会報「タートル」40号(2005.9.12)

1998年10月9日第三種郵便物認可(毎月3回8の日発行)
2005年9月12日発行 SSKU 通巻1893号

中途視覚障害者の復職を考える会【タートルの会】 会報
タートル40号


目次
【設立10周年記念講演】
「眼科医が行う就労支援の実際」
高橋 広(柳川リハビリテーション病院眼科部長)
【設立10周年記念拡大交流会】(つづき)
 「分科会報告(3)家族について」
【会費の納入について(お願い)】
【編集後記】


【設立10周年記念講演】
「眼科医が行う就労支援の実際」

高橋 広(柳川リハビリテーション病院眼科部長)

 こんにちは、高橋です。タートルの会結成10周年おめでとうございます。このような記念の時にお招きいただき、大変に光栄に存じます。私たち視覚障害者に関わる者にとって、タートルの会は心強い存在です。
 私は北九州で視覚障害研究会を立ち上げ、1996年12月の第2回シンポジウムで「視覚障害者と仕事、働く場」をテーマに開催した時、タートルの会と出会いました。また、私とロービジョンケアとの出会いは1992年に遡ります。当時私は産業医大助教授で、ある緑内障患者の治療に携わりました。手術をしても眼圧が下がらなかったので内服薬を出したのですが、その薬がその方には全く合わず、薬害を起こしてしまったのです。我々はどうすることもできませんでした。来る日も来る日もただ診るだけで、有効な治療方法はありませんでした。2年経ったある日、一人の歩行訓練士に病院に来てもらい、その患者さんのケアをお願いしたところ、これは一体何だと思うほど、患者さんは変わっていったのです。その様子を見て、ロービジョンケアとは何かを知りました。それは1994年のことで、その訓練士が函館視力障害センターの山田信也先生です。
 医師にとって、このような転機となる患者さんは必ずいます。この体験を昨年1年間『臨床眼科』(医学書院)に連載した“私のロービジョンケア”の第1回目に書きました。
 我々医師は、患者さんや視覚障害者の方々にどう対応をするかが、真に問われています。医師は患者さんや障害者の皆さんに適切な診断と治療を行うのは当然です。英語で言うと、キュアで、眼科医療ではクォリティ・オブ・ビジョン、つまり「視覚あるいは視力の質」が求められます。よく見えるようにするにはどうすればよいかが、もっぱら眼科医の関心事です。しかし、患者さんや障害者の方にとっては、日常生活が送れるかどうかも重要です。その支援がケア、すなわちクォリティ・オブ・ライフ(QOL)という考え方です。キュアとともにケアも大切で、車の両輪に例えられます。キュアとケアをいかに両立させていくかが、今日的医療の課題です。我々医師はキュアという車輪ばかりを回してきたのではないでしょうか。産業医大にいた時の私も、どちらかというとキュアの方を主体にやっていたように思えます。もっとケアに重点を置くべきだと考え、2000年に柳川リハビリテーション病院に眼科を開設し、今日に至っています。
 私のロービジョンケアの定義は、保有視機能を最大限に活用し、QOLの向上を目指すケアです。QOLも単に生活の質でなく、人生の質を含めたものを目指すケアがロービジョンケアだと私は考えています。眼が見えない方が、いくら眼が見える人と同じように行っても、それは難しくてできません。しかし、視覚以外の能力を最大限使えば、生活は十分に営めます。もちろん視覚を使える方は、工夫して視覚を使うのは当然のことです。
 今ある多くのロービジョンクリニックでは、ルーペで読んだり、単眼鏡を使って黒板が見えるようにすることに主眼を置いています。しかし、患者さんや視覚障害者の皆さんは読み書きをして勉学し、仕事をしています。つまり、文字を読んだりすることは真の目標ではなく、勉強や仕事を遂行することが目標です。したがって、生活に立脚したロービジョンケアでなくてはなりません。私が目指しているのは、「見せるロービジョンケア」から、「生活を支援するロービジョンケア」への転換です。先日、九州ロービジョンフォーラム(九州地区で毎年開催しているロービジョンケアの啓発シンポジウム)で、ある視能訓練士から、眼科医は全国に1万2千人いるが、私はその中の1点だと言われました。そして、どんなに視能訓練士である自分たちがロービジョンケアをやっても、眼科医がやってくれないので、ロービジョンケアが広まっていかない、どうすればいいのかと問いかけられました。私は、当事者である患者さんや視覚障害者の皆さんたちが、ロービジョンケアをして欲しいと眼科医に勇気を持って言うことだと答えました。そうすることで、心ある眼科医がもうひとつの点となり、点が線になり、それらが繋がって面になります。一つ一つ増やしていくことが、確実な方法だと思います。
 従来の眼科リハビリテーションは、福祉に単に繋ぐこととされていました。失明を告知された患者さんは失望、否認、不安、混乱が堂々巡りし、非常に長い無為な時間が経ちます。これではいけないと思った方が、福祉や教育の門を叩いていたようです。叩かなければ、その人は家の中に閉じこもったままです。そのため、どうしても社会的、教育的、職業的リハビリテーションは遅れてしまいます。多くの場合、仕事も辞めてしまいます。しかし、最近のロービジョンケアでは、視覚的困難が予想できたり、また訴えがあった時、治療をしながらでも、ロービジョンケアを開始します。このように眼科医療の中でロービジョンケアを開始することで、結果的には生活や歩行の訓練に早く結びつきます。
 例えば、右眼のあさがお症候群、左小眼球の少女がいました。生後5カ月の時から診ていますが、今は高校3年生です。経験がある眼科医なら、彼女の眼を診て、大きくなっても視力が0.1以下であることは判断できます。実際今も視力は0.04程度です。したがって、幼い時期からロービジョンケアが必要で、生活するため、学校に行くためにはどのような支援が必要かは自ずとわかります。網膜色素変性、糖尿病網膜症や加齢黄斑変性などでも同様で、経験ある専門医なら視力が0.1あるか否かの予想はつきます。この視力0.1は眼を使って日常生活ができるか否かの境目となる視力ですので、是非覚えておいてください。
 ここに、”ロービジョンケアは医の心“というビデオがあります。私が日本眼科医会から委嘱を受けて作成したもので、見たい方は眼科医を通じて万有製薬に連絡ください。
 では、患者さんたちのロービジョンケアを受けた時の気持ちなどをお聴きください。
{ビデオ開始}
 高橋「5歳の黄斑ジストロフィのあるお子さんのお父様にお気持ちをお聞きいたします。お子さんの眼に異常があった時、どう感じましたか。また何を考えましたか。」
 父親「そうですね、やはりとにかく治して欲しいと思いました。」
 高橋「実際はどうでしたか。」
 父親「検査をした結果、現在の医学では治療はできないといわれました。」
 高橋「治らないと知って、どう思いましたか。」
 父親「頭の中が真っ白くなって、それを事実として認めることはできませんでした。」
 高橋「眼科医に、どうしてもらいたかったですか。」
 父親「これからどのように育てていったらいいのか、親として子どもに何をしてあげられるのか、どこに相談すればいいのか、そういうことを教えてもらいたかったです。」
 高橋「今、何が必要だと思いましたか。」
 父親「来年小学校なので、就学に関する情報が一番大事であり、必要な情報ですね。」
 高橋「視力はどの程度ですか。小学校入学する時には、視力が問題になりますね。」
