目次

【巻頭言】 2代目理事長/現監事 下堂薗 保
【11月交流会講演】 副理事長 新井 愛一郎
【~追悼~ 篠島 永一先生】
【お知らせコーナー】
【編集後記】
奥付

【巻頭言】

『故篠島永一元事務局長の死を悼む』

2代目理事長/現監事 下堂薗 保(しもどうぞの たもつ)

篠島永一元事務局長の永眠は、平成27年11月1日に突如もたらされた。この訃報を偲ぶ時、新たな悲しみがこみ上げてきます。

私は、27年くらい前、「AOK式音声ワープロ」の講習をうけたとき、はじめて受講生と先生の関係でつながりました。どこまでも静かで、気配りのできる人というのが第一印象でした。ただ、うっすら見える目でキーボードを見てしまうと、「目で見てはいけません」と、ピシャリ、厳格さのある方でした。

このころ、私は「退職勧奨」を受けていた時だったので「何かいい方法はないでしょうか?」と相談したところ、早速、ここ「職能開発センター」の創立者の松井理事長(故人)に相談したらいいだろうとつないでくれました。この面談のお陰で、退職勧奨を突っぱねることができたことに加え、同理事長から、「君たち現役の国家公務員が何か団体でも立ち上げるなら、この施設を利用してもいい」という思わぬプレゼントまで頂戴しました。

このような経緯後、2年くらい後、現認定NPO法人タートルの工藤、新井両副理事長から、以心伝心、現タートルにつながる団体の立ち上げのお誘いがあったことを考え合わせると、まさに瓢箪から駒でした。この団体が立ち上がった後、施設利用が具体化し、故篠島永一部長(当時)が窓口になり、施設利用申請の文書処理がはじまりました。以来、先生と受講生の関係は、就労支援に取り組む同志の関係に変化しました。正式に任意団体タートルを旗揚げした時、和泉初代会長と共に篠島事務局長が誕生し、下堂薗が二代目を継承した時も引き続き事務局を担ってもらいました。

私は、あちこちへ出かけるときは、いつも故事務局長の肩を借りて歩きましたが、何せ背の高い方だったので、身長や歩幅の違いから、大抵は小走り状態でした。ある時、背中のカバンを握って歩いていたのですが、ちょっとしたはずみで手をはなした際、ガイド役さんは一人旅、落とし物状態になった私は、目的地へたどりつくのにえらく苦労した笑えない大失敗をしたことがありました。

故篠島元事務局長からは、職域拡大、就労支援、夢等いろいろ教わりました。また、趣味としていた囲碁談義では、つい時を忘れ、うれしそうな話しぶりはまさに天狗、印象的でした。

故篠島先生、永年療養ご苦労様でした。どうぞ安らかにお休みください。 慎んで心から安らかな永眠を、祈念申し上げます。(合掌)

【11月交流会講演】

『ポツンと孤立する視覚障害者をなくしたい』
~みんなの経験を持ち寄ることの大切さ~

副理事長 新井 愛一郎(あらい あいいちろう)

皆さん、こんにちは。新井と申します。本日は4つのことについて、お話ししたいと思います。まず最初は、私の自己紹介、2つめが私が考える仕事を続けるためのポイント、3つめがタートルの活動で大切にしていきたいこと、最後が障害年金についてです。

まずは自己紹介です。私の見え方とこれまでの仕事や活動の履歴を中心にお話しします。私は、先天的な弱視です。小眼球ということで、小さい頃からずっと右側の視力はゼロ、左側が0.08ぐらいでした。私としては、これで一生安定していると思っていましたが、45歳ぐらいから白内障を患い、次第に「見づらさ」が増してきました。

50代の頃には、一時手術を真剣に考えました。日にちまで決めて「よし、やるんだ」と決意しましたが、いかんせん片方は全く見えないですし、手品みたいな難しい手術だと先生に言われて「これは大変だな」と急に怖くなり、数日前に手術をキャンセルしました。

見えない方との接点はありましたから、見えなくても「どんなふうにできるか」というイメージはあります。しかしまったく見えなくなって、光もわからなくなったらどうしよう、と怖くなったのです。

そういうことで、2年前からは白杖歩行を始めました。最初は視覚障害の印(シンボルケーン)として使っていましたが、階段などを降りる時には長いものでなければ駄目ということで、今は胸まである白杖を使っています。

次に私の仕事と活動の歴史をお話しします。私は1951年に大田区で生まれました。小学校から大学まで通常の学校でした。小学校に入る時に「高学年になったら特別な学校に行ってください」と言われたのを覚えています。その時にうちの姉が「弟も私と同じ学校に行かせたい」と、すごく泣いてくれました。それ以来、私は姉のことを「なかなか良い人だ」と思っています。

学校を出てからは、37年間、社会保険事務所(現年金事務所)に勤務し、定年より1年早く退職しました。というのは、1990年頃から、視覚障害がある留学生のホームステイをしていたのですが、国際視覚障害者援護協会にはあまり活動の担い手がいません。またホームステイをしたつながりもあって、何かしたいと思っており、それで1年早くお手伝いに入りました。

私自身は20歳の後半まで、視覚障害者は誰も知りませんでした。弱視というのは「世界で私だけである」と本当に思っていました。ところが、「弱視者問題研究会」という団体の機関紙を見つけ、弱視の人がいるということを知って、問い合わせをしました。20代後半からは活動にも参加し、事務局長を長く務めました。これが私の視覚障害者との出会いであり、活動の出発点でした。

弱視者問題研究会の活動では、拡大読書器が弱視者に「どう具体的に使われるか」というDVDを作ったり、タートル現理事長の松坂さんと一緒に、パソコンの勉強会などを行いました。

そういう中で、タートルの発足にも参加しました。最初は篠島先生と一緒に、特に交流会と機関誌の編集をやっていました。当時は、交流会の準備や司会、テープ起こし、編集、印刷までを全部やっていました。最近の仕事では、やはり篠島先生と一緒に、タートル20年誌「中途失明Ⅲ」を編集しました。

こうした活動をいろいろとやっていて思うのですが、それぞれに持ち場というものがあり、みんなが連携していけば素晴しいと思っています。

■仕事を長く続けるために

次に、仕事を長く続けるためのポイントにはどんなことがあるのか、自分なりに整理をしたことをお話しします。先ほど申し上げたように、私は社会保険事務所、最後は年金事務所で37年間仕事をしましたが、「自分は視力が弱いから、この仕事、この職場は向かない」という思いを、長い間持っていました。最後は自分に合った仕事も見出すのですが、20年くらいは、そうした感情を抱きながら過ごしたと思います。

そもそも就職する時には、私は何の準備もしておらず、準備したのはネクタイの締め方と掛けメガネ式のルーペだけでした。これはメガネにルーペが付いているもので、手が自由になるので、書類を見ながら文字が書けるのではないかと思いました。それぐらいで職場に入りましたが、入って2日目には「この職場、この仕事は僕にはできない」と思いました。

意向調査というのでしょうか、将来の希望について記入する書類には「辞めて次の職場に行きたい」と、3日目ぐらいに書いた覚えがあります。スタートは本当にそういうことでした。

仕事では、最初の頃よく「そんなに書類に目を近づけると目が悪くなるよ」とか「ルーペは何で使うの? そんなの使わない方がいいよ」と言われたりしました。こういうことを言われると、私もどうしてよいかわからなかったです。

