会報「タートル」39号(2005.8.25)

1998年10月9日第三種郵便物認可(毎月3回8の日発行)
2005年8月25日発行 SSKU 増刊通巻1875号

中途視覚障害者の復職を考える会【タートルの会】 会報
タートル39号


目次
【巻頭言】
「全盲としての人生を謳歌したい」
幹事 ●●●●
【3月交流会記録】
「企業の障害者雇用の現状と沖ワークウェルのチャレンジ」
木村良二(株式会社沖ワークウェル社長)
【職場で頑張っています】
「三療の道へ転身」
新潟市 阿部 幸夫
【設立10周年記念拡大交流会】
「分科会報告(1)職場環境について」
「分科会報告(2)職場スキルについて」
【お知らせ】
連続交流会(9月)
連続交流会(10月)
【編集後記】
(事務局長 篠島永一)


【巻頭言】
「全盲としての人生を謳歌したい」

幹事 ●●●●
 私が、タートルの会の他の会員と異なっている点は、幼少期からの視覚障害であり、盲人であることに対して強いアイデンティティーを持っていることではないかと思います。私は先天性緑内障として片眼失明で生まれ、10歳の時眼圧低下の手術が元で両眼失明の全盲となりました。その時心にあったのは、なぜか「弱視という中途半端な障害を脱し、より完全な盲人になった。」という妙な充実感、そして「せっかく全盲になったのだから、この自分でしかできない、何か特別な生き方をしてやろう。」という強い野心でした。
 「全盲」それは非常に難易度の高い障害であり、その克服力の高さは他に対し十分誇れるものだと思います。晴眼者は90%もの情報を得られる便利な道具である「眼」に依存しきって生きています。しかしこちらはわずか10%の情報を元に他の感覚を含め様々な能力を駆使して、生活に、仕事に同じ土俵で戦おうとしています。
 十分見えていてもぶつかってくる人がいる一方で、たった杖1本で確実に歩き、さらに人込みでは自身の危険も顧みず、他者がつまずかないよう杖を引っ込めて歩く犠牲心の強さ。対人接触の場においても、わずかな情報をもとに状況を判断し対応してしまう鋭い推理力と分析力。PC操作にしても、目で見るよりよっぽど不十分な道具であるスクリーンリーダーを用い、その癖を十分知り抜いた上で巧みに操作し、時には誤動作の濡れ衣をかぶりつつも、知識と経験、記憶と推理力でそれをカバーしてしまう柔軟さ。
 仕事においても雑多な事務雑用をこなす業務とは無縁、限定された領域において、他者以上に専門性の高い業務エリアを担っています。果たしてこれだけ専門家であることを求められる障害が、他にあるでしょうか。世の多くの企業がこの優れた能力に気づかず雇用を躊躇しているのは非常に残念だと思います。裏を返せば自身が失明したならば、どうしてよいか判らず、何もできなくなるのではとの不安、先入観からきているのでしょう。このような何も道しるべのない中で、独自のやり方を編み出す高いクリエイティビティーを有するタフで勇敢な障害。既にこのように生きている人に敬服し、また途上にありそれに向かっていこうとする人も素晴らしいと思います。私は無論後者です。
 盲人はよっぽど頭がよく、タフでなければ勤まらないことを痛感し、ある時はわたくしには荷が重く、盲人を止めてしまいたいと思ったこともありました。眼が見えさえすればコピー取りやファイリングなど容易に自分の立場を保持できる仕事がいくらでもあるのにと。でもふと気づき思い直しました。逆に目が見えないからこそ安易な軽作業は回されず、専門を追求できる殿様業に徹することができるのです。それに、晴眼者になったところで、当然できるはずのことがただ当然にできるだけです。果たしてそれだけで本当に喜べるのでしょうか。大きなハンディがある中で克服する方法を編み出し、健常者と同等、更にはそれ以上の能力を示すことができる、あるいは普通の人にはできない、独自の全く新しい価値を生み出すことができる、それが本当の喜びではないでしょうか。
 もしそうでないとしたならば健常者の「やはり見えているからこそできて、見えないが故にできないのだ。」という信念を深めさせ、見下され続けることになるだけです。それは全盲つまり自己を侮辱するものです。「意地でも全盲を続け、その汚名を晴らすべく生きよう。いつか、この誇るべき全盲の能力の高さ、勇敢さ、ひたむきさが健常者に理解され、それまでの『能力が低く何もできないもの』との考えが誤りであったと改められる日が来るまで。」そう決心しました。
 私は全盲です。しかし、仕事に対する思いも感覚も健常者のそれと全く変わりません。現在契約社員として、人事採用とヘルスキーパーを兼務する中途半端な状況にあります。しかし、全盲であっても能力さえ身に付ければ、人事のプロフェッショナルとして、正社員として、更には総合職として働けるのは当然と考えます。今、私は社労士資格を取り、この当たり前でない状況から脱しようとしています。
 今後、もし私が突き進む中で得たノウハウが、何らかの形で他の方のお役に立つとすれば幸いと思っています。