 父親「今、視力は両眼で矯正して0.07くらいで、とにかくまぶしがりますので,遮光眼鏡をかけています。小学校に併設されている弱視学級や盲学校も見学しましたが、どちらが子どもにとってよい選択肢なのか悩みました。そして、再び主治医の先生にお伺いして、ロービジョンケアを教えていただきました。」
 高橋「ロービジョンケアを知って、どう思われましたか。」
 父親「どのような補助具が必要なのか、具体的に注意していただきました。また医師が患者の病気を診るだけでなく、患者の日常生活に対する支援が必要であるという主張が先生からも述べられ、非常に驚きました。まさに、私たち家族や患者が求めていたものです。とくに地域社会に密着した医療は、多くの患者が必要とするものであり、これからの医療のあり方だと思いました。」
 高橋「先日、視覚障害教育専門の先生を紹介しましたが、いかがでしたか。」
 父親「視覚障害児の就学における問題点をいろいろと具体的に教えていただきました。また、弱視学級と盲学校それぞれの利点や欠点も教えていただき、大変参考になりました。これから先に何かあった時は気兼ねなくご相談くださいと言われ、大変心強く思いました。」
 高橋「よかったですね。」
{ビデオ終了}
 ただいまのは、東京の慶応大学病院で診ている患者さんです。私の活動の場は九州ですから東京では限界があり、ルーペや単眼鏡の細かな指導はできません。そこで、東京大学の中野泰志教授に、その場で電話して支援を頼みました。そして、ある日、彼に病院まで来てもらいました。中野先生は弱視学級の先生も連れて来られたので、一気にカンファレンスとなりました。「この子のために一番大切なことは何か」「彼には遮光眼鏡は必需品ですが、これを同級生にどう説明するか」「単眼鏡はいつから」などなど具体的な課題や支援策が明らかになっていきました。その後、中野先生はこの子の家まで出かけて、彼の大好きなものは何かを探りました。彼は車が大好きで、ナンバープレートなどを知っていました。見えるのですね。でもそれが、ちょっと離れると見えないので、「だから単眼鏡を使いましょう」という話になりました。子どもが大好きなものが何かを知って、そこをうまく利用してやっていく。この発想がロービジョンケアにとってものすごく大切です。また、中野先生のこのフットワークの軽さがQOLの向上につながっていきます。私の連携はこのようなものです。
 次の例は、網膜色素変性症の大学生ですが、彼は自発的に顔を出しています。現在矯正視力が右0.06、左0.5、身体障害者手帳2級です。
{ビデオ開始}
 高橋「今日はコンタクトレンズですか。」
 患者「はい、コンタクトレンズをつければ、みんなと同じという気持ちになります。物心ついた時からメガネをかけていたので、初めてコンタクトレンズをして、メガネをかけてない素顔を見た時は、とてもうれしかったです。」
 高橋「私たちはロービジョンケアの第一歩は、屈折矯正だと考えています。他の病院で矯正視力が0.5だったのに、我々が処方したコンタクトレンズで0.9まで視力がでましたね。あなたはその時どう感じましたか。」
 患者「中学2年の時の話ですね。自分もまだ見えるのだと自信がつき、もう一度勉強を頑張ってみようと思いました。」
 高橋「それで難関公立高校を見事合格しましたね。頑張ればできることを私たちは君から学びました。高校、大学の学生生活は、いかがですか。」
 患者「学生生活を楽しんでいます。視野が狭いので、たまに危ないなと感じることもあります。高校受験、大学受験を通して自分がさらに成長していると思います。今は夜も怖がらず、原宿などに遊びに行くこともあります。」
 高橋「楽しいですか。」
 患者「楽しいです。まぶしさもカラーコンタクトで軽減でき、念願だったサッカー部にも入り、はじめて部活動に携わることができました。」
 高橋「将来の夢はなんですか。」
 患者「大学では、福祉の勉強をしています。自分の障害を生かして、世界中のいろいろな人、障害の有無に関わらず、そういう人を勇気づけたいと思っています。こうやって自由に夢を楽しく語れるのも、ロービジョンスタッフが自分をしっかり応援してくれるからです。」
{ビデオ終了}
 次の方は、皆さんご存知の方で、職場復帰を果たした事例です。この方の事業所は、平成16年度の「障害者雇用職場改善好事例」の優秀賞を受賞しました。
{ビデオ開始}
 高橋「神経内科医から、視覚障害のリハビリテーションについて話がありましたが、そのとき、どう感じられましたか。」
 患者「神経内科の先生が、インターネットでロービジョンケアの事を知り、柳川リハビリテーション病院眼科を教えていただきました。私がかかっている眼科でロービジョンケアが行われていないのが不思議で、理解できませんでした。」
 高橋「そうですね。一番頼りになるのはやはり眼科の先生です。その先生が自分のことを一番知っており、理解していただけたら、すごい安心感がありますね。その辺はどう思っていますか。」
 患者「はい、主治医の先生にもっと詳しく話していただければ、結果が同じでもこんなに悩むことはなかったと思います。」
 高橋「私たちのやっているロービジョンケアをどう思われましたか。」
 患者「びっくりしました。こんな世界があることを初めて知りました。しかし、まだ治るという願望が頭の中にこびりつき、ロービジョンケアに打ち込めなかったのも事実です。時間が経つばかりで悩みましたが、決心して職業リハビリテーションを始めました。」
 高橋「昨年、職場復帰されましたね。いろいろご苦労されたと思いますが、お話していただけますか。」
 患者「上司から視覚障害者は何もできないと言われました。そこで、柳川リハビリテーション病院や日本ライトハウスで、拡大読書器やパソコンを使って、実際にやれることを見てもらいました。」
 高橋「復職に際して、一番大切なのはなんでしょうか。」
 患者「必ず職場に戻ろうとする意志ですね。また、復職のための努力を惜しまないことです。そしてタートルの会に出会ったことが、職場復帰につながったと思います。」
 高橋「今、がんばっていますか。」
 患者「はい、一生懸命がんばっています。」
{ビデオ終了}
 今ご紹介したようなロービジョンケアを柳川リハビリテーション病院眼科で5年間、525名の方々に行いました。眼疾患としては、やはり網膜色素変性症が最も多いようです。年齢的には18歳以下が20%で、65歳以上が26%、残りの54%が18歳から64歳の方々で、他の報告に比べて子どもが多いのが特徴です。また、眼と耳の両方が悪い盲ろう者も30歳から40歳代の働き盛りの方が多いのも特徴です。
 まず、我々が心がけていることは、患者さんの訴えを十分に時間をかけて聴くことです。そして、治るか治らないかの情報を出し、遺伝的なものであるかもお教えします。それと同時に、どのようにすれば日常生活が実際可能であるかを示します。初診時に、ルーペ、拡大読書器や遮光眼鏡を見せ、歩行の介助法などもお教えしています。そして、将来に希望があることを話し、眼が見えなくても生きていけるというメッセージを必ず出します。
 各年齢層のロービジョンケアのポイントを次に述べます。