1か月くらいして就いたのが、年金番号に関する業務でした。これは加入者の年金加入日や会社名などを書き出したりする仕事で、お客さんと接することもなくマイペースでできるからよいだろう、ということでした。しかし、この仕事で私は、何千もの書類を赤のボールペンで書いてしまいました。赤というのは、事務的には取り消しや抹消を意味します。この時はさすがに「自分はやっぱり目が悪いから向かない」とつくづく思いました。

身の回りに、自分以外の視覚障害者は誰もいないし、相談する人もいませんでした。私は先天的な視覚障害でしたから、つらい思いや大変なことを言うと、親も非常に責任を感じたり悲しんだりします。それで「親には絶対に話すまい」と思っていました。

私は先天的なハンディもあって、「頑張って人に負けない」ということが、自分の生き方でした。よく学校の先生にも「新井君は努力して一生懸命やっている」と言われましたし、「一生懸命やれば自分は負けない」ということでやってきました。

学校教育はそれでよいかもしれません。ですが、仕事はそうはいきません。そういう意味では、社会に出てからの経験は大きなショックでした。ある意味「頑張る弱視」という生き方が否定されたように感じました。そういう気持ちで「自分は視力が悪いから、この職場には向かない」とずっと思ってきたわけです。それが、どういうことで変わっていったのか、考えてみました。

その変化の理由は、「見えないことともっと向き合う」ことを、少しずつやっていったことです。先ほど言いましたように、20歳後半から「弱視者問題研究会」で、いろいろな弱視の方に会ったり活動を始めました。そこで自分のような弱視者がたくさんいることを知ったわけです。その会では「弱視としてもっと自分を表現しよう」ということが、よく言われていました。見えないことを曖昧にするのではなく、見えない時には「見えない」と主張しようということです。

そういう意味では、自分にとってすごくショックでした。見えないことは別に悪いことではありません。見えないことを表現して、それを何とか理解してもらい、見えなくても生活しやすいようにしていこうという気持ちが、次第に出てきました。大勢の弱視者と出会ったことで、彼らと一緒に「何とかお互いに頑張っていこう」という気持ちになったのだと思います。ある意味では、人を励ましながら自分も励ましていたというか、そういうことが積み重なっていったのではないかと思います。

私の職場では、私も含め、現状維持という雰囲気が強くありました。職場には、人工透析の方とか事故で足を切断した方などもいましたが、目立たないところでひっそりと働いてもらうような雰囲気がありました。障害があっても、社会に出てこういう講演を行ったり、法律の説明会を行ったりすることはできます。しかし、そういうことは考えず、専門官として職場の片隅で書類を黙々とめくるような仕事に就かせるところがありました。当事者も何となくその流れに負けてしまっていたように思います。

そういう中でしたが、30歳になった頃に「係長はどうですか」と言われました。これは、現場の中心になるポジションで、いろいろな場面で表に出ていくことになりますが、私はそれを積極的に受けることにしました。その結果、自分のできる範囲内ではありましたが、いろいろな仕事を経験しました。小切手を預かったことがありました。ところが、数字が書いてある小切手の上に、金額を書いてしまったこともありました。また年金を滞納している会社にも行くのですが、履いていった革靴とは別のものを、間違えて履いて帰ったりと、そういう失敗もたくさんしました。

しかし、失敗しても前向きにチャレンジしていくことは大事です。新しい仕事に就くと、最初は無理かなと思いますが、やり出すとだんだん変わってきて、最後には「この仕事は自分に向いていたんだ」という気持ちも出てきます。ですから、是非チャレンジする気持ちを大事にしてほしいと思います。

それから仕事を工夫すること、これも仕事を続けるうえで非常に大切だと思います。私の場合は、必要な資料を大きくしてもらいました。当時は「拡大写本」と言いましたが、座席表や社会保険事務所の一覧などを、ボランティアさんに手書きの大きな文字で書いてもらいました。法律などの条文を大きくして、手元に置いておきました。電話をしながらルーペを持って調べるのは大変なので、大きな字で書かれたものを手元に置いて、裸眼で見られるようにしたのです。

拡大読書器も活用しました。自分の席と相談専用の机に置いておき、相談専用の机では、他の職員が座っている時は机の下にしまい、私が人と話すときには机の上に出して使っていました。最後の頃は、パソコンでデータ作成などもしましたが、それは本当に最後の頃でした。

このように、自分で資料を使いやすくするとか、自分に合った拡大読書器の使い方を工夫してみるといったことが、仕事を長く続けられた理由だと思います。 また、たくさんの人と仕事をするわけですから、自分自身が「付き合いやすい人間でなければいけない」とつくづく感じました。それで行事などもよく出ました。 そういう意味で、仕事以外のアフターファイブは、自分を知ってもらうために非常に大切なものだと思っています。確かに気が重い面もあります。アフターファイブでのいろいろなことは、初めての経験みたいなものが多いので、ちょっと憂鬱になる時もあります。しかし、積極的に出ることが大切だと思います。

また、ものの見方・考え方を工夫するということも重要でした。最初に言いましたように「自分はこの仕事は向いていない」とか「自分は駄目だな」と思うと、本当にそうなってしまうように思います。しかし、同じものであっても、見る角度によっては全然違います。自分に対しても、そういう見方をしないといけないのではないでしょうか。「自分は全然駄目だ」と思えば駄目ですが、「いや、そうでもないじゃないか」というようなところを見つけて、自分なりに自分を説得するような考え方も必要だと思います。

それから、職場での自分の存在意義を、きちんと見つけていかなくてはいけないと思います。まずは仕事への興味であるとか、専門的な知識を持つようにすることが、本当に大切だと思います。私の場合は、障害年金との出会いがそうでした。弱視者問題研究会など、仕事以外の活動の中で、いろいろな方の障害年金の話を聞いたりしていましたので、かなり障害年金の勉強はしました。私は仕事でも積極的に障害年金に関わって、年金事務所での障害年金の係を全部経験しました。

職場のバリアフリー化でも存在意義を見つけるようにしました。私の職場では、そういうことを他の人はなかなか言いませんでした。例えば相談に来た車いすの人が事務所に入れないところもありました。そこで障害がある同僚と交流会を行ったりして、自分たちから職場のバリアフリーを提案しました。これは自分たちの存在意義を活かして、職場をよくしようという気持ちがあったからこそで、非常に大事なことではないかと思います。

そんな中で「自分の存在が役に立つところもある」という考えが、次第に熟成されて、最初に申し上げた「自分は目が悪いからこの職場は向かない」というところを、次第に乗り越えられていったのだと思います。ただ、私は本当に時間がかかりました。もっと最初から、こういうつながりがあれば違っていたのではないか、と思います。

■タートルで大切にしていきたいこと

次に「タートルの活動の中で大切にしていきたいこと」は何かについて、少し述べてみたいと思います。

まず、タートルで一番大切なのは「ポツンと一人で孤立する視覚障害者をなくす」ということです。これが私がずっと前から考えてきたことです。まずは「つながっていくこと」「つながってください」ということです。そういうつながりの中で、いろいろな情報を得て考えていけばよいのです。だから「まずは、つながりましょう」というアピールが大事なのではないかと思います。