【9月交流会記録】
「企業の障害者雇用の現状と沖ワークウェルのチャレンジ」

木村良二(株式会社沖ワークウェル社長)
 現在、当社には従業員が29名いますが、その中の25名が障害者です。両手両足にかなり障害を持っている方21名が自宅でパソコンの仕事をしています。就業の形が非常に珍しい会社であるということと、やっている仕事もかなり技術的だということで注目されています。どういう考え方でこの会社を作り、どのように発展させてきたのかということについてお話をさせていただきます。
 企業に対して、障害者雇用率は1.8%と障害者雇用促進法で定められています。ではどうやって障害者を雇用していくのか。障害者のなかでも通常通り働ける、何もサポートがなくても働ける、職業的障害のない障害者を中心に、つい最近まではそういう人達ばかりを雇うというのが人事担当の役割でした。それでなんとか法定雇用率を達成しようというのが今までのやり方だったのです。
 ところが、1998年に障害者法定雇用率が1.6%から1.8%になったときに、企業は多分1.8%はそれまでの方法では達成できないと思ったわけです。そのころから特例子会社がかなり多くなってきました。特例子会社は親会社に含めて障害者雇用率がカウントできるのです。特例子会社を作ると親会社と一緒に雇用率をカウントできます。ですから障害者を雇用する専門的な会社、特例子会社を作ったわけです。特例子会社に障害者がたくさん雇用されれば、親会社の雇用率も一緒に上がることになるわけです。
 2年半か3年ぐらい前にその特例子会社が今まで親子の関係だけだったものが、関連会社も含めてもよいということになり、特例子会社を作ることによって、その親会社の子会社や関連会社を含めて、障害者雇用率をカウントできるということになりました。ここでまた関連会社を含めた特例子会社が増えています。なぜ増えていったかというと、従業員の少ない親会社が多くなったということです。銀行などはいい例です。○○ホールディングという会社が親会社ですが、社員は子会社の銀行より少ない。特例子会社を親会社との関係だけにすると、親会社の雇用率だけが上がってしまい、関連会社の雇用率は変わらないということになってしまいます。
 そのようなこともあり特例子会社はどんどん増えてきて、去年の8月くらいで160社くらい、今はもう200社近く特例子会社が出来ている状況です。いわゆる職業的障害がない障害者だけを雇うと会社は何もすることがないわけですが、それでは1.8%は達成できないので、特例子会社を作って、特別なケアや支援をするような体勢を整えて雇用するということをし始めてきているのが現状です。
 企業の去年の障害者実雇用率は1.46%となっています。実は去年から除外率を少しずつ減らしています。例えば建設業だと、常用雇用者が1000人いる会社であれば600人で算定するという除外率(40%)だったのを徐々に除外率という概念をなくしていく形で、去年の4月1日にだいたい一律10%を減らした除外率(30%)となりました。これまでのやり方でいくと1.5%、除外率を減らしたやり方でいうと1.46%というのが、今の企業の障害者実雇用率だということです。
 どういう業種が障害者を雇用していないか、やはり建設業で、1.29%になっています。沖電気が属する製造業の電気機械が1.71%です。ですから電気機械はまじめに対応しているといえます。情報通信業は1.09%です。企業は「社会貢献」というより「儲け」「株主のため」という雰囲気でやっています。まだまだ若い産業だから障害者雇用まで考えが及ばないというのかもしれません。
 国や地方公共団体の法定雇用率は2.1%です。大体全部クリアしている。雇用率が低いのは教育委員会です。
 企業が障害者を雇用する場合に3つの方法があります。1つ目は、職業的に障害のない人は通常の入社試験の中で選考して雇用する方法です。2つ目は、障害者雇用枠のようなものを設けて、1.8%を達成するということを考えて、選考基準を一般の人とは別なものにして雇用する方法です。3つ目は特例子会社として雇用する方法です。この3つをごっちゃに考えると分からなくなってしまうので、この3つの考え方があるということを頭に入れて考えるのがよいと思います。
 沖電気の場合は親会社は障害者雇用枠採用はやっていません。ですから障害者の雇用については普通の人と同じ土俵の中で選考して、その人がたまたま障害者だったというようなことで雇用しています。これはノーマライゼーションという観点からみて、普通に採用して同じ処遇でやっていくという、それは正しいことだと思います。関連会社の中には契約社員という形や、処遇を少し落としたり選考基準を低めにして採用しているところもあります。
 これらの採用方法だけではなかなか障害者を雇用できません。ノーマライゼーションということでみんな同じ処遇で採用するのが理想なのかもしれませんが、そればかりではやはり社会的責任、世の中のニーズを満たせないと考えて、障害者を雇用する専門の会社を作ったということです。
 特例子会社を作ったときにいろんな質問が出ました。「障害者をみんなそこに集めるのですか?」と聞かれました。「いや、そうじゃない。特例子会社の障害者は、ある程度支援やケアを考えて特別な働き方をしないと働けない人を雇用するので、沖電気グループの障害者を全員集めてしまうのではありません」と答えました。私どもから見ると、何を質問しているのだろうと思うのですが、職業的障害のあるなしで採用方法を考えるという整理がつけられていない人が多いように思います。障害者というと皆同じだと考えているのではないでしょうか。
 職業的障害があると一般的に考えられている障害者も業種によっては全然職業的障害にならないこともあります。例えばうちの西田には、今ホームページの視覚障害者のアクセシビリティのチェックをしてもらっています。これは全然障害にならない。障害にならないどころか彼でないとできない。晴眼者はチェックしろと言われても多分できない。これは視覚障害者がそういう世界にいるからそういう感覚でチェックができることで、一般に職業的障害があると考えられる障害者についても職業的障害にならない分野というのもあるわけです。
 当社の知的障害の人が名刺作りをやっています。知的障害者が2人と、もう1人は脳性麻痺で、四肢が動いて歩行ができて、多少不随意運動はありますが、作業に支障がない程度に動きます。名刺作りを知的障害者がやるとき、「言われた通りにマニュアル通りにきちっと見て間違いなくやってください」というとその通りにやります。ところが、脳性麻痺の人は知的障害ではないから知能はしっかりしています。そういう人がマニュアル通りやりなさいというと、そんなに難しいことではないから、だんだんマニュアルを見なくなる。そうすると、ポカミスが出てしまう。ですから、仕事によっては職業的障害があっても、逆にメリットが出てくるということもあります。在宅勤務は自宅がうるさいと困りますが、自宅が静かだと落ち着いた環境で仕事ができます。そうすると、手の悪いものでも作業はゆっくりですが間違いなくできる、やっている間に電話が入るとかいうような邪魔がされずに確実な仕事ができる、丁寧な仕事ができる、というようなことです。そういう意味では職業的障害ではなくなりつつあると考えております。
