2000年5月25日、市ケ谷のゼンセン会館で行われたゼンセン同盟主催の「弁論大会 私の主張」に大脇さんが弁士として参加されました。以下は、その弁論の内容です。大脇さんの了承を得て掲載させていただいたものです。
 なお、大脇さんは、中途視覚障害者の復職を考える会(通称「タートルの会」)の幹事として活躍されています。

掲載日: 2001年11月11日

私の主張

大脇 俊隆

 私は現在 46歳で、照明器具と家具を扱う会社に勤務しております。皆さんご覧になってお気付きのことと思いますが、私は眼に障害を持っておりますので、歩行をする時には白い杖のお世話になっております。いわゆる視覚障害者の一人です。それも30代半ばで失明という現実を負ってしまった中途視覚障害者です。しかし眼に障害がある意外は、いたって健康な社会人です。

 失明する直前の私は、営業の第一線で仕事をしていました。ようやく仕事にも自信が持てるようになった時期でした。家庭的にも、二人の息子に恵まれ、なんとかマイホームも購入して、家内と二人で「さあ これからも頑張って行こう!」と張り切っていた時期でした。

 それは30歳の時でした。休みの日に子供と一緒にサッカーをして遊んでいた時でした。突然眼に異状を感じて病院に駆け付けると、眼底出血を起こしているとのことでした。その後も異状は改善されません。「病院に行けば当然良くなって行くだろう、直るはずだ」あるいは「メガネを使えば強制視力で見えるようになるだろう」等と、希望を、要望を、切望を胸に通院が続きました。藁にもすがる気持ちで入退院も繰り返しましたが、視力は悪化する一方でした。そしてついに37歳の時に失明してしまったのです。ベーチェット病という難病による失明でした。

 言葉では言い表せないほどのショックで打ちのめされました。それからリハビリテーションを受けて、生活訓練や歩行訓練、そして職能開発訓練を経て、3年後の40歳の時に会社に復職をすることが出来ました。しかし、ここに至るまでには、私なりの葛藤と紆余曲折がありました。家族にも大変な迷惑と困惑を与えてしまったことを、今でも悔やんでおります。

 通院、入退院、職場への気兼ね等と平行して、購入したばかりの住宅のローンの支払いも我が家に重くのしかかって来ました。「これから先滞りなく返していけるのだろうか」家内は内職の手をゆるめることなく、一家団欒の夕食の時にも内職のことで頭が一杯だと言います。家族での話しも少なくなり、殺伐とした夕食の日々を過ごしました。当時小学生だった多感な二人の息子達と家族旅行やドライブに行く機会も減り、近くの公園でのキャッチポールで一緒に触れあう機会も徐々に無くなってゆきました。最後には息子達に「父親とは遊んではいけないんだ、病人なんだから」という先入観を持たせてしまう結果となり、父親がいるにもかかわらず、いわば母子家庭のような状態の日々が続きました。こういった中でも、息子や家内はジッと我慢していてくれていたのです。それに引き替え、その頃の私は「この病気が悪い」「病気を治せない病院が悪い」というような言い訳や不平不満を口走っていたのです。

 これに気付いた時、私は、家族や、私を支えてくれている職場の人達に対して‘恥ずかしさ’‘すまなさ’で自問自答を繰返しました。それで得られた結論は、ごく平凡で一般的なことでした。「これではいけない、一家の長である私がしっかりしなくては、父親として社会人としてしっかりと仕事をしてゆかなければ」と。これを気付かせてくれた息子や家内達に心から感謝しています。そのおかげで、自分自身は病気をしっかりと受容し、病気と現実に立ち向かうパワーをもらうことができたのです。

 リハビリテーション施設での訓練は入所での生活訓練でした。それは、そこの施設で寝泊まりしての訓練で、食事の用意以外は全て自分一人で行うというものです。また、外での歩行訓練は白い杖を使っての歩き方です。当初私は、その白い杖を持つだけで自由に歩けるものだと信じていました。しかしその白い杖を使うのは目の見えない当事者自身であり、その当事者の頭の中に道路の地図が入っていなければ、白い杖を持っていても歩けないんだと言うことを実感させられました。ですから視覚障害者が町中を歩くということは、まず、自宅からバス停もしくは最寄りの駅までの地図が頭の中にイメージされていないとバスにも電車にも乗れないということになるんです。そして駅からは自分の会社までの通勤圏の駅の階段の段数までも覚えていかなくてはなりません。もちろん駅舎全体での方向感覚、いわゆる自動券売機の場所、トイレの場所、電話カウンターの場所といったことです。それらの細かいところまでが頭に入って初めて白い杖を使って電車に乗り、会社に通勤することが出来るのです。

 思い返せば、今から5年前の6月1日の会社の月例総会でのことでした。、私の復職に向けて、私の直属の上司の部長さんが、リハビリテーション施設の先生方のご協力もいただきながら、私の復職への青写真を描いて提示してくださいました。それにより、会社の上層部の方々が私の可能性を信じて復職への道筋を開いて下さったのです。この絶大なるご尽力がキーポイントとなって、私の復職を現実のものに導いたのです。これにも深く感謝申し上げます。

 現在、私は会社で音声パソコンというものを使って各種会議の内容を録音し、それを文章化するという仕事をしています。また、当社のショールームに来館されるプロフェッショナルな業界のお客様の名刺を、ボランティアの人たちの協力を得て音訳テープに収録していただき、それをパソコンに入力してデータベース化しています。現在のところ、約6000名のプロのお客様のデータが私のパソコンに保存されています。この顧客名簿のデータが会社に貢献できる資料となるわけです。

 「全盲で目が見えない人間が、会社で一体何ができるのだろうか?」と言う声が聞こえて来ないわけではありません。そのような周囲の人たちの声を一掃するには非常に大きなエネルギーと根気が必要です。それは一人のパワーだけではとても持続させられません。私は会社に復職したおかげで、そのエネルギーと根気を私自身に継続させてくれる仲間に出会うことができました。

 その仲間の名称は『中途視覚障害者の復職を考える会』通称『 タートルの会』といいます。この会には、全国で400名の方が入会されています。私はそこの幹事も務めております。入会を希望される皆さんは、視覚障害で就労継続に不安をもってらっしゃる方々、障害が進行していて将来の生活に不安を抱いている方々、目が悪くなったことを理由に「あんま、ハリ、きゅう」の道を考えたらどうか等と露骨に退職や転職を迫られたり、リストラの時勢に乗って人減らしの標的にされている方々です。このような方々を対象者に、ある時は緊急相談にものり、具体的な方策や対応を協議して支援しております。

  また、調査研究としては、具体的な就業事例の蓄積が行われています。たとえば、どのような職場でどのようなパソコンソフトを使って仕事をしているのか等を調査して、会員相互の仕事への支援もしているのです。ITが進歩している今日、職場内のOA化は視覚障害者に多くの働く可能性をもたらしています。眼に障害を持っていても、ちょっとした補助器具とソフトウエアを用意すれば出来る仕事は無数にあるのです。

 このような活動をしているタートルの会を通して、私は、自分が通ってきた長くてつらい日々を、同じ障害で悩み苦しんでいる人々にとって、少しでもお役にたてるものに変えたいと考えています。これが私を支えてくれた家族と社会の皆さんに対する、私の感謝の責務であると考えているからです。

ご静聴ありがとうございました。


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