 小児のロービジョンケアはリハビリテーションではなく、概念形成を行うハビリテーションが主になります。視覚障害をもつ子どもさんは視覚的模倣ができないので、お母さんの口の開きを真似ることができず、言葉が遅れます。お父さんの立っている姿勢や歩く姿が見えないので、運動の発達も遅れます。このように、視覚障害児が運動面や精神面での発達が遅れるのはある程度はやむを得ません。その遅れをどのようにして取り戻すかが問われます。最近は、眼のことばかりでなく、触覚や聴覚もどんどん利用して、概念形成をさせていくようにしています。この意味からも、教育と医療の連携はとても重要で、眼科学校医と養護教諭が鍵となります。
 また、成人のロービジョンケアでは、仕事ができない、家事ができない、経済的に成り立たないなどの訴えが多く、私たちは社会的リソースを伝えます。手帳や年金についても、私は初診時から相談にのっています。
 一方、高齢者の場合、大切なのは意欲・ヤル気です。全身合併が多く、訓練を諦めてしまう人が多いので、意欲を出してもらうためには、拡大読書器などで見えることをまず体験してもらいます。そして、次もやってみたいという意欲をかき立てます。さらに、趣味や生き甲斐があればしめたものです。孫の世話がしたい、子や孫の写真がみたい、俳句の本が読みたいなどがあれば、それを上手に使います。89歳のこのおじいさんはオートフォーカスでなくマニュアルの拡大読書器を選びました。なぜかというと、一眼レフのカメラの趣味があったからです。自分が見たい物に対しては、カメラでキチッとピントを合わせるだけの力があり、拡大読書器もすぐに上手になりました。当科の待合室には、彼が阿蘇の風景を撮った写真を貼ってあり、こういう配慮も彼の意欲を高めていきます。
 次に、職場復帰に向け現在進行形の方の話をします。ご本人も了解済みです。30歳代の男性の方で、昨年5月、建設中のマンションで突然鉄パイプが落下し、両眼が破裂して失明しました。2か月経た7月に我々の病院に来た時は、とにかく自分はまだ治るんだと思っていて、障害の受容が全くできていませんでした。視覚障害者はどんな生活をしているのか、どう生きていけばいいかも全く分かりませんでした。頭の上から鉄パイプが落ちてきたのですから、目の前に何かが来るのは恐ろしく、瞼に触れることも嫌がりました。口を開けることもできず、ご飯を食べることもできず、流動食でした。私たちは、視覚障害者として病院生活ができることを最初の目標としました。そのためにはまず、身体と心を癒していくことです。ご飯を口から食べられるようにすることから始め、筋力の回復を図りました。看護師や訓練士は常に声をかけ、行動を説明しました。必要な情報として、タートルの会のことを本人と妻に話し、『中途失明II―陽はまた昇る』を紹介しました。音声パソコンで読み、8月になると、「この病院に何しにきたか分からない。」と言っていた彼が、「視覚障害のリハビリのためにこの病院にいる。」と言い出しました。そして、音読ボランティアを導入し、肉声で『中途失明―それでも朝はくる』を聴くようになりました。
 9月に、工藤夫妻がたまたまいらしたので、視覚障害者やその家族はどのように生き、仕事しているかを話していただきました。このようにして、将来をイメージできるようになっていきました。10月になると、ようやく瞼を触れることもでき、角膜の上のまつ毛も取れました。一方、会社の方も積極的で、「どうすればこの人が職場に復帰できるか、自分たちでも考えてみたい。」と言ってきましたので、会社に今後の見通しを説明し、視覚障害者の就業状況、補助具の活用等復職の実現のためには多くの支援が必要であることを話しました。そして、本人から復職への強い意志を会社に伝え、地域の障害者職業センターにも連絡を入れました。その後、白杖を持つようになり、点字も導入し、自分でパソコンも打ち始めました。このようにできないことを一つ一つできるようにしていくことで、自信を回復し、笑顔も戻ってきました。
 以上述べたように、私たちは、障害者は何が出来るかではなく、何をしたいのかをまず探します。そのためには、どのような具体的な支援が必要かを考えます。補助具や制度、社会的リソースをどのように活用するかを考えていきます。その時、家族のケアも忘れてはいけません。彼は妻の表情が見えないので、知らず知らず強い言葉を吐くこともあったようで、妻は怖いと言い、彼もどう家族と接したらよいか戸惑っていました。そこで私はこの状況をありのまま本人と妻に伝えました。このように、本人だけでなく、家族を含めたリハビリテーションが必要です。
 最近の彼にとってもう一つ素晴らしいことがありました。義眼が入ったことです。義眼が入ることによって、表情が非常に豊かになりました。3月の退院時の彼と最初の時の彼とでは笑顔がずいぶん変わってきています。そして5月の彼は、視力障害センターに入所して、ずいぶん自信に満ちた顔になっています。
 そろそろまとめに入りますが、私たちがやっているのは、WHOの国際生活機能分類で定義された「活動」の部分です。「能力障害」を「活動」と捉えた時、「できる活動」と「している活動」があります。「できる活動」を増やしていくのが訓練士です。そして、実際に生活の場面で「している活動」を評価するのが看護師や介護士、学校の先生、あるいは福祉職の人たちです。そして、両者間の連携は非常に重要です。例えば、学校でルーペや単眼鏡を使っていない時、使うことができるのに使っていないのか、使うことができないから使っていないのか、その二通りあります。そこを厳密に見極めて、できないならば、できるように訓練をすべきです。できるのにしていないなら、する気持ちにすべきです。障害者自らの意思でするように、我々はどのように支援すべきかを考えるべきです。そのためには、目標を明確に設定しなくてはいけません。学校に行きたいか、将来何になりたいか、どういう仕事をしたいかという目標を設定できることが肝要です。
 では、眼科医療はどんな役割を果たすべきでしょうか。まず、眼科医はロービジョンケアの導入を行うべきです。心のケアをしながら、ロービジョンケアの存在を知らせることが大切です。そのためにルーペで見せることもします。介助歩行を指導します。また、視能訓練士は、心のケアをしながら診断の補助をし、どんなことができるかを評価します。できなければ、それをできるようにすることもあります。一方、看護師は診療の介助が主な仕事と考えられていますが、実行状況(している活動)の把握と指導や情報の提供も行うべきです。これらは無論看護業務の一部ですが、ロービジョンケアでもあります。
 生活の支援に立った援助を行うために、私は診療室で患者さんを目の前にして電話をかけます。この人が今困っていることは年金の問題だと分かれば、その場で年金の専門家に繋ぎます。仕事の継続で苦労しているならば、タートルの会に繋ぎます。目の前で電話をかけ、連携する方法は、結果的に個人情報保護と開示の問題をクリアできます。連携先である当事者を含む支援団体としてのタートルの会は、働く者にとって、これから働こうと思っている若者にとっても、また彼らを支える家族にとっても大きな味方です。そして我々、医療者にとっても大きな味方です。
 最後になりましたが、私自身も「見せるロービジョンケア」から出発しましたが、私たちは「生活を支援するロービジョンケア」を行うべきであることをもう一度強く訴えます。そして、私は、「視覚障害者が持つ能力を、視覚障害者の皆さんが信じて行うことで、素晴らしい人生を営むことができる」というメッセージをこれからも送り続けたいと思います。視覚障害者が、自ら選択した目標が達せられた時の喜びの笑顔を、私は決して忘れません。私たちはそれを糧として仕事をしています。
 ご清聴ありがとうございました。