 さて、当社がどういう考え方でできたかをお話をさせてもらいます。私は1996年に、今から約10年前ですが、「社会貢献推進室」に発令されました。当時の社長から、沖電気はそれなりに献血や他のことで社会貢献をしているし、経団連などの寄付についても前向きに対応してきたが、より積極的に社会貢献活動をしようということで辞令を受けました。かっこよく言うと社会貢献、しかし、私には「晴天の霹靂」であり、「窓際の辞令」だなと感じたわけです。
 世の中の社会貢献担当の集まりの中では、社会貢献担当のことを「しゃこたん」という。別にばかにした言い方で言っているのではなく、ただ略称で「しゃこたん」と言っていたのかもしれません。しかし、新しく別のところから来た人間からみれば、何となくばかにされたと感じます。私は昭和59年〜61年と3年間、札幌に行っていたのです。積丹も行ったことがあるので「札幌だったらまだしもこれは窓際もいいとこの窓際族だ」と思いました。
 他社の社会貢献の担当者を見ると2つのタイプがあります。それなりの年配の人で、なんとなく行くところがないからというような人と、もうひとつは若手の女性です。若手の女性と付き合えたというのはよかったのですが、そういう仕事環境や状況だったんです。あまり重要視されている部門ではなかったのです。「ビジネスと関係のない仕事なんかしたくない」と思って、「会社も辞めようかな」とも思いましたが、「今まで勤めてきたのだからとにかくやってみよう、やるなら面白いことをしよう」と考え方を変えました。他社の活動は社会貢献イコールボランティアと寄付だというのがほとんどでした。私はそのとき、「企業のやるべき社会貢献は事業の中で行うのが正道ではないかな」と思ったわけです。
 「沖電気の中で社会貢献に活用できるような製品は何があるか」と調べました。「スマートトーク」という音声合成エンジンがありました。製品開発者やデモをする社員に聞いたら、「これはいいぞ、ものすごくクリアな音が出る」というのです。本当にいいのかと、視覚障害者に聞いてもらいました。1997年ごろのことです。「素晴らしい音だと思うけれど、視覚障害者はどういう音声合成エンジンでも2〜3回聞けば慣れてしまうから、いい音だとかそんなのはどうでもいい」ということでした。「どんなところにそれを組み込むか、どう使えるか、というのが問題だ」という話があり、担当者に話してみましたが、その後進まない。技術の人間に「これを活用するソフトがない」と言っても、ただ「エンジンで買ってください」、そういう感じでした。これはだめだと思って諦めました。
 当時の社会貢献活動とは、事業以外のところでやれということでした。私は事業の中で社会貢献活動をするのがいい、例えばコピー用紙を100%古紙にする活動をしました。ボランティアの企画をする、寄付をどう集めたらいいかなどもやりました。企業は事業の中で社会貢献を考えていくのが正しいやり方だと思っています。今のCSRと共通するものがあります。CSRという企業の社会的責任はそういうことです。
 そんななか重度障害者に在宅でITを教えている組織を知ったのです。東京コロニーで重度障害者を自宅にいるままで勉強させるんです。2年間の研修をやって、かなりITができるようになった人がいて、そこの先生から「一生懸命勉強してもらい、それなりの技術力がついたが、自宅でしか仕事ができない、就職先がない」という話を聞きました。
 私は人事部門ではなかったので、そういう人をすぐに採用はできない。では「請負みたいな形で何かやってもらおう」と思ったのです。当時、沖電気は「キヨスク端末」というものを販売していました。キヨスク端末は決済端末です。病院なんかで医療費を払う決済の端末で、その端末が使ってない時に、その画面で物品を販売できます。だから「インターネットではない楽天」みたいなものです。
 今から7年か8年前は、そういう端末で物品を販売していました。授産施設で作ったもの、障害者が作ったものをその端末で販売してみようと提案したんです。販売するためのお金は沖電気が社会貢献として出すことにしました。販売するための画面をつくらなければなりませんが、その画面を在宅の障害者のIT技術者に作ってもらう形で仕事を依頼したんです。
 それがうまくいったので、次に沖電気の社会貢献のホームページを作ってもらおうと考えました。沖電気のホームページの依頼は私がしました。私は技術者ではありません。ずっと事務畑を歩いて、いまでもIT音痴な人間です。その当時、やっとメールが使える私がこういうもの作ってくださいと指示をして、メールで質問が返ってきたものに回答したりして、それで沖電気の社会貢献のホームページが出来ました。これなら私のような人間でも在宅の人に指示して仕事をしてもらえるということがわかり、在宅勤務のきっかけになりました。
 ここで、「請負じゃ面白くない、雇用することにしよう」と考えました。雇用するのならどこかのセクションに「こういう技術者がいるから使ってみてくれないか」という話をしなければならない。「いいよ」となったら、わたしも人事部門にいたことがありますから、人事と折衝して障害者雇用率という問題もあるし、雇用しようと思いました。
 そのとき出てきた答えが、「Web、ホームページの仕事はあるけれども、作るとき、明日オープンというときには徹夜して作ってもらう、ちょこちょこそういう時期があって、また2,3カ月全然仕事がないときがある、そういう雇用の仕方ができるのだろうか」という話です。それは難しい、コンスタントに仕事がなければ、雇用というわけにはいかない、とすぐに思いました。ずっと思い悩んでいましたが、いろんなセクションから仕事をもらって、複数の在宅勤務者をそろえてやれば、仕事の量が平準化するではないかと思ったわけです。
 あるセクションから仕事がドーンとでてきたら5人でやれば1日でできる。そういう仕事が別の場所から同時にきたらできないが、そういうケースはあまりありません。だから複数の仕事を出すところと複数の人数がいれば仕事の量の平準化ができる、そういうふうに思ったんです。
 そうこうしているうちに出会いがありました。今当社の取締役の津田が、「社会貢献活動みたいな仕事をやってみたい」と変なこという。前から知っていた人間なので半分冗談かなと思いましたが、「技術の人間が私のかわりをやろうとする、そんなもったいない話はないよ、私は窓際だから」とまでは言わなかったけれど、ある意味ではそういう感じのところへ、その当時30代で課長の技術のバリバリの人間が私の代わりなんて会社としてはもったいなくて使えないと思いました。
 津田に「実は今のままではできないが、間に入る技術の人間が複数のクライアント、仕事を出すところと複数の在宅で仕事する障害者をつないでうまく仕事をやりくりすれば、障害者を雇用することができる。これなら技術者としてやる価値がある、今までの通常の社会貢献活動みたいなイメージだったらもったいなくて、あなたみたいな技術力のある人は使えない」と話をしました。「そういうことをやりたい」と言う。彼も単純です。動機が「運動会で足を怪我して障害がある人の気持ちがよくわかる。そういうお手伝いをしたい」ということでした。そんなに深く考えての話ではないと思いましたが、きっかけはそんなものだと思います。そんな経緯があって、在宅勤務制度を会社に提案して1998年6月に3名の在宅勤務者を初めて雇用しました。
