会報「タートル」30号(2003.12.15)

1998年10月9日第三種郵便物認可(毎月3回8の日発行)
2003年12月15日発行 SSKU 増刊 通巻第1309号

中途視覚障害者の復職を考える会
タートル 30 号


目次

【巻頭言】
「春夏秋冬、そしてまた・・・春夏秋冬」

幹事 嶋垣 謹哉

 {カバーソング}が流行っているらしい。私と同じ世代、40代の人たちならきっと耳にしたことがあるであろう、山口百恵や沢田研二のヒットソングたちのようだ。昨日の夕方は、甲斐よしひろとか世良正則が往年の持ち歌をリニューアルして熱唱していた。これらは今からちょうど四半世紀前くらいに流行った曲のはずだ。自分でも当時の若者必須アイテムであったラジカセで聴いていたから、自然と歌詞が出てきたりする。「持たざる時」にたとえ耳から体感したものでもそれなりに憶えているのだろうか、一人ニガ笑いしたりする。
 時々柄にもなく、ふと、この四半世紀で何が一番変わったのだろう?などと思うことがある。歌などは根本的に人工の創造物以外の何物でもないわけだし、誰もが少なからず持つであろう懐古趣味要素をうまく利用され、多聞に「時代は繰り返されて」いるのだろう。
 ほとんどこんな調子で、つまらないことばかりを感じているのだが、「北の国から」のナレーションのような某幹事のMLへの気温の書き込みに、いたたまれない焦りを感じたりする時があるのだ。その「焦り」とは、自らの季節感に対する「体感性の低下」への慄きのようにも感じる。端的に申しあげれば、外の気温が15℃だ、25℃だと言われても、全然ピンとこない、過去に皮膚を通じて脳に記憶されたであろうはずの「体感で得た感性」の機能が恐ろしく低下していることに愕然とするのである。
 テクノロジーは確かにこの四半世紀で進歩したことは間違いない、これは体感というよりは実感である。が、しかし、この四半世紀で当たり前と化しつつある「快適な室内の空調」や「騒音や風雨を遮断する環境」は、私たちにまやかしの「箱」を与えただけではなかったのか?
 やはり、春夏秋冬を肌で、感性で体感していきたいものだ。人は自然の中で生きている。いや、生かされているといったほうが真実に近いかもしれない。新緑の香りの清々しさに意を新たにし、梅雨時の不快な湿気ににも何とか耐え、真夏のギラギラした照り返しに幻惑されつつ、落ち葉や山河の紅葉に風情を詠い、ちらつく雪に家路を急ぐ・・・。
 誰の目にもよくは映らない「風流」というものをしっかりと感じて、次の春を待ちたいものだ。


「地域交流会in函館の感動」

 地域交流会を行うようになってから5回目に当たる2003年度の地域交流会は、9月27日、28日の両日にわたり北海道・函館市内の「ホテル法華クラブ函館」内の会議室で、「視覚障害者のリハビリテーションと原職復帰」をテーマに行われました。
 第1日目は、湯浅幸洋氏(NEC北海道パートナービジネス営業部勤務)に「原職復帰して10年、これから」という講演をしていただき、質疑応答も熱っぽく交わされました。
 夕方から始まった交流・懇親会は深夜まで続き、翌日の観光、または「国立函館視力障害センター見学」につながり、26日に発生した道東大地震は、まるで別世界の出来事だったかのように、たいへん穏やかな天候に恵まれたもとでの交流会でした。
 企画段階では、北海道は遠く、離れているので参加者が少ないのではないかと懸念されましたが、ふたを開けてみると、九州や関西からの参加者があるなど総数50数名にのぼりました。
 ロービジョンに熱い情熱を捧げようとする若いドクターの気概、職場における人間関係の大切さを語る新妻をめとったばかりの営業主任、初めてお合いする方々、新しい出会い、ふれ会いに、そして函館ならではの「いか鮨、いか素麺」に舌つづみ打ちながら、大盛況裡に終えた感動また感動のドラマのある2日間でした。
 これらドラマを乗せた航空機の旅は、往復とも静かで安全着陸でした。
 末筆にあたり、このようなドラマの演出にご協力いただきました、国立函館視力障害センターのみなさん、入所生の皆さん、ボランティアのみなさんに紙面をお借りして深謝申し上げます。