【質疑応答】
Q ロービジョンケアを行う主体は誰ですか。
A 眼科医です。眼科の中にはロービジョンクリニックを名乗っているところはたくさんありますが、実際にやっているのはほとんどが視能訓練士で、眼科医はほとんど出てきません。私のところでは、眼科医のところから始まって眼科医のところで終わるシステムになっています。眼科医でなければできないことがたくさんあります。
Q 診療報酬に入る可能性はないのですか。
A まずそのためには、今行われているロービジョンケアが国民全体にとって、均等で正しい保険医療でなければなりません。一部でいくらいいことをやっても、それは一部に過ぎません。厚生労働省は、キチッと患者さんのためになるまで成長しないと入れてやらないよと言っているのだと理解しています。ロービジョンケアの質の問題については、皆さんが声を出していかないと変わらないと思います。
Q 職場定着は我々にとって大きな課題です。それにはいろいろあると思いますが、やはり当事者自らやっていかなければいけないことが多く、苦労している人も多いと思います。そういう中で、雇用側のキーパーソンの存在が大きいと思いますが、雇用側とのやりとりの中で何か心がけているテクニックのようなものがありましたら教えてください。
A 先ほどの例で言いますと、本人からは働きたいという意思表示があり、会社の上司も何とかしてあげたいと相談に来ました。しかし、視覚障害者の仕事についてイメージがわかないし、何ができるのか、さっぱり分からないと言います。会社の人たちには、「そうですね。」と先ず相槌を打っています。逆に、本人を目の前に置いて、何ができるか、何をしたいかということは、先ず自分が思わなければならないことだと話します。仕事に復帰していくならば、それなりの努力は当然で、仕事を創出していくぐらいの気持ちが必要だと話しています。
 おそらく、会社としては初めての視覚障害者の雇用となるわけですから、キーパーソンの人たちに、何とかしたいと思う気持ちがあれば、あとは本人の問題です。彼の場合は30歳ですが、それから60歳までの30年間、仕事を与え続けていくということは、会社にとって非常に重荷になります。だからこそ、自分自身で仕事を創っていくことを、彼自身に今の時点で話しています。そのためにはものすごく苦しい思いもしなくてはいけません。その点を、会社の人とともに本人に理解してもらっています。それができないなら、視覚障害者として別の道があります。
 今日たまたま朝日新聞の広告欄に、障害者の雇用が出ていました。移動には公共のものを使い、自分で歩けて当然、パソコンは使えて当たり前、英語の能力がある人、コミュニケーションが取れる条件でないと雇いませんよと、そう書いていました。そこら辺のところがしっかりしないと、まして原職復帰を考えるなら、それだけのことはキチッとできないといけないと思います。
 少し話が外れていますが、基本的にはキーパーソンの人たちも私がコーディネートしているわけですが、その人たちを上手に使っていくことです。彼らも良きキーパーソンになりたいが、どうすれば会社でそういうことができるのかがわからないのが現状だと思います。自分たちだけで抱え込まないようにと、地域障害者職業センターなど有効な社会資源の情報提供もするようにしています。
Q 視覚障害のことが分かる産業医はどれぐらいいますか。頼りになりますか。
A 産業医は基本的に視覚障害者のことについてほとんど勉強していません。彼らのほとんどは、内科検診的なことをやっている人たちです。産業医大の助教授をやっていましたのでよく分かりますが、眼科的なことは教えていません。産業医の中で視覚障害はメジャーではないので、なかなか難しいです。結局、産業医を上手に使わないといけないことは百も承知ですが、システムとしてなかなか難しいことです。
 全体の産業医をどうしていくかということは大変なので、目の前にいる患者さんや障害者を担当している産業医をいかに動かしていくかを考えた方が現実的です。
Q 産業医と、いわゆる高橋先生みたいな眼科医と意見が対立した場合、どういうふうに産業医を説得すればいいでしょうか。
A 日本は今、経済が良くないですから、専任の産業医を持っているところは少なくなって、兼任の産業医になっています。専任の産業医も、どうしても会社側に立ってしまいます。その点から考えて、非常に厳しいし、なかなか難しいです。
Q 当事者の立場から、先生のおっしゃった連携をどう一緒にやったらいいか考えました。多くの当事者一人一人が、それぞれの見え方に合わせて工夫し、あるいは悩みながら、さまざまな仕事をしています。こういう一人一人の体験は、非常に役に立ちます。そういう意味では、自分たちの体験を前に出して、一生懸命やってくれる先生たちと繋がることは意義があります。先生の連携の中に、私たちも積極的に協力できる気がしました。
A そうですか。どうもありがとうございます。
(文責;工藤正一)