 在宅勤務でうちみたいな雇用の仕方しているところはないと思います。あるセクションの仕事が恒常的に少しあるから在宅で仕事をするという1対1の雇用の関係の仕方しかない。当社の場合は、沖電気グループならびに外の仕事を身動きができるような人間が営業やコンサルして仕事をさがしてきて、それを在宅の人に実際のソフトの製造の仕事をしてもらう、そういうやり方です。そういうやり方をしているところは今でも1社もない。NPOでは多少それらしきことをやっているかもしれませんが、企業としてやっているところはないというのが現状です。
 2001年までは沖電気として雇用してきました。2001年から関連会社にもハローワークからイエローカードとかレッドカードを提示されるところが多くなってきたのです。それだけ厳しく障害者雇用率をチェックする厚生労働省の意向の表れだと思います。ハローワークに呼び出されて「障害者雇用をもっとがんばれ」といわれたという話も入ってきて、担当者が相談に来ました。「沖電気の在宅勤務の制度と同じような形で在宅勤務者を雇うというのであれば、我々も協力できます」というので、関連会社も在宅勤務者を雇用したわけです。
 関連会社が雇用して、関連会社の人間が在宅勤務者に仕事をさせるというのはなかなか難しい。1人や2人のために誰か技術者を間に入れて仕事するのはもったいなくてできないから、沖電気の在宅勤務制度を共通で使って、関連会社の負荷をなくしました。そういうやり方を経まして、2003年度末には13名の在宅勤務者ができました。
 最初1998年6月から試行しました。英語で格好よく言うと、フィージビリティ・スタディです。フィージビリティ・スタディで2003年までずっとやってきました。私は、本格的にキチッと体制を整えたい、という考えがずっとありました。もう1つの流れとして、世の中の企業はいわゆる「企業の社会的責任」(CSR)を果たさないといつでもつぶれるということがあります。一昨年くらいからCSRという言葉が頻繁に出るようになって、沖電気でも企業の社会的責任をキチッと果たすセクションを作ろう、それをやっていく体制を作ろう、そういう話が出てきて、私はフィージビリティ・スタディ脱却のチャンスだと思いました。今まで社会貢献という観点は経営ではなかったのです。道楽みたいなもの、あるいはそんなイメージだったんです。それがCSRという言葉が世の中に溢れだしたために、経営の問題に格上げされたのです。これは非常にいいタイミングだなと思ったわけです。
 障害者雇用率の達成はまさしくコンプライアンス(法律遵守)、CSRの中のコンプライアンスです。雇用率は達成しなくてはいけない。沖電気は、去年までずっと達成していなかったのです。1.8%を達成していなければコンプライアンス違反になるわけです。「これはおかしいじゃないか」と話をしたら、人事も「じゃあ、やろうか」ということで、特例子会社の沖ワークウェルを作ることになりました。そのとき沖電気と関連会社に13名の在宅勤務者がいました。
 特例子会社を作りたいとハローワークの窓口に行きました。特例子会社を作るための条件は5名の障害者がいないとダメです。13名いますからすぐに作れると思ったんです。13名が各社にいて、その人を中心にして、まとめて特例子会社を作ると話をしたら、「それじゃダメだ。5名を新たに雇用しなければ特例子会社にしない」ということでした。これには異論がありました。そんなことはすぐ会社にはできない。準備期間が要る。親会社や関連会社が雇って準備してから、特例子会社にするわけです。
 いきなり会社を作りなさいというのがハローワークの指摘です。もともと特例子会社を作って障害者雇用を増やして1.8%をクリアしようというのが大きな目標だったので、ちゃんと5名以上雇います、雇用計画も出しますということで認定され、去年の5月に特例子会社になりました。
 13名の障害者が25名になりました。考えてみると1年間の間に12名も雇用しました。今はグループで適用して関連会社10社を含めて雇用率を計算する体制になっています。これはなかなか難しい。各々の会社で障害者が辞めたり採用したりする状況をキチッとウオッチして1.8%必ず達成するようにする、状況によってはさらに雇用しなければいけない、非常につらいわけです。「私が沖電気とそのグループの障害者雇用をキチンとウオッチして、最低限1.8%は絶対キープするという役割を担っている」と思いながらやっています。
 そんな状況で会社を作ってきたわけですが、実はただ単なる障害者を雇用する会社だということでは私は満足していません。企業の社会貢献は、やはり製品だとか会社の提供する実業で貢献していかなくてはいけない。ただ単に障害者の人を雇用して、なんか仕事を見つけてやるということではなく、企業ビジョン「チャレンジドとともに社会の創造」ということで、いわゆるIT技術を使って社会に対していろいろなことをやっていく、健常者も障害者も幸せに暮らせる社会をITを活用してつくっていこうというのが企業ビジョンです。ただ単に障害者の人を増やすことはしない、企業ビジョンに沿った仕事をしていきたいと考えています。
 ですから障害者の人たちの感性、経験、特性、そういうものを活かした仕事をしたいという思いを持っています。さらに中心となる在宅勤務の方には、より技術力をつけてもらってITの仕事をキチッとやって欲しい。世の中一般のIT企業と太刀打ちできるような仕事をしたいと思っています。それと同時に沖電気に対するコンサル、肢体障害者として使いやすいATMを作るとか、そういったものにも貢献をしたいと考えています。
 視覚障害の西田には、視覚障害者のWebアクセシビリティの大家になって欲しい。当社の仕事はWebが中心なので、Webアクセシビリティは欠かせない。やはりWebアクセシビリティは実際に使う人間がチェックする、そういうことが必要という話の中で西田にきてもらい、今では西田が肢体障害者の在宅勤務の仕事の付加価値をさらに向上させている、そういう評価です。やはりお互い相乗の付加価値が出てくるのです。
 知的障害者は名刺の製作をしているが、在宅勤務の人に名刺のデザインをしてもらう。レイアウトとか、似顔絵です。デジカメで撮った写真をもとに在宅勤務者が似顔絵にして名刺を作るというように知的障害者と在宅勤務者のコラボレーションの形で仕事をしていくわけです。知的障害者もパソコンを覚えるように指導するとそれなりにできます。ですから知的障害者のIT活用も推進したいと思っています。
 「障害者が街の中で暮らせるように」ということが言われている。街の中で普通に暮らすときに一番重要なことは何でしょうか?お金を自分で下ろせる、これが一番重要なことです。銀行の窓口に行って下ろせば下ろせるが、今は窓口が少なくなっています。ATMがバンバンできて、窓口は人件費がかかるから置かない。ですから「障害者がATMを簡単に使えてATMから下ろせる」というのが障害者の人たちが、街の中で暮らすことで一番ではないかもしれませんが、かなり重要なポイントを占めているのです。
 視覚障害者や肢体障害者のほかに忘れがちなのが知的障害の人たちのことです。知的障害者も、重い人は別として、自分でお金を下ろして、例えば弟だとか妹にお小遣いをあげる、そんなことができるようになるのがいい社会なのかと思ったりします。そういう社会作りに我々は協力をして「健常者も障害者も楽しく生きるいい社会」、「E社会」です。これは沖電気の登録商標みたいですが、そんな社会作りを沖電気とともに、障害者の協力を得ながら行っていきたいと考えております。