2つめですが、タートルに来た方は「会の雰囲気が非常に明るいですね」と言います。これも大事なことだと思います。それで、この明るさはいったいどこからくるのか、考えてみました。 皆さんは「失ったこともあるけど、得たことも大きい」「見えないけど、見えてきたものがたくさんある」とか、「見えなくなって友達がたくさんできた」ということを、よく言います。普通なら逆なことを言っているようですが、皆さんは中途で視覚障害になって、いろいろな体験というか、大変な思いをしながら、元気で生きていくための何かをつかんでいます。私は、そういうことが「明るさ」の背景にあるのではないかと思うのです。こういう中途視覚障害者の生き方というものを、是非広めていきたいと思います。

3つめは、一人ひとりが主人公だということです。この会場には何十人かの人が集まっていますし、関西と九州にも聞いていただいている方がいますが、一人ひとりの見え方や職場の状況などは違います。ですが、それぞれが生きていく中での体験は、みんな素晴らしい事例だと思うのです。ある意味では、主人公はいないけれども、皆が主人公であるような活動です。だからこそ、一人残らず私たちの体験を、多くの中途視覚障害者に伝えることが大切だと思うのです。

こうしたこととも関係しますが、就労事例の蓄積と分析、そしてどんな仕事ができるのかという提案も、非常に大切だと思います。よく「見えなくて、どんな仕事ができるのか」と言われます。これはタートル発足以来のテーマでもあります。「安全に歩行ができるか」という問題とともに、「どんな仕事ができるのか」という疑問を企業は抱いています。それに応えられるよう、私は詳細な業務実践レポートをたくさん作りたいですし、それが大切だと思います。その中から「こんな仕事ができる」という提案をしていくことが大切ではないでしょうか。

タートルから出したすべての資料を整理していけば、200ぐらいの事例はあるでしょう。実は2014年に出しました『GUIDE BOOK~視覚障害者の「働く」を支える人々のために~』というパンフレットでは、具体的な3つの仕事の提案をしています。気がついた方もいらっしゃるかと思いますが、今までにない考察だと思います。例えば、メールと事務作業を組み合わせた仕事として、様々な職務の内容を提案しています。 またタートルでは、ロービジョン就労相談、タートルサロンなどで、たくさんの当事者に対して相談を行っていますが、これをもっと広げることも大切だと思います。一方、当事者だけでなく、中途視覚障害になった社員を抱える会社、つまり雇用側も困ったり、悩んだり、疑問に思うことがあったりします。そういう時にもタートルが相談にのったり、企業向けのセミナーや啓発活動を行う必要があると思います。

実はセミナー事業については、篠島先生が「こんなふうにやろう」とかなり具体的に書いてくださっていました。これからという時に、残念ながらお亡くなりになってしまいましたが、これは是非やる必要があるし、セミナーの形でやらなければいけないと痛感しています。当事者団体としての良さを活かしながら、当事者団体の枠組みから脱却し、企業などと協力して、中途視覚障害者が働き続けられるような力を発揮していければと思います。 そういう意味では、当事者はもちろんのこと、いろいろな医療機関とか、市区町村などの自治体、就労支援機関、企業といった人たちのネットワークを作って、その中で、タートルが役割を果たしていかなければいけないと思います。

■障害年金について

次に、障害年金についてお話しします。私も退職して5年経ちましたので、最近の法律改正などをみても、これはどうなのか、実際の運用はどうかなど、わからないところもあります。ですので、ここでは、重要なことに絞ってお話ししたいと思います。

障害年金にはいくつかのポイントがあります。最も大切なポイントは、初診日がどうかということです。 例えば、小さい時から目の状態が悪く、それが40歳になってかなりの程度になったので障害年金を申請したとしましょう。20歳以降20年勤めて厚生年金を納めていても、もし小さい時からの障害と認定されてしまったら、「厚生年金」ではなく「障害基礎年金」になってしまいます。一方40歳での初診の障害となれば、障害基礎年金に厚生年金が加算されることになります。つまり同じ40歳のサラリーマンで、見えない状態は同じであっても、初診日によって障害年金はまったく違ってしまうのです。

次に、これは20歳以降の初診日の場合ですが、保険料の納付要件がどうかということが、大きな問題となります。障害の状態が前提になりますが、障害年金の場合は、その人の履歴と言いますか、その人が何十年間どのような年金に加入していたか、これが重要になるのです。 また、例えば網膜色素変性症の場合、先天性とか遺伝性とか言われます。色変の人の中には、そういえば小さい時にかくれんぼをすると「鬼になってもなかなかわからなかった」という人もいるでしょう。ところが、こうした人でも、ずっと普通に生活して50歳ぐらいになって急に見えづらくなったというケースがあります。この場合、50歳になって症状が出たわけですから、50歳を初診にすることもあります。

障害年金の請求にあたって、小さい時から現在までの視力の変化について、アンケートを書かされます。その際、自分は厚生年金の障害年金を請求するつもりでも、「小さい頃から目が悪い」と書いた方がよいのかと思って「かくれんぼで見えなくなった」とか本人が書いてしまうと、初診を厚生年金期間中の50歳にしようというのに、チグハグになってしまいます。自分の書いたものを後で取り消すのは面倒で、「あなたがそう言ったのでしょう」と言われてしまうことが、網膜色素変性症の場合にはあります。

ただ、難しいのは「症状が出ていた」というのは、どの時点をいうのかということです。例えば、私の意識としては「0.1の人は、そんなに困らないのではないか」というところがあります。しかし、世間では非常に悪い視力です。そういうのを「まだ発病していない」とは、なかなか言えません。世間ではやはり症状が出ていることになるわけです。 だから、症状が出て、社会生活でちょっと困難さを感じた時が初診になるということを理解しておくことが大切なのです。こういうことも含め、自分はどんな年金を請求しようとしているのかが重要なのです。そのうえで、自分の主張といいますか、自分の書いたことと医師の証明などにきちっと整合性をつけないといけないということなのです。

実は平成27年10月から、障害年金の初診日の証明の仕方が変わりました。今までは医師の証明がなければ絶対に駄目でした。ところが網膜色素変性症や糖尿病など、長い経過を辿って障害になる、つまり5年以上前に初診があるようなケースもたくさんありました。しかしカルテの保存期限は5年であり、5年を過ぎたカルテを廃棄しても医師には責任はないのです。 障害基礎年金は、障害者の生活にとって最後の砦なので、初診日の取り方などは2年前ぐらいから少し緩くなってきました。それが今回の変更で、厚生年金についても、初診日を確定できる診断書がなくても、合理的に推定できるような一定の書類があれば、本人の申し立てた日を初診日にできるようになったわけです。例えば、健康診断を受けて「何も問題がない」という診断を何月何日かに受けた場合、その次に障害に関して病院に行った履歴がわかれば、その間に初診のあることがわかる、といった具合です。

ただ、あくまでも資料をもとに役所が判断することですから、このあたりははっきりと変更されたと申し上げられません。やはり初診日主義は変わりませんから、なかなか厳しいところはあるかと思います。 今までは、初診の証明が取れないため却下されていたケースもありましたが、却下された方も、いろいろとチャレンジできる可能性が出てくると思います。

■大活字図書、iPad、留学生のこと

最後にもう少しお話したいことがあります。それは去年から拡大読書器などの「日常生活用具」の中に、大活字本・大活字図書の項目が入ったということです。実施主体は市区町村なので、市区町村が認めないと実施はされていきませんが、最近の例では、東京都の江戸川区や千代田区で認められました。ですから、自分は見えにくいから「大きな活字の本が読みたい」場合には、他の自治体もやっているし、厚生労働省でも項目に加えたということを伝えて、役所に要望を出してみるとよいと思います。