(会長:下堂薗 保)

【函館交流会2003/09/27】
講演[1]
「ロービジョンケア・山田塾に関わって」

内容省略


【函館交流会2003/09/27】
講演[2]
「現職復帰して10年、これから」

湯浅 幸洋氏(NEC北海道支社)

 私は網膜色素変性症で全盲です。復職してちょうど10年になります。失明に至る状況、リハビリ、そして復職してから現在に至るまでをお話したいと思います。私は札幌生まれの札幌育ちです。性格は子供のころから内向的で、小・中学校のころは運動は非常に苦手、趣味はアマチュア無線や読書でした。高校時代は内向的な傾向がさらに強くなり、漫画研究会、新聞局、電気部と、どんどんおたくな方向にいっていました。これではいけないと思い、大学に入ってから山登りを始めました。山登りの基礎体力をつけようとプロレス同好会にも入りました。体育会系なのか文科系なのか、よく解らない大学時代でした。今こうやって人前でも話ができるようになりましたが、実はかなり内向的な性格で気の弱いところもあります。
 大学を卒業してNECに入社し、最初に赴任したのは秋田支社でした。そこは秋田県内唯一の拠点で、県内全域をカバーしていました。配属部署は営業でした。営業ではお客と話をして商品を買っていただき、最後に畳み込んで判こをいただくというような仕事ですから、内向的な性格の自分にはとても辛かったです。ようやくお客と話ができるようになったころ、目の方が悪くなりました。夜、車の運転ができなくなったのは致命的でした。
 そのため平成元年7月に東京に転勤となりました。東京に転勤したころは矯正視力が1.2くらいあったのですが、約1年半後、東京を離れるころには矯正視力が0.3、視野が両眼ともに5度以下となっていました。当時の認定では5級でした。この時期に主治医から病名と予後について告げられました。会社の上司も「無理するな」と心配してくれましたが、仕事をさせてくれない雰囲気にもなりそうでした。だめなときは会社を辞めればよいのだから、やるだけやろうとかなり無茶もしました。仕事は企画で報告書をワープロで作成したり出張で飛び回ったりと多忙でした。目の状態が進行して自分から「辞める」と申し出たのですが、上司は「NECは大きい会社だから、北海道の支社にとりあえず預けるから、そこで少し様子を見て」と言ってくれました。
 平成3年2月、北海道支社販売促進部に転勤となりました。しかし4カ月ほどで視力は矯正でも0.1、視野も5度以下とかなり進行して仕事がきつくなり、上司から休職するように言われました。
 リハビリをして、どうしてもだめだったら退職ということでした。会社としては障害者の人事については現場の運用に任せるということで、私の場合、現場に良き理解者がいたことがよかったのだと思います。入社して5年でしたので、休職期間は会社の規定で15カ月、医療休暇が6カ月、全部で21カ月でした。
 最初の半年は鍼の治療を受けたりして、まずは病気の進行を止めようということだけを考え、リハビリは手付かずでした。残りの期間で復職するか否かの結論を出し、会社にその意思を伝え、また復職するに当たっては自分がどういうふうにしたいか、また何ができるのかといったものをまとめておく必要がありました。
 リハビリとして一番メインでやったのが点字です。当時はパソコン通信やダイヤルQ2などの情報提供のコンテンツがありましたので、点字ができなくても情報を取得したり発信したりする手段はあるだろうと思っていました。けれど点字を覚えておいた方が役立つと聞き、点字の勉強に明け暮れました。点字に集中した3カ月間は朝から晩まで左手で読みながら、指が震えてもとにかく読み尽くそうと頑張りました。
 平成3年ころはパソコン通信が主流で、PC-VANとかIBMピープルで日々情報をチェックしていました。フォーラムなどを見つけるとパソコンにダウンロードして一日中業界の情報を読んでいました。