【職場で頑張っています】
「三療の道へ転身」

新潟市 阿部 幸夫
 私が網膜色素変性症と診断されたのは25歳の時でした。その時は、まだ視力も良く「将来失明するかもしれません。」などと言う医師の言葉は耳に入らず、受容出来ませんでした。
 その後22年間、自動車関係の仕事をしていましたが、平成2年の秋に交通事故を起こし、怪我をしてしまいました。社長から、「もう車は、運転するな。」と言われ、拡大読書器を工場に持ち込んで、検査主任の仕事をしながらメカニックをしていましたが、だんだん視力も落ちてきて工場で働くのが難しくなってきました。
 その後しばらく事務仕事をしていましたが、本社の常務取締役に「おまえが好きで病気になったわけじゃない、関連会社に健康ランドがあるが、マッサージの方へ進む気があるか。」と声を掛けていただきました。
 このまま自動車関係の仕事にしがみついていてもいづれは出来なくなると思い、あはき関係を調べてみることにしました。マッサージ部門に移るにしても、免許が無ければ仕事が出来ません。まず免許を取得するにはどんな方法があるのかを調べました。
 まず、期間は高卒以上の学歴があれば3年間、それ以下なら6年間掛かります。場所は、盲学校、国立視力障害センターなどがあります。後は、費用がどれくらい掛かるのか、私に取ってこれが1番の問題でした。
 今までの収入が無くなり、出費があるということは、正直住宅ローンをかかえ、進学を控えた娘がいる我が家にとっては無理なことでした。国立視力障害センターでは、前年度の生計を共にする全員の収入に応じて自己負担額が決まります。盲学校では、前年度の生計を共にする全員の収入に応じて決まるのは一緒ですが、就学奨励費制度があり、収入に応じて返却されます。
 信楽園やタートルの会にも、いろいろと相談させてもらいました。とりあえずそれらの資料をまとめて会社へ提出しました。
 その後常務に呼ばれて、「1年位かと思っていたが3年も掛かるのか。」としばらく考え込まれてから、「半年に1回レポートを提出しろ、それで3年間の休職を認めよう。」、それと「奥さんの扶養にならない最低賃金を支給しよう。」と言う格別な配慮をしていただきました。
 会社からこれほどの心強い支援をいただき、家族とも相談し新しい道に向かうことを決断しました。そして7月一杯で自動車会社を退職し、本社総務課に転籍という形で辞令をいただきました。もう1枚の辞令には、休職の期間と支給金額が書いてありました。
 次に、まったく畑違いの事を勉強しなければならないことへの不安が出てきました。どうやって勉強して行けばよいのか?墨字か点字か音声か?幸いに来春までには、半年以上あるぞと思い、生活訓練を受けることにしました。
 新潟の管轄は塩原視力障害センターになっており、急いで入所の手続きをしましたが、補欠の2番目になってしまいました。無理かなと思っていたら、入所可の通知が届きました。そこで、歩行、点字、パソコン、拡大読書器などの訓練をして、これからの勉強に備えました。
 入試を終え、新潟盲学校へ入学後も、どうやって勉強していけばよいか試行錯誤を繰り返し、ノートはパソコン、試験問題はテープ、答えは点字という形に何とか落ち着きました。あと、先生とのいろんなデータなどのやり取りはフロッピーディスクで行いました。
 そんな中での3年間は、アッと言う間に過ぎ去り、国家試験も何とか合格することができました。復職に関しての最低条件はクリアしました。3月中旬ごろから見習いとして健康ランドに通い、先輩達を揉んだり、揉まれたりして、50分で形になるように頑張り、4月1日付けで辞令をいただきました。
 今では、多い時で1日7人を施術しています。お客様から「あぁ、楽になったよ。」と言われると疲れも吹っ飛びます。こんな身近で人を癒せるなんて、この仕事に就けてとてもよかったと思います。今は、新潟盲学校卒の先輩3人と共に4人で頑張っています。


【設立10周年記念拡大交流会】

分科会報告(1) 「職場環境について」

1 自己紹介から  最初に参加者全員に自己紹介をしていただきました。
 いろいろな問題が提起され、また、交流の中で参考になる事例をぜひ吸収していきたいと語っていました。
 自己紹介のなかでいくつか問題が出されました。まず1つ目は、私たち自身の意識・考え方を変えたらどうかという提案がありました。もう少し大きな視点で自分を捉え直すことが必要だ、また、今、自分自身を変えなければいけない、そういう渦中で考えているという話もありました。
 2つ目は、自分はパソコンを使えばもっと仕事ができるが、職場の古い体質から理解してくれない、そういう中でどういうふうに状況を変えていったらいいのか、自分はいろんな補助具を活用してできる仕事の領域を広げたいが、自然に補助具が必要だと提案するにはどうしたらいいのかという問題提起もありました。
 3つ目は、人間関係です。「自分を理解してもらえない」、「うちの会社は冷たい」ということでしたが、やはり人間関係をうまくやっていけないと厳しいという提案もありました。
 そもそも見えない中で、今後どういう仕事の可能性があるのか、具体的にその辺で悩んでいるという発言がありました。