【設立10周年記念拡大交流会】(つづき)
「分科会報告(3) 家族について」

 本分科会の参加者は15人でそのうち障害者の家族は5人でした。意外に多かったのが当事者の参加で、家族がどう考えているのかよくわからないので、みなさんのお話をきいて参考にしたいという思いがあったようです。
 視覚障害の場合は障害の程度が家族にもわかりにくい状況にあります。トーマス・J・キャロルは『失明』のなかで、「20の喪失」を挙げ、失明者の家族も苦しんでおり、多くのものを失ったという事実に着目しなければならないとし、家族に対する援助の必要性を述べています。職場環境と同じように、家族環境も大切なのです。
 昨年、何人かの家族にアンケートでうかがったところ、家族は障害者本人と同じように、看護師に対しても、医師に対してもたくさんの思いを持っていることがわかりました。
 家族の思いについては、中途失明IIの中で3人の家族が書いていますが、家族の思いを話せる場が与えられましたことに感謝し、「私たちもこうやって輝きたいね。」というところが出ればよいと思っています。
<A さんの妻>
 夫は緑内障で、だんだん見えなくなってきていることを誰にも言えず、私も気付きませんでした。車を運転していたのですが、かどをよくぶつけるようになりました。
 右目は物の枠が見える程度でしたが、左目が見えていましたので、何とかやっていけるだろうと本人も思っていたのです。3年ぐらい前から、「見える方の目がおかしい。ピカピカする。破裂を起こしている。」と言い出しました。
 私には言っていることが分からず、年中グチュグチュ言っている感じがしました。自分の仕事の忙しさもあり、よく聞いてあげられませんでした。本当に、朝から晩まで口を開けばグチしか言わない。「ちゃんと医者に行っているの?」と聞いても、「医者はまともに聞いてくれない。」「変わらないとしか言わない。」「眼圧も同じだから問題ない。」と言うことでした。でも、自覚症状としては、どんどん悪くなっているという感覚だけが募っていたのです。
 そのうち、精神的におかしくなっていると感じました。私もインターネットでありとあらゆるところを調べました。本人は全然のってこなくて、私にはただグダグダ言っているだけのように思えました。とにかく、家族としては、本人の言っていることがよく分からないのです。
 最後は、「そんなに死にたければ、死ねば!」と言ったことも実はあるのです。そう言いながら「ちゃんとまともに帰ってくるかしら?」と、当直もやっていましたので、娘に夜中に見てもらいに行ってもらうこともありました。
 カウンセリングや、ここぞと思うところに連れて行ったりしたのです。病院も3カ所行き、緑内障の名医だと言われるところに連れて行っても、言われることは同じでした。あるケースワーカーから「タートルの会というのを知っていますか?そこに行ったら、別の道が開けるのでは。」と言われて、連絡させていただいたのです。
 タートルの会に巡り合ってからは、めきめきと変わりました。自分と同じ境遇の方が頑張っていることが励みになったようです。その頃は、ちょうど職場の環境も悪くて、そのストレスもあったようです。見た目は元気にみえますが、職場ではやはりすまないという気持ちが強いようです。なんとかやりたいという気持ちがありながらも坂道を転がるように悪くなっています。 マラソンが大好きで、走ること以外、何の趣味もない人です。一時止めていましたが、今年になって、自分で伴走する方を見つけて、マラソンを始めました。外に出る気持ちになってきたので、家族としてはありがたいと思っています。しかし、今でも「あの頃はこう見えていた。」と前に戻ってしまうのです。「前に戻っても仕方がない。もう見えないのだからこれからのことだけ見ていこう。」と言っても、やはり、見えていた頃の自分を思い、そこに戻ってしまう。それを何とか支えてあげるしかないのかなという感じで過ごしています。
 そんな状況で、家族としては、見えていない状況が分からない。多分、一番本人が辛く歯がゆいのだろうと思っていますが、家族は、「グチグチ言わないで、もう、前を向いて生きるしかないのよ!」という感じです。頑張っている人に言ってはいけないことを、私は一番やってきたのではないかと思っています。
<B さん本人>
 分析をずっとやっていました。分析というのは、データが色の差とか、細かいデータで出てくるのです。ある時から見えにくくなっているということが言えませんでした。水の検査をするために車を運転して行っていたのですが、危なくなったというのも言えませんでした。最後に手術をする頃には、もう運転は出来ないと診断書を出しました。その頃、追突事故を起こし、落ち込んで「これでは人を殺します。」と言って辞めさせてもらいました。
 今は、片隅の仕事をしているみたいです。本来の自分の仕事を出来ない辛さがあります。
<Cさん本人>
 私は色変で徐々に見えなくなっていきました。当時、子供がまだ小さくて3人目が妻のお腹にいる頃、目が見えないということを言っていいのかどうか悩みました。話した時の妻の気落ち、落胆が目に見えるように分かったのです。
 それが、10年ぐらいたってからでしょうか、妻が難病だということが分かりました。その落胆した気持ちが、本当に目に映るようでした。その難病が、目が見えなくなる病気で、「さあどうなる?2人とも見えなくなったら、子供を抱えてどうすればよいのだろうか。」というのが、一番ショックでした。
 おかげ様で、まだ失明はしていませんが、「見えない、見えない。」と大騒ぎしているのです。お互いをかばい合うという環境がなかなかその時点でできませんでした。今は妻の方も、目が見えないことが如何に難儀なことなのかを徐々に分かっているような雰囲気で、それなりの対応をしてくれます。
 最初から目が見えない者同士で結婚したケースよりも、中途で見えなくなった時のショックは、計り知れないものがある気がしています。
 もう一つ、眼科に行ったときに、看護婦さんが後ろから押すのです。あれがとても怖いのです。目の見えない者を後ろから押すことは止めてほしいと思います。「手を貸して、あるいは肩を貸して下さい。」と言っているのですが、なかなかわかってもらえないのが現状です。
<D さんの妻>
 私は主人のガイドをしているときに、「ここにあるよ。」とつい手を取ってしまいます。「それは止めてくれ。」と言われます。こちらも慣れていないこともあるのですが、ついやってしまっていたのです。今のお話で、とても理解出来ました。たとえ、指1本でも私が誘導するととても嫌がるのです。指を持たれるとか、本人の体を私が動かすことをすごく嫌がるのです。Cさんが話されていた「後ろから押すのは止めてほしい」ということが、理解できました。
<Eさん本人>
 私は夫婦ともに障害者で、きょう一緒に来ようと思ったのですが、恥ずかしいというのです。飲み会ならばついてくるのでしょうが、「家族で顔を出すのはちょっと恥ずかしい。」と言って来ておりません。
 結婚した当時、主人も私も、そんなに不自由を感じていませんでした。その頃は2人とも一通り何でも出来ていたのです。
 娘が中学くらいでしょうか、私が急に見えなくなって来たのです。
 娘が結婚した今、2人で暮らしていて困ることは買い物です。食品はいきつけのスーパーがありますからそんなに困らないのですが、洋服の買い物が一番困ります。私はまだいいのです。大体決まったところに行くので、そこの方が理解してくれて、私に似合いそうな物を選んでくれるのです。
 夫の場合、男性のスーツの生地には、細い線が入り、紺・黒だとか、そういう色の判断がよく分からない。今、一番困っているのは、そのことかもしれません。