大きな文字の本の作成を専門家にお願いすると結構お金がかかります。補助が出れば一番よいわけで、千代田区などは大活字図書化のために6万円の枠があるそうです。文部科学省は教科書と違い、補助教材の大活字化は認めていません。保護者の方からは、この制度を活用して、そういうサービスを受けられないかという声も聞かれます。とにかく声を出していくことが重要だと思います。

あと2点ほどです。私は小さい時から虫眼鏡を何枚も重ねて自分でルーペを作っていたのですが、今はiPadを活用していろいろなものを見ています。こうした補助器具を弱視の方が仕事に利用できないものかと思っています。 以前、不動産屋でアパートの物件を見せられた時に、iPadを使って一緒に行った人と同じ書類を見ることができたという経験をしました。話をしながら「トイレがここにあるんだ」という感じで見えるように拡大したりして、これは素晴らしいと思いました。今までなら、私がルーペを使って鼻をこすりつけ、誰にも見えないような形で見ていたわけです。対面で仕事をするような場合などで、弱視の方がiPadを上手く活用できればよいと思います。

最後になりますが、先ほどお伝えしましたように、私はアジアの発展途上国の視覚障害者を支援する活動をしています。日本の視覚障害者の経験や成果を持ち帰って、自国の視覚障害者のために頑張りたいという留学生が、いま日本に来ています。彼らを応援することは、私は日本の視覚障害者全体の課題ではないかと思ってやっています。

日本では電車に乗る時に「ここに行きたい」と言うと、そこまで行けるサービスがあります。また、駅の券売機ではボタンと音声を使って自分で買えるし、銀行のキャッシュコーナーなども使えるようになっています。でも、発展途上国では、そうはいきません。自国に持ち帰ることができる、こうした日本での生活上のよさ・工夫もすごく多いと思うのです。

実は、タートルの交流会にも、彼らが来たことはあります。これからの課題だとは思いますが「日本の中途視覚障害者がこんなに頑張っているんだ」というようなところも、きっと役に立つと思います。そういう意味で、私や皆さんの経験を、彼らに伝えていければと思います。

【~追悼~ 篠島 永一先生】
<たくさんの温かいお言葉をありがとうございました>

札幌 吉田様 

札幌の吉田と申します。 篠島先生の訃報に接し、残念の一言です。先生には、四谷での研修や、就労問題を扱った私の稚拙な修論の時に貴重なご助言をいただきました。また、お会いできる日をと思っておりましたが…。 先生の、視覚障害者の就労にかける情熱を思い出しながら。 ご冥福をお祈り申し上げます。

東京都 N.K様

松井先生が、日本盲人職能開発センターの所長をしていたころに、何度か職能センターを訪問しました。松井先生と篠島先生から、カナタイプを、みっちりと仕込んでいただきました。篠島先生は、きびしさの中に、やさしいところもかなりありました。 心からご冥福をお祈りしたいと思います。

『明確な意志の大切さ』

川口 雅晴(かわぐち まさはる)様

視覚障害による能力低下を人事評価や雇用維持の是非に直結させるような機運が社内で高まり、追い詰められて四谷の職能開発センターにアポなしで訪ねた頃の私は、音声でパソコンを操作する方法があるらしいという、おぼろげな情報は掴んでいたものの、具体的にどうすれば良いのかという行動については見当がつかず、悶々としていました。 その後、センターの基礎コースに参加した際、「音声を使うことを考えた方が良いですよ」と明確に進言してくださったのが、篠島先生でした。

今でこそ、音声操作により自信を持って楽しくパソコンを利用することは、公私共々、日常的に不可欠となっていますが、新たな道を切り開くためには、明確な意志を持って粘り強く行動することが重要であると篠島先生の取り組み姿勢からうかがえたことが思い起こされます。 篠島先生の穏やかな表情に秘められた「意志あるところに道あり」の屈強な精神は、これからも私の励みです。

『故篠島永一氏をしのび』

中村 輝彦(なかむら てるひこ)様

私は平成7年頃、色変が進行し始め、JR東日本グループ会社を辞めるべきかどうかを悩み、ハローワークと四谷のセンターに何度か伺いました。 その際、当時の光岡施設長と共に篠島先生がご一緒され、篠島先生の独特な雰囲気の中からの穏やかな言葉で、「やめる必要はないのでは…」と言った内容の助言があり、また、音声パソコンの訓練状況や発足した「タートルの会」の説明もして頂きました。

しかし私自身は、平成9年10月に退職してしまい、翌年より三療師の道を選び国リハ理療科に進みましたが、これ以後もお電話で何度かお話しさせて頂きました。 そうしたある時、篠島先生が、「中村さん、私ヒゲをはやしているんですよ」とアゴヒゲをさわらせて下さいました。その時の言葉使いも穏やかで、いつものごとく言葉に笑みがありました。

訃報はまさかでした。とっても残念です。今の今でも、電話口から「ウッフッフッ」と聞こえてきそうな感じがしています。 心底よりご哀悼申し上げます。合掌。

『篠島先生を想いだす時、その人は生きている』

山口 通(やまぐち とおる)様

私は、中途失明して、その後、国リハで半年、リハビリを受けて、四谷センターの扉をたたきました。 幼い娘とワイフと尋ねたところ、優しく、丁寧に未来展望を語り続けてくださったのは、篠島先生、井上先生、そしてスタッフの皆さんでした。そこには限りない暖かさと、未来に対する確信がありました。そのときの娘は、現在、複数の障害を持ちつつ、文京盲学校で学んでいます。

篠島先生。 長期にわたり、私たちを見守り、ご支援、ご指導いただきました。ここに衷心より御礼を申し上げます。どうぞ、やすらかにお休みください。タートルの財産であり、宝のひとつである星を私たちは失いました。篠島先生の羅針盤は、今も生き続けています。私たちは篠島先生の羅針盤を生かし続けます。

篠島先生。 感謝いたします。これからも、私たちを天から見守ってください。

『篠島永一先生を偲んで』

梅澤 正道(うめざわ まさみち)様

2002年晩秋、職能センター所長だった篠島さんとお会いし、長年お世話になりました。同じように視覚障害で苦しみ、悩む者同士が、支え合って難局を乗り切っていくヒントをタートルと共に考えてみたらどうかなとお誘いいただきました。 焦らず、慌てず、あきらめず、3つの「あ」を胸に刻み、ゆっくりでもよいから前進することの大切さを、具体例を示しつつ、励ましていただきました。 その穏やかなお話しぶりと先見性は、決して忘れることはできません。また、お会いするたび、お声掛けいただきました。「どうですか」と、優しいお気遣いに勇気づけられ、元気が湧いたものです。

タートルの産みの親のおひとりでもあり、視覚障害者の就労問題に取り組んできたパイオニアがおられないのは誠に残念で仕方がありません。 しかし、残された私どもが、タートルの活動目的に沿って、互いに協力し、邁進することで、「タートルの灯」をともし続けられると思います。力量不足ですが、お手伝いしたいと思います。

『篠島先生を偲ぶ』

神田 信(かんだ しん)様

篠島先生はいつもゆっくりと話しかけてくださった。 視覚障害者として先頭に立ち、皆を引っ張って救って来られた年輪を感じる優しい声で。 想像するに、昔は障害者に対する理解はなく大変な時代から道を切り開いてこられたのだろう。そのお蔭で今の環境があるのだと思う。