2 二人からの問題提起
A 復職して大切にしてきたこと
提起者 大脇俊隆さん  照明器具と家具を扱う会社に勤務しています。復職して10年経ちました。
 この10年、よくここまで続いたと考えていますが、10年のことをこの短い時間で話すのはむずかしいことですので、さまざまな紆余曲折をご理解いただければと思います。そんな中で、これだけはと一番その印象に残り、是非ともお話しし、皆様にも伝えていきたいということがあります。
 それは「やはり会社の中の人を大切にしてきたのがよかった。」ということです。
 もちろん全部のひとを大事にできるわけはないので、まず10年前からやったのは自分の周囲にいる人たちです。
 3年間はテープ起しの仕事をしましたが、何が貢献できるのか考えました。
 たまたま私は営業をやっていたものですから、営業担当のひとに対する情報提供です。
 照明と家具、特に照明の中で住宅関連の業界記事関連サイト、50社ぐらいありますでしょうか、その中から情報を抽出して自分の会社に役に立ちそうなものを、自分でチョイスして、その記事を10件くらい掲載したメールマガジンを作成しまして、社員の皆さんに配信をしていったのです。
 人を大切にするということですが、例えば私が机から何か落としたとき、周囲の見ている人が「大脇さん今何か落としましたよ。」と教えてくれます。ということはよく考えてみますと、月曜日から金曜日まで、私に対して注意してくれているということです。そういった意味で自分の周りのすぐそばにいる人たちに「おはようございます」「お先に失礼します」、そういうことをキチっとしていけば、だんだん注目というか、見てくれる形になる気がします。
 自分でメールマガジン、そういうものつくって後は北海道から沖縄のアドレスを取得されている方にメールを配信しておけば問題ない。そういった中で「特にこの記事は良かったですよ」と、だんだん個人的にメールが入るようになってきました。そういう人たちにはなおさらがんばって、「こういった記事もあるよ。」と配信したことがよかったと思います。
 その一方で自分のすぐ目の前にいる人たちに常に心がけて飲み会に誘われたら、そのあと「飲み会のときお世話になりました。」と、直接言わなくても、個人メールでやり取りしていれば、理解してくれることがわかりました。日々そういった中でエレベーターに乗ったときに、誰も声かけてくれないのは日常茶飯事で、1日1回や2回あることですが、1日のうちの6割や7割声をかけてくれる人もいます。
 だから皆が声かけてくれないということじゃなくて、1人や2人まったく無視されるケースがあるのは日常茶飯事のことだと思えばいいんです。会社を出て秋葉原の駅や道路を歩いていて、ぶつかっても何も言わない人もいます。こういうこともあると思うことが大事という気がします。
 だから、そういった意味で「会社で毎日会話をする人のひとりひとりを大切にすること」が10年間続いてきました。一番印象深いというか、私の自慢じゃないんですが、一番これが間違いなかったという心境です。

B できることを、コツコツやることの大切さ
提起者 重田雅敏さん
 現在は、盲学校に勤めていますが、それまでは養護学校で重度重複の生徒たちを主に教えてきました。
 私は色変なので、幼児の頃から、「40歳から60歳の間で失明します。」と言われていました。いざその年齢に近づいてくると、視力も視野も悪くなってきて、四十代の後半くらいからは、引率ができない、安全管理ができない、連絡帳は書けない、いろいろな資料は当然読めないというようなことで、あれもこれもできない状態になりました。何ができるかというと、着替え指導と、生徒と一緒にただおしゃべりしているということだけで、2年間くらいは、そんな状態でした。
 盲学校にさえ転勤できれば何とかなる、盲学校は視覚障害のことをよくわかっているし、いろいろなことを配慮してくれるはずだ、それを期待して転勤希望をずっと出し続けました。
 しかし、大変な苦労して転勤できたものの、理療科のある盲学校とは違って、健常者ばかりの職員に囲まれて、ただ自分だけが空回りしている感じでした。校内には、すでに点字や歩行を教える先生がいるので、「できるのにやらせてもらえない」、「仕事を回してもらえない」という状況がありました。
 要するに私が貢献できそうなところはなく、少しでもできそうな仕事を見つけていくしかなかったのです。
 たまたま、ある生徒の担当になり、養護学校での経験が生かすことができて、その生徒とすぐ仲良くなれました。おかげで毎日の仕事が楽しくなりました。
 今悩んでいるのは、チャレンジしたくても自分のスキルに自信がないこと、やったとしてもいろいろと障害が出てくるのでどうしてもしり込みしてしまうこと、その反対に、恥をかきそうだからとやらないでいると、どんどん仕事が減っていってしまうことなどです。人が忙しそうに働いているときに、指をくわえて見ていることになる、これは結構つらいです。
 もう一つは、どこまでが、わがままで、どこまでが正当な主張かというあたりが、難しいこと、自分一人が障害者なので、その辺の判断ができないということがあります。
 人間関係は、できるだけ従順でいるようにして、付き合いも多くしています。これは基本的なことです。それから自分が暗くならないよう心がけています。それから、ある意味で信念みたいなものを捨てないでやっていくことです。
 社会正義があるのかないのか、そんなことはわかりませんが、同じ障害者が、自分の後押しをしてくれている、自分一人ではないという思いが大切です。心の支えと責任を背負っているような感じです。
 あとは、もう、生き様です。「一生懸命やっているのだから、これ以上どうすればよいのか。」という、ある意味、居直りでやることです。
 最後は一人前を考えないこと。弱視の頃は、いつも一人前を考えていました。人と競って、後れを取らないようにすることだけを考えていました。
 しかし、ここまでできなくなると、一人前という考えは捨てました。できることをコツコツやって無理をしないこと、無理をして一生懸命やりすぎると、必ずいろいろな意味で、摩擦がおこってきます。
 自分の障害からは、足を引っ張られ、人間関係も悪くなり、その他の訳のわからないところから足をすくわれてすごく悔しい思いをします。その悔しい思いは、自分に対して、非常に大きなダメージを与えます。自己嫌悪になったり、人間不信になったり、心がふさいでしまうこともあります。
 ということで、ぎりぎり100%まで入れこまないこと、客観性、冷静さや、いたわりの気持ちを保つ心のゆとりを残しておくこと、どこかで冷めていることが、結構大事かなと思っています。

