しているのは、運営委員の松尾牧子さんです。墨字、メール、音訳、などいろいろです。新規入会、退会、会費の納入状況など名簿のマスターファイルの管理はタートルの根幹です。

本年度からの編集長は、長岡保理事です。設立当初からNPOになり「情報誌タートル」6号までが篠島理事、11号までが杉田ひとみ理事でした。

NPO法人に移行して

2007年の総会でNPO法人化への移行が議決され、東京都に認証申請をしました。同年12月3日に東京都から「NPO法人タートル」として認証を受けました。任意団体を法人に移行したことで、タートルは互助グループから社会的存在、関係諸機関との連携による視覚障害者の雇用継続支援等に軸足を移したのです。広く視覚障害者の「働く」という命題を社会全体に共有してもらおうとする意図です。

人生半ばで視覚に障害を受けても、安心して働き続けられる社会を目指して環境整備をすることを目的としたわけです。視覚障害当事者だけが活動するのでは限界があります。社会の理解を進めることと、諸機関との連携の重要さを認識していったことです。日本ロービジョン学会との関わりも深まり、特に眼科医が行うロービジョンケアは早期リハビリテーションとこれに先立つ障害の受容、そして雇用継続支援に大きな役割を果たしてくれることが理解されてきたこともあります。

もちろん、法人化したことで、活動に責任を持ち、社会に協力を求めやすくなったというメリットがあります。課題は山積しています。財政基盤の脆弱さとスタッフに晴眼者の人材不足です。定年退職者やボランティアを広く募って協力を得ていくことが喫緊の課題です。

事業は人なり。働きながら活動に参加する視覚障害当事者は、勤め先の仕事ももちろん、タートルの活動にエネルギッシュに関わっています。15年も経過すると、当初の活力はなかなか維持し続けることも難しく、年齢を重ねるごとに知恵と工夫は増しますが、やはり世代交代が必要です。

法人化に伴い加えた事業

まず、啓発活動です。安達文洋副理事長が担当しています。企業に対してアンケート調査を行い、企業の視覚障害者雇用への不安感や懸念が「安全に通勤できるのか」と「どんな仕事ができるのか」の2つに絞られました。そこでその2つを払拭するためにビデオを作ることを企画したのです。やはり書物でなく、動画で訴えるのがわかり易く、受け止められるだろう、と。結果、「優秀な人材を見落としていませんか?」(DVD)を完成させました。

次がセミナー開催です。担当は新井理事です。「視覚障害者雇用継続支援セミナー」を開催し、本年は第3回となります。諸機関の連携と協力をキーワードとしてきましたが、特に雇用継続に眼科医と産業医の役割が重要となります。そのことを産業医自身が認識し、眼科医との連携によりロービジョンケアを実践して中途視覚障害者の再配置に成功した事例を報告してくれたのです。また、労務担当者も再配置を検討した経緯などを報告し、コメントするなど、雇用側の継続雇用に向けた努力が見えて、充実した内容の濃いセミナーとなりました。

もう一つ、タートルの基本の問題です。それは「各事業間の融和と協調、財政基盤の確立」です。経営委員会といい、理念、方針、戦略、広報、資金調達などについて活発な議論がなされました。担当は石山理事です。現に活動を続けるそれぞれの事業担当理事との調整を図りつつ、トータルにタートルの運営をよい方向に導けるか、今後の課題といえます。

おわりに

NPO法人タートルは、今後、どのような方向を目指すべきか。
中途視覚障害者がいままで働いてきた職場で働き続けることは、雇用側にとっても、本人にとっても、大きなメリットがあるはずです。それは長年積み上げてきた知識、経験を生かせること、職場に人間関係が出来上がっていること、物理的環境になじんでいること、雇用側にとって貴重な人材を失わずに済むこと、障害を受けても雇用側が見捨てないことを社員全体が意識できること、障害を受けた社員が懸命に働く姿は他の社員に必ず好影響をもたらすこと、数え上げたらきりがないくらいに双方にメリットがあるのです。雇用側も「見えなくなった社員にどのようにしたらいいか分からない」というのが本音で、見えていたときと全く同じにはできなくても、このようなプロセスを踏んでいけば、必ず働き続けられるのだ、という道筋さえ描ければ、再び戦力となり得るのだと思えることなのです。