病気をされてからも、“あまり飲めないんだけど少しだけ”と付き合ってくださった。“今でもゼミの同窓会を毎年やってるんだ。そこに90歳を超える先生が参加するんだ”とおっしゃられたのが印象的だ。訃報を聞き告別式に参列させてもらった。 先生は最後まで妥協せず、病気と闘ってこられたそうです。本当に一生懸命に闘ったそうです。そして、そんな時でも、家族をユーモアで和ませたそうです。脳外科のご長男がこの世から癌をなくしたいとおっしゃられた。篠島先生のスピリッツは確実に受け継がれている。

『篠島さんのご逝去に寄せて』

神﨑 好喜(かんざき よしき)様

あの日、篠島永一さんの突然の訃報に接し大変驚きました。 現職時代の大半を盲学校の就労支援(当時の進路指導)に身を置いてきた私ですので、篠島さんとの出会いは40年近く前に遡ります。当時はオプタコンが導入された時期で、松井先生が熱心に普及に努めていらして、そしてそこには当然のようにいつも篠島さんがいらっしゃいました。

思えば篠島さんの生涯は、視覚障害者の職能開発と就労支援、そしてタートル設立以後はその発展のために注がれたと言っても過言ではありません。篠島さんがお亡くなりになられた今、私たちは大きな星を失ったことになります。 しかし、だからこそ、私たちはこれを乗り越えて視覚障害者の就労のために、篠島さんの思いを引き継いで進んでいきましょう。それを誓うことが篠島さんにとって最大のご供養なのではないでしょうか。

生前の篠島さんを思い、合掌。 謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

『篠島先生を偲んで』

熊懐 敬(くまだき けい)様

篠島先生、長い間本当にお世話になりました。 思えば、22年前に、リハビリ訓練中に、四ツ谷のセンターを見学した際に、ご挨拶させていただいたのが最初でした。復職後は、仕事にかまけてろくに行事に顔を出さなかったのに、たまに参加すると、いつも受付におられて、先生の方からやさしく声をかけてくださいました。

最近は、相談会や、交流会等にも顔を出してくださり、「私が話すと長くなるが」などと前置きされて、噛んで含めるように助言してくださいました。居酒屋での第2会議室でお話しする機会も多く、とてもご病気とは思えぬ元気さでした。今から思えば、先生の精神力&信念が先生を支えていたという気がします。

発案された20周年記念誌もでき上がり、いろいろご尽力いただいた認定NPOもおかげ様で無事取得することができました。最後の最後まで本当にありがとうございました。先生のご意志は皆で継承して参ります。いつまでも見守ってください。

『篠島永一先生の御永眠を悼む』

佐藤 正純(さとう まさずみ)様

かねてより療養中でいらしたとはいえ、最近まで四谷に足を運んでくださってお話をさせていただいていたので、先生の突然の訃報に接し、驚くと共に残念でなりません。

篠島先生とは、私が正式に横浜市立大学脳神経外科を退職した99年末に初めて四谷のセンターでお会いして、その後2000年1月に私がタートルに入会してから半年間ほど丁寧にスクリーンリーダーの指導をしていただきました。そのおかげで2年後に私は医療専門学校講師として社会復帰を果たすことができましたし、その後も社会のバリアや職場とのギャップに悩む私の精神的な支えとして、先生からは多くのアドバイスをいただきました。

NHKラジオ出演の紹介をしていただいたことは、その後の全国講演へと繋がりましたし、杉並区にお住まいの時には、近くの会場(セシオン杉並)に出演した私たちの障害者バンドの応援にわざわざ来てくださって、声をかけてくださり、常に見守ってくださっていることを実感しました。

これからも先生に天から見守っていただいていることを信じて挫けずに前進します。 奥様のご健勝と、脳神経外科医であるご子息のますますのご活躍をお祈りしております。

『篠島先生の髭』

松尾 牧子(まつお まきこ)様

私が転職を余儀なくされたとき、タートルに電話をして対応してくださったのが篠島先生でした。 とってもとっても辛い時期であったけれど、篠島先生の穏やかな、そして「みんなで相談にのりますから安心してください」という心強い言葉がけに励まされ、大きな困難を乗り切れたと思っています。

日本盲人職能開発センターで訓練を受けていたときはもちろんのこと、就職してからも見かけると必ず声をかけてくださり、励ましてくださいました。 あるとき「私は今、髭を伸ばしてるんですよ。かなり長くなったんです。触ってみますか?」と触らせてくださいました。それは、大きな白い袋を背負ったサンタクロースを想像させられたのを思い出します。 きっとこれからも、たくさんの人に対するやさしさや心遣いが詰まった白い大きな袋を背負ったサンタクロースになって、いつまでも私たちの心に声かけをしてくださるのではないかと思っています。

『篠島先生との思い出』

前田 青(まえだ じょう)様

まだ妻と結婚する前に篠島先生の甥御様がレストランを開店されたというお報せを受け、二人で出向いたことがありました。お店では、私がタートルの会員である旨をお伝えすると、入店時から妻の白杖を見て察していらしたと、とても暖かく迎え入れていただきました。 次のタートル交流会の時、先生にそのご報告をすると「やはり君たちだったか」と、とても喜んでいらした笑顔が今でも忘れられない記憶となっております。 それはご身内同士でお互いを気遣い、連絡を取り合うというお人柄を感じたと共に、会員内でもあまり公言せず付き合っていた我々のような者たちのことも、ちゃんと目を掛けていただいていたんだという有難い安堵感を与えていただいた瞬間でもありました。

ご逝去はとても残念でなりませんが、あの温かなお心遣いは一生忘れません。 安らかにお休みされますことをお祈り申し上げます。

『篠島先生の想い出』

渡部 隆夫(わたなべ たかお)様

もう15年以上前のことですが、篠島先生とはお電話でお話したのが最初でした。 白杖の歩行訓練をして頂いた都盲協の山本先生から、四ツ谷の職能開発センター長をされていた篠島先生に一度電話をしてみたらと言われたのがきっかけです。早速、電話をしたところ、篠島先生からPCの訓練、タートルのこと、私と同じ会社に勤めている視覚障害者のことを教えていただきました。 そこから、色々な繋がりが出来、会社に通いながら四ツ谷で井上先生からスクリーンリーダーによるPC操作をご指導頂き、休職をせずに同じ職場、同じ職種で継続して働いております。

その後もタートルの会などで篠島先生にお会いすると、いつも「やあ、渡部さん、最近はどうしていますか」と気にしていただきました。 お亡くなりになった後でご家族にお聞きしたところ、篠島先生もメーカで技術職をなされていたとのことでしたので、同じ技術者として働いている私のことをお気遣いいただいていたのかも知れません。

私を含めて多くの中途の視覚障害者を励まし、色々な人との繋がりを作っていただいた先生のご冥福を心からお祈りしております。

『篠島永一先生を想う』

重田 雅敏(しげた まさとし)様

タートルといえば篠島先生、電話をすれば篠島先生、四谷に行けば篠島先生だった。 身体障害者手帳を交付してもらった東京都心身障害者福祉センターからタートルの会を紹介されて電話すると、篠島先生が優しく穏やかな声で応対してくれた。この時が私の人生の大きな転換点となった。それは同じ境遇の仲間と繋がった瞬間だったからだ。1995年のことである。この日から、視覚障害者としての第二の人生が始まったのだ。