3 皆さんから出された問題提起

(文責:幹事・新井愛一郎)


分科会報告(2) 「職場スキルについて」

司会 最初に各15分間くらいずつ二人の話題提供者に発言してもらって、そこから話を展開していきたいと思います。

話題提供者A 視覚障害者になったのは今から15年ほど前です。リハビリは、所沢の国リハで生活訓練を、同じ敷地内の職リハの当時の電算科といわれるところで職業訓練を受けて、1993年に現在の会社に就職しました。現在、勤続12年になります。建築士を養成する予備校を全国で140校ほどやっている会社です。
 当時、MS−DOSで訓練を受けましたが、当時の職業訓練を受けた知識のうちで、今仕事で役立っているというものはほとんどありません。ほとんど全てのものが仕事を始めてから得たスキルです。
 最初はロータスで簡単な表を作ることから始まりました。社内のOA化を進めるということで、実は私が入社したきっかけもその社内のOA化を進めるための仕事をやるということでした。ただ、その仕事は実は1年でなくなったんですが、きっとなくなるだろうと予想をたててすぐにdBASEを使って何かシステムを作れないかということを考えて、自分で勝手にシステムを作りました。そして、同僚に「こんなものを作ったのだけれど、試しに使ってみたい」というような話をしながら自分の作ったものを提供していったんです。
 それがとても功を奏しました。事務局の仕事は1年でなくなってしまったのですが、もし、それがなかったらそこから先、多分会社は「あいつに何をやらせたらよいだろうか」ということにきっとなっただろうと思います。実はdBASEの勉強をしておいたおかげで、別の部署から「そういうことができるんだったら、うちのシステムを作ってよ」と言って課題を与えられたんです。
 その課題は荷の重いものでしたが、自分を追い込まないとスキルはどうしても上がらない。それに自分をアピールするんだったら、人ができる普通の仕事をやっているだけではだめだろうと思ったので、無理と思われるような仕事に取り組んで1年半かかってやっとシステムを作ったんです。
 私が12年の仕事で学んだことは、スキルは自分から積極的に身に付けないといけないということです。自分で「ひょっとすると、この仕事は何年か後になくなるかもしれない」そのくらいの予想をたてて対応策を考えていかないといけない。これは晴眼者も同じだと思います。
 あと、社内、社外向けのメールマガジンを送るという仕事もやっています。週2回のものがひとつと週1回のものがふたつ、それと月間の社外向けの会報誌の原稿を書く仕事をしています。こういうものを作ったらきっと社員が便利だろうと勝手に自分で空いた時間に自分の親しい社員に出していたんです。それをいつのまにかトップの方が見て「これはおもしろそうだからやらせれば」っていうことになりました。それまでに5年かかりました。これも与えられた仕事をやるだけでなく自ら獲得した例です。
 そのおかげで実は付随するいろんなことが出てくるんです。例えば「今度それについて提案書を書いてプレゼンテーションしてくれないか」といわれ、プレゼンテーションするためにはパワーポイントができなければいけないということになります。もちろん前のdBASEのシステムを作り変えるためにはアクセスができないといけない。そうすると必然的に新しいスキルをいや応なしに勉強せざるを得ない。
 最後に、いわゆる技術的なスキルのほかにヒューマンスキルも重要です。ヒューマンスキルというのは、平たく言えば他の人とうまくやっていく能力のことです。社に非常に優秀なデザイナーが入ってきたんですが、人付き合いがまったく下手で同僚とうまくいかない。そのうちに部内での人間関係がどんどん悪くなって最後どうなったかといえば、あんなに優秀だったのに結局は辞めていった。
 もし自分が今の日本のビジネス社会で生きようとするのならば、障害者だからという気持ちをむしろ捨ててしまって、同じだというくらいの気持ちでやっていかないと生き残るのは難しいんじゃないのかなというのが私の実感です。