 娘も、結婚してしまったら最後、親のことにはなかなかかまってはくれません。言えば来てはくれると思いますが、やはり、こちらも子育てをしていて大変だろうと思って、ついつい遠慮してなかなか言えないのです。
 これまで一番私が悩んだのは(悩んでいても時間が過ぎてしまうと、今はあんなに悩んでいたことを何でもなかったと思っていますが)、娘が結婚する頃、相手のご両親と会うときや結婚式のときに、相手方の親戚の皆さんにご挨拶しなければならないときです。
 多分、向こうのご両親も、「何か目が少し悪いのかな?」くらいには思っていると思うのです。相手の親戚と会うとき杖は持っていませんでしたが、顔が見えませんので、ご挨拶を適当にしていることが多かったのです。そのことが、今私が一番気にしていることです。
<Fさん本人>
 30歳近くなってから、目が悪くなってきて、最初は、親兄弟には言うことが辛かったです。
 ですから、親兄弟に、「見えなくなるかも知れない。」と話したのは、実家に帰るのが1年に1度か、あるいは下手をすると2年に1度くらいという非常に少ない回数だったものですから、病名を告げられてからちょうど6年くらい経ってからです。毎日見ていれば、徐々に悪くなっているのが分からないかも知れませんが、1年に1度ぐらい会うと「1年前よりおかしいよ。」といわれました。やはり、勘で分かるようです。ですから、話さないといけないのかな?という思いで話したのが5〜6年経ってからでした。でも話したとき、親も「えーっ」という感じでした。もう見えないことに対して何にも言えないし、親がどう考えているのかこっちも聞きもしないし、聞いてもしょうがないと思っています。
 ひとつ言っておきたいのは、例えば、何かの位置を確認させるとき、親切心で「はい、お茶ここだよ。」と手をとって教えてくれる人もいます。他人だから「ありがとう。」って言いますが、それはストレスに近いです。それを家族にやられたら大変だろうなという気持ちはわかります。
<Gさんの妻>
 要は方向とかを、自分の頭の中で描きたいようです。ただ自分の肘をつかって、その位置に手を動かしたときに引っ張られて、そこに持っていかれたときには、全然感じが違うそうです。だから、すごく急いでいるとき「はい、こっちよ。」と、手を引かれてしまうと、自分の頭の中の方向や位置が測れないそうです。
 他人にやってもらうんだから「ありがとう。」とか言うけれども、かなりストレスになるのかなと話をきいて思いました。
<Hさん本人>
 私も夫と歩いていて、大喧嘩をしたことがあります。私は自分の視力、視野の範囲で歩いているのに夫がもっと先のものを言うんです。それで、私がそばにあった看板、自転車がわからなくて頭がパニックになり、ぶつかると「ほらみなさい。」と言われる。夫は自転車が横にあるとき、無意識に整理しながら歩いている。
 あるとき、夫に「私の視力で歩いて行くから、一切口出ししないで。」と、はっきり宣言しました。しかし夫の背広をちょっと掴んで、ちゃんと歩いていたにもかかわらず、ぶつかって怪我をしてしまいました。
 「教えてくれているんだから、親切にやってくれているんだから、素直に感謝しなくてはいけない。」といつも自分に言い聞かせています。
<Iさん本人>
 行きつけの食堂のおばさんは、必ずトレーにお茶を持ってくる。必ず左の上に置いてくれる。決まっている。ご飯とか、お味噌汁を置く所も、そのおばさんは絶対変えない。だけど他の人の分を持っていくときはバラバラですから、そのおばさんはよくわかっているのかなと思う。
 僕も、家ではそうでした。聞く必要もない。ポンポンと置いてくれれば、それでいい。その方が相手も楽です。「ここに置いたわよ。」と、その一言でいいという気がします。
<Jさんの妻>
 夫も眼鏡などをいつもテーブルの右端に置いています。それを私がテーブルを拭くのに邪魔だったので、5センチずらすと、ない、ない、と騒がれる。動かしたら元へ戻してほしいといわれています。
<Kさん本人>
 僕は、妻に自分の目の症状を言ったことは一回もありません。だからなのか、コップも好きな所に置いてしまう。これには困ります。
 職場の同僚には、自分のそのときの視力と視野や簡単な病気の説明をA4ぐらいの紙に書いて全員に配りました。だけど誰も理解してくれません。僕自身はまだ視力があるので、「これしてくれ、あれしてくれ。」と頼んだことはありません。
 目の障害を持っている人と、その配偶者も一緒に忘年会をやりました。僕の妻が、他の方の奥さんを誘って、皆で飲もうかということではじめ二回目になります。こういう機会を持つことがよいと思います。
<Lさんの妻>
 初めて参加しました。今日は夫の付き添いで来ましたが、夫は、職場環境の分科会に出ております。この会のことを知ったのはつい最近で、明日、講演する高橋先生に「いろんな方がいらっしゃるので、一度、行ってお話を聞いてみたらいいですよ。」と言われ、夫婦で参加させていただきました。
 夫は43歳で、色変ですが、結婚した24歳の時に病気がわかりました。その頃はまだ見えていて、車も運転していました。ここ何年か急に悪くなり、いま1級です。一緒にいて、そんなに悪いのかなとよくわからないぐらい、いろんなところへ行っています。
 私の方が遠距離通勤なものですから、帰りが遅いと食事の支度もやってくれます。買い物を間違えずにやってくれるし、本当に見えていないのかなと思うほどです。
 そうかと思うと、そんなものが見えないのかなって思うくらい近くにあるものが見えなかったりします。わたしもそばにいながら、どんなふうに見えているのか分かりません。
 だんだん見えなくなってきているのは分かるのですが、夫はあまり言わない方で、実際どの程度の見え方なのかが分からない。こっちもいろいろ聞きたいが、聞いたら悪いかなと思いながらこれまでやってきました。まだ、夫の状況を全然理解できていないのではないかと思っています。
 去年の秋に「もう、仕事を続けていくのは困難だ。退職したい。」と言ってきました。家に帰ってからもきつそうにしているし「もう、そんなに辛いんだったら辞めていいよ。」と言いました。
 職場の方からは「そう言わずに頑張ってみたらどうか、できる仕事もあるかも知れないし。」と言われましたが、全然見えなくなって続けていけないので、辞める決心をしたんです。今から訓練というか、技術を身に付けて「もう少し頑張ってみようかな。」と、今そんな気持ちになったところです。
 ただ、私自身も忙しくて、夜も帰りが遅く、夫のことを構ってあげられない状況です。夫もすごくストレスがたまっているみたいです。最近は、イライラしているなっていうのが分かり、自分が仕事を辞めて、夫が仕事で疲れて家に帰ったらゆっくりできるような環境を作ってあげた方がよいのかなと考えはじめました。
 今、看護師のお仕事をされている方のお話を聞いて、やっぱりご主人の目が不自由でも、共働きで頑張っていらっしゃるので、考えが少し変わった感じがあるんです。
 まだ自分の知らない世界、こういうところに来て、お話を聞くことによって少しでも理解ができたらと思って参加しました。いろいろ今まで聞いた話しだけでも感じるところがいっぱいありまして、今日は来てよかったと思っております。
<Mさん本人>
最初は優しかった。何処に行くにも一緒で、タートルの会の忘年会や総会に参加してカルチャーショックにかかる前は不自由なのでついてきました。この頃は「1人で行けるでしょう。」と言われます。「きょうはいっしょに行こうよ。」と言うと、「私は他にやりたいことがあります。いよいよのときは杖を使えばいいでしょ。」と言われてしまいます。