それから今まで何回四谷のセンターに行ったことだろう。行けば必ず篠島先生が事務室から出てきて、にこやかに出迎えてくれた。名前も憶えてくれて「その後どうなの」「元気にやってる?」と声をかけてくれるのだ。困っていると言えばじっくり話を聴いてくれて、色々な情報を教えてくれた。また関係者や関係機関に連絡を取って顔つなぎをしてくれた。篠島先生の紹介のおかげで、タートルの会はもちろん、日本盲人職能開発センターの事務処理課、全国視覚障害教師の会、アキレスランニングクラブ、東京都視覚障害者生活支援センター、国リハや職リハなど、その後の私の生活と人生を支えてくれた数えきれないほどの人や機関と繋がることができた。今考えると、みなさん盲人社会では名の知れた方々ばかりである。第二の人生のすべての出発点に篠島先生の導きと後押しがあったのだ。

四谷のセンターに同じ視覚障害者で、しかもセンター所長の篠島先生がいてくれたことは、その見識と教養、穏やかな人柄と相まって、計り知れない安心感と信頼感を与えてくれていた。とかく職場では冷たい雰囲気にびくびくしながら過ごしているのだが、四谷に行くとみなさん温かく出迎えてくれて、まるで別世界だった。これも篠島先生の存在あってのことだと思う。

いま、私が交流や相談の担当をしていて分かるのは、篠島先生が、私たち一人一人の名前を覚え、状況を理解し、いつでも相談に乗ってくれていたこと。さらに情報や人脈を駆使して、具体的な機関に繋げていってくれたこと。それは大変な時間と労力が必要だということだ。これらを20年間も続けてきたということは、どれだけの苦労があったのだろうか。とても常人にはできない。覚悟や信念がなければできないことだ。時間があれば手伝う。ゆとりがあれば手を貸す。困っている人の役に立てたらかっこいいという程度ではできない。自分の生活を犠牲にする場面も多かったに違いない。篠島先生は、視覚障害で職場で苦しむ私たちのために、趣味でも仕事でもなく、一生涯の目的として献身してくれたのだ。

間違いなく篠島先生は、タートルの顔、タートルの大黒柱、タートルの心の拠り所だった。その篠島先生がお亡くなりになった今、あまりにも大きな穴をどう埋めていけばよいのだろうか。幸い四谷のセンターでのタートル活動が継続できる環境と、沢山の後継者や人脈を、篠島先生がちゃんと準備して残してくれていた。ほんとうにありがたいことだ。私のように篠島先生に恩返しするためにタートルの活動に参加している人も多いと思う。生前はただただ頼ってばかりであった。タートルの活動もお手伝い程度しかしていない。これからどこまでできるかわからないが、篠島先生の後に続く者の一人として、少しでも恩返ししていけるように頑張っていきたい。篠島先生の志が、後を継ぐたくさんの人たちによって拡大普及することを心から願っている。

『篠島先生を偲んで』

新井 愛一郎(あらい あいいちろう)様

携帯の着信は篠島さんからであった。 「20年記念誌も終わったので、そろそろセミナーの活動を開始しないといけないですね」と言うお話かと思いました。実は、奥様からの訃報とは1パーセントも考えはしませんでした。

篠島さんとは、この記念誌が最後の仕事になってしまいました。私は原稿を集めただけで、その後の編集はすべてお任せでした。大変な作業で、随分体に負担をかけてしまったことと思います。 「旅立ちの時にこの冊子も持たせます」と奥様がおっしゃったとき、篠島さんの思いの強さに改めて感銘しました。

20年ほど前に、篠島さんの編集した機関誌を私が輪転機を回して印刷して、二人で機関誌を作りました。最初と最後に一緒に仕事できたことを本当に光栄に感じます。 いつも静かに考えて、私の奥底を「見抜いている」という気持ちでいました。「視覚障害者の就労のために、このようにしてください」今も携帯の電話が鳴るような気がしてなりません。

『篠島先生と私』

工藤 正一(くどう しょういち)様

篠島先生との出会いのきっかけは、私がベーチェット病を発病する前、労働省で契約の仕事をしている時に、日本盲人職能開発センターの創始者である松井新二郎先生と篠島先生の奥様にお会いしたことです。篠島先生の奥様は東京ワークショップの契約担当者として、松井先生に随行して来られました。その時の私は、将来失明するなんて、夢にも思いませんでした。その後、私はまさかの失明をしました。しかし、1991年4月、私は職場復帰することができました。

まず関わった仕事が、「視覚障害者雇用マニュアル」に関する研究会でした。これは、シリーズもので、委員長は道脇正夫先生で、篠島先生は委員として参加され、「視覚障害者雇用マニュアル:企業におけるヘルスキーパー雇用のすすめ」をはじめ、多くの成果物を出しました。先生は、タートルの会の結成以前から私の傍にいてくれたように思います。以後、毎日のように電話し、いつも背中を押してもらいました。タートルの相談が大きな成果をあげることができたのも、先生のお陰です。時々、こんな時先生に電話をしていたなあと思うことがあります。

今も目をつぶると、先生の声が聞こえてくるような気がします。私にとっては、何をするにも、先生が頼りでした。まだまだ相談したいことは山々なのに、もう相談できません。それは、とてもさみしいことですが、これまで存分に相談できた私は、ある意味で幸せ者です。先生は私の中に生き続けていると思って、頑張っていきます。

『篠島先生を偲んで』

松坂 治男(まつざか はるお)様

私と篠島永一さんとの出会いは1995年に前職の会社を退職して、この先どのような道があるか情報収集していた時期で、県内の施設を訪問し、どうもしっくり合うところがなく、唯一興味を引いたのは日本盲人職能開発センターでした。8月に訪問し、音声や画面拡大されたパソコンと出会い、私が悩んでいた「読み」「書き」ができると確信しました。9月の日本盲人職能開発センターで行われた情報処理指導員講習会に参加した時にお会いした初めての視覚障害者でした。当時篠島先生はセンターの職員で第一印象はとても静かで穏やかな人だと感じました。そこでタートルという団体の説明や「障害をばねにして」という手記集の原稿について熱く語られました。会の集まりが今月あるとのことを聞き参加しました。

そして第2回目は、翌年の5月に篠島先生より電話があり、民間企業で働く視覚障害者として、タートルで幹事を引き受けてくれないかとのお誘いをいただき、全く障害者としての経験が浅い私としては、失うものはなく、良い経験ができるのではないかとお引き受けをしました。 再就職をし、不安の中タートルの活動を通して、私にとって役立つことが多々あり、篠島先生のお誘いがなければ、今の自分がありません。

日本盲人職能開発センターの創設者であった故松井新二郎氏と篠島先生がタートル発足以前から、職域拡大、就労支援を積極的に行っていたことを知り、タートルでも、経団連・連合・経営者団体等との啓発に同行していました。 この強い意志を深く胸に刻んでいく所存でいます。天国から見守っていてください。

『 篠島さんを偲んで』

田中 章治(たなか しょうじ)様

篠島さんは、長年、雇用連(全国視覚障害者雇用促進連絡会)の副会長並びに幹事をされておられました。日本盲人職能開発センターの創立者で、1995年に逝去された故松井新二郎先生の後継者として、雇用連に関わってこられました。1979年に結成された雇用連は、初代会長に松井先生を迎え活動してきましたが、篠島さんは先生の信頼も厚く、役員として強く推薦があったように思います。