話題提供者B 私の場合、18才で入社した会社にずっと務め続けています。今44才ですから入社して25年になります。
 新潟の営業所から移って茨城の日立の支店に転勤しました。平成13年の6月まで3年と4ヶ月くらいいたんですが、その期間にだいぶ目の方も悪くなってきました。営業職だったので車を運転したりお客さんと会食したりするという仕事がありました。それでこういう形だと厳しいなということで当時の上長にも話をして、1年4ヶ月在宅勤務という形で(休職はしていません。)、リハビリにつながることをやりました。
 職場では、スクリーンリーダーのXP Readerと音声ブラウザを使っています。この3〜4年くらい、社内では紙の回覧文書からイントラネットに切りかわってきています。
 ファックス、パソコン、携帯電話など過去にはなかったものが現在では使えて当たり前のようになっています。それらは、もはやスキルではないと私は思っています。組織の中で仕事をしていく上においては当然そういうものがある程度使えるということが前提になるんだろうなと思います。
 ただ、その必要性は職種によってさまざまです。パソコンを使わなくてもできる仕事もあるだろうし、使わないと仕事が成り立たないということもある。必要に応じて職業訓練を受けるなどしてスキルを身につければいいと思います。
 視覚障害者といってもまだ見える人はたくさんいますから、なにも一般の教材が使えないということではなくて、拡大読書機などを活用し自習することだってできないことではないし、その辺は立場に応じてやれる方法からやっていけばいいのかなというふうに思っています。
 今は庶務的な仕事をやっています。他の部署に属さない仕事、隙間の仕事がいっぱい集まってくる部署です。その中で今やっているのは、一つは労働安全衛生法に関する業務です。例えば、年に1回の健康診断や歯科検診にまつわる種々の手配や手続きがあります。また、健康増進法との関連で分煙対策もあり、喫煙室をちゃんと区分けして作っています。メンタルヘルス対策というものが企業の中で始まっており、そのケアをこれから企業としても労働安全衛生法に基づいてやらなければならないという形になってきています。
 そういうようなことも含めて、自分のスキルということでは、2年かけて産業カウンセラーという資格を取得しました。これは産業カウンセラーの資格が欲しいということではなくて、自分がこれから仕事をやっていく中で、労働安全衛生、メンタルヘルスというものをやるために、これが一番いい勉強の仕方ではないのかなというふうに思って受けました。それをステップに、心理相談員という研修も受けてきました。スキルを考えるときは、自分にプラスになることを見定めてやっていくことが大事なんじゃないかなというふうに思っています。
 もう一つの仕事は、社内親睦会の事務局です。福利厚生の一環かもしれませんが自分なりにも楽しんでやれる部分です。プロ野球の年間シートの応募者を抽選で「今回あなたが当たりましたよ」というような形で割引にして頒布することとか、家族も含めて親睦するということで、来年もディズニーランドでイベントをやります。そうした企画をやっています。
 やはり仕事は難儀だけではとてもやっていけないので、自分なりに遊び心を持ってやれるようなもの、それを少しでも任せてもらえる部分があり、情報を集めてそれを提案してやらせてもらえるようなことがあればよいと思います。提案型の仕事というのを心がけることが大事だと思います。
 世の中、移り変わりますので、変化に対応するためのものとしてもスキルということは大事なのかなというふうに思ったりしています。

司会 自分の気持ちがいつもプレッシャーに負けない自然体でいることが肝要。そういう体勢だと何がきても怖くない。リストラされたらどうしようなどと考えるより、今やっていることから少しでも新しいものにチャレンジする、楽しく仕事ができればという発想でやる。
 スキルではなく“隙間で生きる”の「すきる」という柔軟な考え方も必要だと思う。自分に合うのは自分の存在をアピールして楽しく何かをするということ。ハンディを背負ったときに何ができなくなったかということを考えるよりハンディを背負って何か得することはないか、例えば旅費にしろ、電車に乗るときは、二人で一人分払えばよいので一人ではなく二人で旅行できるじゃないかと考える。考え方一つで違う面から見直したり、自分の気持ちを押さえつけないような、自分が一歩でも半歩でも前に進めるような気持ちを、いかに制御していくか、気持ちがある程度、すっきりしていれば動くこともできるということが大事。
 今日の話を聞いていても、仕事を長く続けている人は、自分がやりたいことを少しずつ小出しにしてアピールしながら、何年か後にはそれを仕事にしている。そういうことを周りの空気を読んだり情報を仕入れたりしながら、やっていくしかない。毎日の努力、そのためには仲間をつくり、多少のはったりをかましつつ、それを有言実行の形で生活していくのがよいのではないかなと思う。

(文責:幹事・吉泉 豊晴)

(「分科会報告(3)家族について」は次号に掲載します。)



【お知らせ】

◎連続交流会(9月)

 日時:2005年9月17日(土) 14:00〜17:00
 場所:日本盲人職能開発センター
 講演:「情報のUDがもたらす障害者就労における可能性」
 講師:濱川 智氏(株式会社カレン)

◎連続交流会(10月)

 日時:2005年10月15日(土) 14:00〜
 場所:日本盲人職能開発センター
 事例紹介:「こんな仕事をしています」
 紹介者:未定


【編集後記】

 「タートルの会」設立10周年にあたり、発足当初から多くの晴眼者のご支援をいただきながら育てられてきたことに対し、いくら感謝しても感謝しきれないものがあります。そこで、6月4日の拡大交流会の中で、ささやかな感謝の集いを設け、感謝状を差し上げて一言ご挨拶を頂戴することとしました。何としても外せない7名の方にご臨席をお願いしました。
 会発足のきっかけとなったA氏の復職を実現させ、初代会長として会の発展に功績のありました和泉森太氏、NHK「視覚障害者のみなさんへ」の担当フリーアナウンサーであり、マスコミの一人として大変協力的に大きな励ましをいただき、特にフリーの立場から医学関係雑誌(眼科ケア)に中途視覚障害者の働くことについてのエッセイを2年にわたり連載されました柴田優子氏、そして、タートルの会発足当初から事務局所在にご協力いただいた日本盲人職能開発センター常務理事の光岡法之氏、さらに、会の役員で晴眼者としての協力を献身的に続けていただいている森崎正毅氏。この4名の方が出席され、ご挨拶を頂戴しました。
 残念ながら所用で欠席された方は、「中途失明II 〜陽はまた昇る〜」の企業取材、執筆協力者として貢献され、その後、共同通信社釧路支所長に転勤されました滝上広水氏、「中途失明〜それでも朝はくる〜」の装丁者で、デザイナーとして長年会報「タートル」の編集に尽力されました元幹事の吉永俊一氏、そしてホームページ管理者で立ち上げ時のデザイン担当者であります和泉徹彦氏。この3名の方には、感謝状を送付させていただきました。
 本当にありがとうございました。今後とも温かく私どもを見守り、更なる発展、充実にご指導いただきたくお願い申し上げます。
(事務局長 篠島永一)

中途視覚障害者の復職を考える会【タートルの会】会報
『タートル39』
2005年8月25日発行 SSKU増刊 通巻1875号
■編集 中途視覚障害者の復職を考える会 会長・下堂薗 保
■事務局 〒160-0003 東京都新宿区本塩町10-3
     社会福祉法人 日本盲人職能開発センター 東京ワークショップ内
     電話 03-3351-3208 ファックス 03-3351-3189
     郵便振替口座:00130−7−671967
■タートルの会連絡用メール m#ail@turtle.gr.jp (SPAM対策のためアドレス中に # を入れて記載しています。お手数ですが、 @ の前の文字を mail に置き換えてご送信ください。)
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