<Nさん本人>
 私は中学生の頃に糖尿病が発症して、糖尿病性網膜症で16年ほど前に手術しました。しかし、眼底出血を起こして、視力もだいぶ落ちてきたのですが、なかなか職場の人に言えませんでした。眼科の先生は「見えている間は寝ていても出血するから、仕事に行ってもいいですよ。」と言われて、いろいろメガネを使いながら、患者さんからは笑われながら仕事を続けていました。 いよいよドクターストップがかかって入院し、手術をしたのです。公に仕事が休めると思って、見えるか見えないかというよりも、本当に気持ちが楽になりました。5ヵ月ほど入院して、両目とも手術をしました。しかし、思うように視力が回復しませんでした。
 看護師の仕事でなくてもよいから病院で働き続けられるように話し合いを続けていたのですが、やっぱり「看護師として雇ったので、看護師ができなかったら辞めて下さい。」ということで、退職になりました。 そのとき、いちばん支えてもらったのは家族ではなかったのです。食べていかなくてはいけないので、仕事をどうしようかとケースワーカーさんと京都のライトハウスに見学に行って、タートルの会までつながってきたのです。他人と同じことができなくなったと思っていたのですが、“見えなくて当たり前の世界”があり、「私はここにいてもいいんだ。」という安心感と、「見えない自分でいいのだ。」と感じました。
 目が悪くなっても、実家には帰らずに1人で暮らしていました。親兄弟は目の手術をしたことは知っていますし、眼科の先生からも説明を受けています。元々の病気のこと、目のことも仕事が大変だったことも、親兄弟には、相談したことがありません。そういうことが話せる人間関係ではなかったことがもともとあったのかもしれません。だから私をずっと支えて下さったのは、こういう会の方だったのです。
<Oさん本人>
 中途失明になってから17年、40歳でベーチェット病を発症しました。入退院を繰り返し、妻は「私が看病するから辞める。」と退職しました。今から思うと60歳まで勤めることができたら、その方が経済的にも助かったのかな?と思っています。当時はもう頭の中がパニックで「私は何でこういうふうになったんだろう。」と遺伝的なものを疑って親を恨みました。めちゃくちゃに底の浅さを感じて、自分の難病のパニックと職場でのいじめなどがありました。
 そういうことを感じつつ、自分をどうしていけばよいのかということに気づかされたのはこの会に出会い、「みんな集まってどういうふうに頑張っていけるか、会を作りました。」と言うことを聞き参加したのが始まりでした。きょう来るときに“宇宙ってどういうふうにできたのか”という本を買ってきました。そういうことや自分がどんな位置にいるのかということを含めて考えていくと、幾つまで生きるかわかりませんが、「この先どういうふうに生きていったらいいのか、笑って気持ちよく死ねるのか。」と模索中です。
 ガンバレ、ガンバレって皆さん言うけれども、ガンバレって何かなと思うんですよね。“団塊の世代”で生まれたときから頑張り通しできて、あげくの果てにこんな病気になりました。「神様は頑張ったのにいいことをやってくれないじゃないか。」と思っています。
<Pさん本人>
 40歳後半の色変で、ほとんど見えません。私は妻と二人です。妻を見ているとストレスがそれなりにあるんじゃないかと思っていて、障害者の妻の心理がどういうものか、どうしてあげればいいのか参考になればいいかなとこの分科会に参加しました。
 障害者手帳やいろいろな書類がいろいろありますよね。私は書けないので週末ごとに書いてもらうのが大変です。ただ我々もいろんな所で同じ障害者の人に会ったりすると、それなりにストレスが和らぎます。「タートル障害者の妻の会」というメーリングリストがあるといいんじゃないかなと思っています。
<Qさん本人>
 私の家族の問題は年老いた両親です。自分自身が受容できていないのに、年老いた両親はなお受容できていないだろうと思い、家族の問題は、私にとって非常に重くなっています。
 私は独身で両親以外の家族はいません。それから、まず家族の方がどう見ているのか、なぜ気にするのかと言うことが私は解せないところがあります。見え方を聞いてどうするのか、「何をやりたいのか、何ができないのか。」を聞くべきなのではないのか、「何に不自由している。」のかを聞くべきだと思うのです。
 それから先程のお茶の問題です。私は始終他人の中で暮らしていますので、腕を引っ張られたときその瞬間は嫌ですが、そんなに苦痛ではありません。「ここに置いたよ。」「ここだよ。」と言われて、「じゃあすみません、手渡してください。」と言う努力をすればすむことだと思うんです。自分の手に受け取って自分のわかる位置におく、それが他人との関係だと思っています。家族も家族の時間があるべきだし、障害者だけにかかわっていくわけにはいきません。まだ男性中心社会の日本の潜在的な問題かなという気がしています。
<Rさん本人>
 私は色変です。今「病気になってよかったのかな。」という気持ちにまでなってきているところです。
 ある意味では第2の生き方を私にちゃんとくれたんだなという感じでやっています。
 私は見えなくなってきたとき、私ほど可哀想な人間はいない、これができない、あれができない、できないものばかりで「死にたい」と、雨戸を閉めて泣いていました。子供がまだ高校と大学に行っていました。
 あるとき2人の娘が、2人でアパートを借りたいと言ったんです。私が毎日「死にたい、死にたい。」と言い、門扉の電気もついていなくて、外から帰ってくると台所の電気が真っ先に見え、それがついていないとドアを開けるのがすごく怖いというんです。「お母さん死んでいるんじゃないか。」と。子供にそう言われたとき「私だけがこの家で大変ということではなかった。」「この小さな子供達にまで、それだけ負担を掛けていたのか。」と思い「一生懸命生きなきゃいけない、子供も一生懸命生きている。」と教えられました。
 その頃から多くの目の病気を持っている人達と出会いました。これは本当に心のケアでした。ときにはなめていただいたり、ときにはお塩をぬってもらったりしながら、いろんな形で生きられる道をいっぱいいただいて、今日の私になれたと思います。そんなことを教えられて、今は「あなたと一緒に生きるためには、家族の人もずいぶん努力している。」と言うことができると思います。
<Sさんの妻>
 うちの場合は、怒られるかもしれないけど、かなり自立している障害者です。何が必要かということを自分で分析してあちこちに行って、いろんな方の力を借りて自分もその中の一員になって、「自分は、これは出来る。」と選別しながら行動している。だから自主的に生きている障害者だと思うのです。
<まとめ>
 「だんだん見えなくなっているのに誰も気づかない」、「本人がどうしても愚痴っぽくなってしまう」、「どんどん落ち込んでいくのは分かるが、どうしてよいか分からない」とか「死んでしまえば」とか言ってしまうというようなやり取りがある家族もあれば、一切言わない家族もあることがわかりました。
 それから、「一緒にいても見えているようなフリをする」、「どんなふうに見えているのか分からない」、「夫は何も言わない、家族にも話さない」、「聞いては悪いかなあ」と、これも分かるような気がします。
 できれば障害者の妻のメーリングリストを作っていただきたいとの声もありました。
 家族の支えだけでなく、人間関係が大切だということも出ました。その人間関係を築くにはどうすればよいのか。家族もその人なりに輝いていくために、一緒に支えあい、共に輝いていけばよいのかなという思いに達したところです。
(文責:工藤良子)