雇用連の幹事会は、いつも篠島さんの職場である職能開発センター会議室で行われました。篠島さんの会議における発言、それは徹頭徹尾視覚障害者の立場からのものでした。視覚障害者の雇用促進、職域開拓、職能開発や職場復帰に寄せる思いなど、常に情熱をもって語っておられたのが心に残っています。謹んでご冥福をお祈りいたします。

『篠島さんのご逝去に寄せて』

津田 諭(つだ さとる)様

篠島永一様の訃報に接し、突然のことで驚きました。 篠島様と最初にお目にかかったのは、たぶん、今から27、8年前になるかと思いますが、当時、日本盲人職能開発センターで行われていたオプタコン指導員講習会を受講した時だったと思います。私は日本ライトハウスに入社したばかりでしたが、故松井新二郎先生や篠島様が温かく迎えて下さり、感激したのを思い出します。

篠島様は、所長や理事として長年にわたって日本盲人職能開発センターの運営に携わられ、また、タートルの発起人の一人として視覚障害者の就労促進に大きく貢献してこられました。その優しい語り口や人柄に魅せられてきた者の一人として、亡くなられたことは残念でなりません。

最後にお目にかかったのは一昨年、戸山サンライズで行われた「全国ロービジョンセミナー」の場でした。何か体調が十分ではないご様子だったことを覚えています。青梅に移られて、田舎暮らしを楽しんでいらっしゃるご様子で、「東京まで出てくるのはなかなか大変ですよ」と語っておられました。 これからも、日本ライトハウスは日本盲人職能開発センターやタートルと協力して、就労支援に力を尽くしていくことが、篠島様のご遺志に沿うことであろうと思います。 心からご冥福をお祈りいたします。

『追悼:篠島永一先生、ありがとう』

高橋 広(たかはし ひろし)様

篠島先生との思い出は、何と言っても毎月1回のロービジョン就労相談会終了後の中央線での至福の時間である。 先生を知ったのは、随分と前でいつからか思い出せない。おそらく、日本盲人職能開発センターの所長としてバリバリと働いていらっしゃったころからである。そして、より深くお付き合いできるようになったのは、ロービジョン就労相談会が始まってからだ。 その相談会でも先生は多くを語らないが、的を射た指摘をズバリされるという天才であった。掛け替えのないスタッフであった。今、正にロービジョンケアは世代交代に直面している。その真っ先に、失った友、同志の大きさを噛みしめる昨今である。

「今日の彼はああだったね」
「今日の彼女は頑張ってるね」
「今日のお母さんは苦労しているね」
など、相談者の顔が先生の面影と共に瞼に浮かんでくる。先生との語らいは、私が下車する西国分寺駅まで続いた。

ああ、もう先生は居ない。後に残された我々は篠島永一の思いを忘れてはいけない。 ありがとう、先生。

『篠島先生と新潟』

小島 紀代子(こじま きよこ)様 

22年前、新潟県内から「我こそは、目の不自由な人に“パソコン”を教えたい」と晴眼の勇者たち80名が集まりました。たった1台のパソコンに先生お一人、「目が不自由になっても仕事を…障害があっても仕事はできます。パソコンはこんなことができます」と静かに語る篠島先生。そこにいる山田先生も生徒もその熱い思いに興奮しました。 それが、私たちのパソコン教室の始まりでした。 パソコンで字が書ける、仕事にも…「タートルの会」ともつなげていただきました。先生の揺るぎない想い、燃え続ける情熱は、山田先生、スタッフにも「火」をつけ、県内にパソコン教室が12校、県外にも、飛び火し現在も健在です。

その上、私たちの仲間が再就職を果たし、それに続く若い目の不自由な人も仕事に就き、勢いと活気が活動の輪を広げてくれました。 技術だけではなく、困難や壁をどう乗り越えるか?「夢」が大きなこころのケアになることも教えていただきました。 今後の障害者雇用、高齢化社会も困難は続きますが、「教え・情熱」を思い出します。先生の『想い』はずっと多くの人のこころに生き続けます。 先生有難うございました。

『先生のお蔭で、新潟はパソコンの花が満開です』

山田 幸男(やまだ ゆきお)様

私たちのパソコン教室開設のきっかけは、リハビリ外来を受診した大橋さんの「パソコンがやりたい」でした。当時私たちのところでは、パソコンはなく、使い方も知りませんでした。大橋さんを救うにはパソコンを始めるしかないと考え、「あなたも指導者の一人になること」を条件に翌年パソコンを購入し、そして先生に新潟に足を運んでもらいました。

いま、新潟はパソコンの花で満開です。県内10数か所で目の不自由な人が頑張っています。先生のご努力が花開いています。ありがとうございました。合掌

『篠島先生への哀悼文』

杉江 勝憲(すぎえ かつのり)様

篠島先生のご逝去に接し心よりの哀悼の意を表します。 思えば、平成19年に篠島先生の後任として、日本盲人職能開発センターの施設長に就任しました。就任当時より、篠島先生のご指導を仰ぎながら、本日まで運営を続けることができました。 お陰様で、就労移行支援事業を平成23年度から新たに立ち上げることができ、平成28年度からは定員を25名に拡充することとなりました。これら事業の拡充も、篠島先生のご支援の賜物と感謝いたしております。

今後は、微力ではありますがセンターの事業の発展と篠島先生の生前のご遺志でありますNPO法人タートルの支援に努める覚悟であります。 最後になりますが、篠島先生のご冥福をお祈りして、哀悼文とさせていただきます。

『弔辞』

北林 裕(きたばやし ひろし)様

篠島永一様
あなたは、私が職能開発センターに採用されてから約20年間、ずっと私の上司でした。 あなたは、仕事を一つひとつ丁寧に教えるタイプではなく、むしろとても口下手(職人気質)なところがあり、「背中を見て育ちなさい」といった風でした。しかし、私はむしろ、その方がとても性に合っていました。

私が職能センターに入ったことを、あなたはとても喜んでくださっていたと、後に奥様の斉子さんから伺いました。私も、本当に良い時代に採用されたと思っています。なぜなら、視覚障害者の文字を書く道具を、「カナタイプからワープロに切り換えよう」という時で、たまたま私にプログラミングの心得があったものだから、あなたのお手伝いをさせていただくことができたからです。 その後すぐに、ワープロからパソコンへと移り変わる時がきて、その時も「やまびこ」というスクリーンリーダーの開発のお手伝いをさせていただきました。毎日、遅くまで、共に研究・開発(時には口論)に没頭していたあの頃のことを、今でも昨日のことのように思い出すことが出来ます。 あの開発時に学んだことは、今でも私の財産となっています。そして、あの時にあなたが熱く説いておられた「フルキー六点漢字入力」の必要性は、後世にも受け継いでいきたい理念と思っております。「フルキー六点漢字入力」は、私が職能センターにいる限り、あなたもよくご存知の礼子さんと共に開発を続けていきます。どうぞお見守りください。

仮称「国家公務員の復職を考える会」から「タートルの会」への創立時も、私はあなたのお手伝いをさせていただきました。しかし、事務局である職能センター内でのいろいろなことがあり、私は逃れるように数年で退会してしまいました。 あなたは、そのままずっと会を支え続け、ついにはNPO法人にまで発展させました。視覚障害者のとりわけ「就労」という分野において、あなたはまさしく第一人者です。そんなあなたを上司に持てたことを、私は誇りに思います。