中途視覚障害者の雇用継続がなされず、失職を余儀なくされた時、福祉等の社会的コストがかかります。この社会的コストを縮減するためにも、もっと言えば失業防止のために、雇用の継続や早期リハビリテーション、即ちロービジョンケアが重要となるのです。

企業への啓発活動の実施が強く求められてきています。
いま、支援側の理解や連携は深まりつつありますが、受け入れ側即ち社会、特に企業等への啓発活動をいかにしていくかが課題です。

具体的に啓発活動の一環として、「優秀な人材を見落としていませんか?」(DVD)の頒布や雇用継続支援セミナーの開催などが進められています。さらに一歩踏み込んで、個別に事業所のニーズを掘り起こし、これに応える方向にむけて活動計画を立てていくことが望まれます。

日本経済団体連合会(経団連)、経済同友会、日本商工会議所など経営者団体の支援、協力を得て、企業のトップに視覚障害者の雇用の理解を深めていくために、その方策を共に考えていく。また、日本労働組合総連合会(連合)とのつながりを密にして視覚障害者の雇用について組合の協力を求めていくことだろうと考えます。

2010年の定期総会後に開かれた理事会において、2代目の理事長に松坂治男副理事長が互選され、ついで松坂理事長は、杉田理事に「事務局長として支えて欲しい」と任命しました。長年事務局長を務めてきた私は安心して引継ぎを済ませ、いま、ほっとしています。まさに悠々自適の心境にある今日この頃です。これからは無任理事として淡々と過ごさせていただきます。私の好き勝手を寛恕してくれた和泉さんと下堂薗さんに感謝します。ありがとうございました。

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【お知らせ】

1.情報紙のDAISY(デジタル録音図書)への移行について

情報紙タートルは、朗読ボランティアグループ「YWCA」さんのご協力により、テープでの講読を希望されている皆さんにカセットテープをお届けしていただいております。
現在、YWCAさんでは来年度を目途にDAISYへの移行を進めているとの連絡がありました。利用方法・費用等、詳細は決まり次第お知らせいたします。
つきましては、テープからDAISYへの移行について、皆様のご理解とご協力をお願い致します。

2.交流会について

@ 2011年1月交流会
時期:1月15日(土曜日)午後
会場:東京、大阪、福岡
*東京(日本盲人職能開発センター)と大阪、福岡会場をスカイプ通信により連接を実施

A 2011年3月交流会
時期:3月12日(土曜日)午後

3.情報誌の発刊について
2011年3月下旬に、第14号の発刊を予定しております。

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【編集後記】

あの暑かった夏が、恋しくなりそうな冬将軍の到来、そして新しい年の幕開けも間近となりました。
最近、中途視覚障害者で、定年まで勤務された方について耳にするようになりました。そこで、今回から、定年まで勤務された方の体験や教訓等、我々後に続く者に、何らかの参考になると考え、原稿をお願いすることにしました。中途視覚障害者で、定年まで勤め上げた方がおられる。そのことだけでも、後に続く者にとって、可能性を与えてくれる、希望と光のように思います。

また、今回は、「中途視覚障害者の復職を考える会(通称:タートルの会)」発足当時から今年の6月まで、事務局長として支えてきていただいた篠島氏に、投稿を依頼しました。発足当時からの歴史と、携わってこられた方々の思い、そして、後に続く我々へのメッセージのようなものを伝えていただいたように思います。

最後に情報誌担当からのお願いです。
現在職場で頑張っておられる方、定年まで勤められた方等の、情報誌への投稿を推薦してみたい方の情報をお持ちの方は、是非担当までご一報をお願いいたします。情報をいただければ、調整は、こちらからでも可能です。

<担当者:長岡>

( 長 岡 保)

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