【会費の納入について(お願い)】

会長  下堂薗 保

 タートルの会は平成7年に発足し、これまで中途視覚障害者などに対して、初期相談、交流会の実施、会報「タートル」の発行、「中途失明」の出版などさまざまな活動を行ってきました。これからもその活動をさらに充実していきたいと考えています。
 これらの活動に要する経費は、毎年度会員の方々からいただく会費(年会費5,000円)を原資にしております。
 会報や交流会の案内などは会員名簿に登録された毎回約400人に対してお送りしていますが、会費の納入は約150人にとどまっており、そのため会の活動は制約を受けつつあります。
 会費が未納となっている方は、同封の郵便振替用紙により早急に納入してください。
 もし、既に納入いただいている場合やなんらかの事情により納入が困難な場合は事務局までご連絡ください(電話03-3351-3208)。
 なお、納入いただけない場合は、会員としてのサービスが受けられなくなります。


【編集後記】

 本号は前号(39号)が大部になりすぎるため、分割せざるをえず、高橋広先生の設立10周年記念講演と拡大交流会の家族についての分科会を別途掲載する号としました。
 企業の障害者雇用の取り組みは、コンプライアンス(法の遵守=雇用率達成)からCSR(社会的責任)へと経営方針や経営戦略の一環に組み入れて考えるようになってきているようです。社会や株主に対する企業イメージの保持と捉えたらよいのでしょうか。環境保全と同等の位置付けに障害者雇用を考える方向性は私どもにとっては歓迎すべきことといえます。
 中途視覚障害者の継続雇用は、高橋先生が講演の中でもおっしゃっているように、諸機関の連携が最重要課題といえます。しかし、その連携が円滑に進められるためには、雇用側の理解、経営トップ層が「視覚障害を訓練等で克服し仕事への復帰は可能」とする捉え方、姿勢が前提になります。
 本年7月23日に、日本盲人職能開発センターでは、「視覚障害者の就労を支える」というテーマで、「2005全国ロービジョン(低視力)セミナー」を開催しています。日本経済団体連合会(経団連)労働政策本部雇用・労務管理グループ長の輪島忍氏が基調講演されました。「『企業側から見た障害者雇用』 経団連担当者がセミナーで講演」と点字毎日が2005年8月11日号(墨字版)に記事を掲載しています。
 セミナー参加者は障害者雇用支援に関わる労働関係者、医療関係者、リハビリ関係者、弱視学級等教育関係者、弱視児等の父母、そして視覚障害当事者など300名を超す人たちが最後まで熱心に聞き入っていました。なかでも輪島氏の講演は、今後の障害者雇用に明るい展望がうかがえる具体的な政策提言がなされていると好評でした。最後に、下堂薗会長の質問に対して、「中途視覚障害者に対する能力開発(リハビリに関する情報提供・訓練・研修)を社内の制度として行っている事例は把握していない。むしろ皆様のほうが知っていると思うので、情報をいただければ有難い。」と答えられていたことが、今、これまでの事例を整理し、10周年記念誌の編纂に取り組んでいるときだけに強く印象に残りました。
 また、当事者が自らの仕事内容をプレゼンテーションするポスターセッションは、雇用側に「見えない、見えにくい」人たちの働く現実の姿を目の当たりにし、あらためて戦力としての視覚障害雇用を検討するための一歩を踏み出してくれたように思います。
 なお、同センターのホームページ(http://www.os.rim.or.jp/~moushoku)にセミナーの予稿集が掲載されています。参考にしてください。
(事務局長 篠島永一)

中途視覚障害者の復職を考える会【タートルの会】会報
『タートル40号』
2005年9月12日発行 SSKU 通巻1893号
■編集 中途視覚障害者の復職を考える会 会長・下堂薗 保
■事務局 〒160-0003 東京都新宿区本塩町10-3
     社会福祉法人 日本盲人職能開発センター 東京ワークショップ内
     電話 03-3351-3208 ファックス 03-3351-3189
     郵便振替口座:00130−7−671967
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