私は、あなたにとってとても生意気な部下だっただろう、と思います。失礼なこと、いやもっと言えば「暴言」ばかり言って、あなたによくぶつかっていきました。特に、センターの近くにあった「ピステ」では、いつもごちそうになっていたにもかかわらず、けんかごしな発言ばかりしていました。にも拘わらず、あなたは私と付き合ってくださいました。口論しながらも「もう、君とは飲まない」など、一言もいわず、私の生意気な発言、いや暴言を受け止めてくださいました。勝手な言い分ですが、私の中ではあなたを職場の父と思っております。だから、あれだけぶつかっていけたのだろう、と思います。

最後に電話をさせていただいたとき、「私は篠島先生を職場の父だと、そう思っています」と白状しました。するとあなたは、嬉しそうに「うん、うん、ありがとう」と言ってくださいました。私事ではありますが、この半年ばかり、高齢の両親の介護で出かけることもままならず、「落ち着いたら篠島先生にご挨拶に行こう」とかみさんと、言っていたのですが…。あなたは、逝ってしまいました。 私は直接、いままでの生意気な振る舞いをお詫びすることもできず、狼狽え、まさに力が抜けてしまっているところに、斉子さんからこの弔辞の機会を与えていただきました。誠に勝手ながら、斉子さんも職場での母と思っておりますので、職場のお袋が私を気遣ってくれてこの機会を与えてくださったのだと、そう素直に思っております。

最後に、言わせてください。
― 親父さん、本当にありがとうございました ―

2015年11月4日   合掌

【お知らせコーナー】

ご参加をお待ちしております!!(今後の予定)

《タートルサロン》

毎月第3土曜日 14:00~16:00
情報交換や気軽な相談の場としてご利用ください。
場所:日本盲人職能開発センター
*交流会開催月は講演会終了後

《平成28年度NPO法人タートル通常総会》

日時:平成28年6月4日(土) 10:00~16:30
場所:日本盲人職能開発センター(東京)
(大阪・福岡とスカイプで中継予定)
午前:通常総会 午後:基調講演
川崎市視覚障害者情報文化センター利用者支援グループ 視覚リハ訓練士・歩行訓練士 中村 透様が、登壇されます。どうぞご期待下さい!

一人で悩まず、先ずは相談を!!

見えなくても普通に生活したい、という願いはだれもが同じです。職業的に自立し、当り前に働き続けたい願望がだれにもあります。一人で抱え込まず、仲間同士一緒に考え、フランクに相談し合うことで、見えてくるものもあります。気軽にご連絡いただけましたら、同じ視覚障害者が丁寧に対応します。(相談は無料です)

正会員入会のご案内

認定NPO法人タートルは、自らが視覚障害を体験した者たちが「働くことに特化」した活動をしている団体です。疾病やけがなどで視力障害を患った際、だれでも途方にくれてしまいます。そんな時、仕事を継続するためにはどのようにしていけばいいかを、経験を通して助言や支援をします。そして見えなくても働ける事実を広く社会に知ってもらうことを目的として活動しています。当事者だけでなく、晴眼者の方の入会も歓迎いたします。

賛助会員入会のご案内

~賛助会員の会費は、「認定NPO法人への寄付」として税制優遇が受けられます!~
認定NPO法人タートルは、視覚障害当事者ばかりでなく、タートルの目的や活動に賛同し、ご理解ご協力いただける晴眼者の入会を心から歓迎します。ぜひお力をお貸しください。
眼科の先生方はじめ、産業医の先生、医療従事者の方々には、視覚障害者の心の支え、QOLの向上のためにも賛助会員への入会を歓迎いたします。また、眼の疾患により就労の継続に不安をお持ちの患者さんがおられましたら、どうぞ、当認定NPO法人タートルをご紹介いただきたくお願いいたします。

ご寄付のお願い

~税制優遇が受けられます!~
認定NPO法人タートルにあなたのお力を!!
昨今、中途視覚障害者からの就労相談希望は急増の一途です。また、視力の低下による不安から、交流会やタートルサロンに初めて参加して来る人も増えています。それらに適確・迅速に対応する体制作りや、関連資料の作成など、私達の活動を充実させるために皆様からの資金的支援が必須となっています。
個人・団体を問わず、暖かいご寄付をお願い申し上げます。

★当法人は、寄付された方が税制優遇を受けられる認定NPO法人の認可を受けました。皆様の積極的なご支援をお願いいたします。
寄付は一口3,000円です。いつでも、何口でもご協力いただけます。

☆入会申込書・賛助会員申込書・寄付申込書はタートルのホームページからダウンロードできます。

≪会費・寄付等振込先≫

ゆうちょ銀行
記号番号:00150-2-595127
加入者名:特定非営利活動法人タートル

活動スタッフとボランティアを募集しています!!

あなたも活動に参加しませんか?
認定NPO法人タートルは、視覚障害者の就労継続・雇用啓発につなげる相談、交流会、情報提供、セミナー開催、就労啓発等の事業を行っております。これらの事業の企画運営に一緒に活動するスタッフとボランティアを募集しています。会員でも非会員でもかまいません。当事者だけでなく、晴眼者(目が不自由でない方)のご支援も求めています。積極的な参加を歓迎いたします。
具体的には事務局の支援、情報誌の編集、HP作成、受付、スカイプの管理、視覚障害参加者の誘導等いろいろとあります。詳細については事務局までお気軽にお問い合わせください。

タートル事務局連絡先

Tel:03-3351-3208
E-mail:m#ail@turtle.gr.jp
(SPAM対策のため2文字目に # を入れて記載しています。お手数ですが、上記アドレスから # を除いてご送信ください。)

【編集後記】

全国のタートル会員の皆様、お元気でお過ごしでしょうか?

この34号の編集作業は、1月、2月を中心に行いました。冬の真っ只中でしたが、暖かい日が続いたり、急に積雪があったり、気温の変化が翌日には10度も違うといったことがあったり、落ち着かない季節だったような気がします。 その様な季節を過ぎて、多分暖かくなる頃にこの情報誌が皆様のお手元に届くのでしょうね。

今回から、前任者から編集を引き継いで、情報誌を担当することになりました。その最初の情報誌が、<特集>であることもあり、編集の大変さを「身に染みて」感じることになりました…。

思えば、昨年の11月1日。メールを開くとそこには信じられないような言葉がつづられていました。青梅の梅ノ木が無くなった事を悲しんでおられた、少しずつ噛み締めるように食事をされていた、お洒落な被り物と杖を手にされていた、少し長いお髭をさすりながら優しく話されていた、あの篠島先生の訃報だったのです。少しの間、部屋で立ち尽くしていたのを覚えています。思い出が頭の中をグルグル回りました。大きなため息をひとつこぼしてしまったことも覚えています。それは、とても日差しが暖かく優しい雰囲気のある「朝」でした……。

今回、追悼記事を掲載するに当たり、全てのご寄稿者の方々には、ご所属、お役職などを除外し、「~様」という形でお名前を記載させていただきました。ご寄稿頂いた皆様、暖かいお言葉を本当にありがとうございました。

さて、今回の「情報誌」はいかがでしたでしょうか?これからも、皆様に楽しんで頂けるような充実した誌面作りを目指していきたいと思っております。今後とも、より一層のご愛顧を賜りますよう宜しくお願い致します!!

(市川 浩明)

奥付

特定非営利活動法人 タートル 情報誌
『タートル第34号』
2016年2月24日発行 SSKU 増刊通巻第5384号
発行 特定非営利活動法人 タートル 理事長 松坂 治男