 そうして一応仕事ができるような気になって復職しましたが、本人の思いと周りの思いはぜんぜん違い、復職したものの仕事はありませんでした。それで腐っていても仕方がないので、自分で仕事を作ることにしました。たとえばNECの中にも視覚障害者向けのパソコンのソフトを研究しているチームがありましたので、個人的につながりをつけていました。今思うとただ仕事をさせてもらえないと騒ぐのではなく、その時点で自分のやれることを丹念に職場の人に話していけばよかったと思います。まだ若かったのと気が弱いのもあってそれができませんでした。逆に多少嫌われてもいいからやることさえやればよいと、徹底的に自分を洗脳した時期でもありました。
 営業で商売を拡げるには「人の出会い」が大切です。一緒に酒を飲んだりして人間関係ができてきます。そして電話をかけまくりました。本当に「コンピューター要りませんか」という世界なのです。単に「要りませんか」だけではなく、お客さんが抱えている問題を聞き出すぐらいはできるだろうと頑張りました。これが1年続きました。
 先ほどの「おあしす」(会長挨拶から引用)おはよう・ありがとう・失礼します・すみません、こういう人間的関係の基本は営業でもきっちりやると実績は上がってきます。あちこちへのアプローチを私が一手にやっていました。「買いたい」というお客が出てきます。即座に営業マンが受けられればよいのですが、忙しくてお客のところに顔を出せません。中間段階で情報をファックスしましょうと、つまり時間の引き延ばしなのですが、それである程度お客が獲得できました。
 北海道支社に復職して3〜4年間は下請け的な仕事をしていましたが、5年目にようやく営業もできると認められて営業のセクションに移りました。身分的には「北海道支社販売促進部」といい、本当の営業ではありませんが、営業らしき仕事をやっていました。ちょうどそのころ「2000年問題」の騒ぎが起き、新規のお客を獲得してめでたく営業に移ることができました。
 復職してからの5年間は、やってきたことがよかったのか悪かったのか判断はできませんが、とにかく周りから「仕事はできない」と思われていると思いこんでとんがっていました。ただ、感情的に言っても面白くないですから、こうやったらできると自己分析し、カタログにしても、製品事業部に事前に話をしてポイントをチェックしていました。とにかく周囲を「仮想敵」にして行動していました。人としてよくない気がしますが、それぐらいの気合いというか思い入れがないとあの時点でつぶれていたように思います。
 ちょうどこの5年目までがタートルの会から出版された『中途失明〜それでも朝はくる〜』という本の中に書いたままの人間でした。こうやって淡々としゃべっていますが、営業に移ってから今に至る5年間は我ながらちょっと異常でしたし、周りもそれに引きづられて対応がちょっと変だったと思います。
 結論としては仕事はできると思っています。営業の仕事を分析してみると、最初の出会いが重要であとはお客とのやりとりがすべてなのです。そのやりとりは当然目が見えなくてもできるはずです。
 しかし単に話ができても取引には資料が必要です。会社にはカタログがありますが、足りないときは音声パソコンで資料は作成できます。どうしても見栄えが悪いときは見える方に体裁を整えてもらい、判こを押して提出することもあります。取引先に「すぐ来い」と言われたときは、歩行訓練を受けていますので、最初の1〜2回は誰かと行きますが、慣れれば一人で行きます。ただ面と向かったときに、相手の顔色や目の動き、そういう呼吸が計れません。何のカタログか、何ページに何が書いてあるか説明できません。自分なりにまとめた文章を書いても誰かが整え直して手間をかける、そうなると一人前ではない。非常に悔しいですが文句は言えません。人間関係がうまくいっていれば話を持っていけますが、この時期私はかなり突っ張ってトゲトゲしていましたので当然上司ともうまくいきません。言えば言うほど否定されていく感じで、悪循環になっていました。しかし一人でできないことも物理的にあるわけで、やっぱり誰かにお願いする、その代わり手伝えることは徹底的に手伝い、「お互い様」というチームワークでやれば問題はなかったのです。
 その後、部署も替わり正式に営業部門に配属になりました。上司や同僚も変わり、仕事もうまく回り始めました。やっと理想的な職場環境になりました。彼らも私を調子に乗せる気はサラサラないし、私も素直に相談できるようになったのです。頑張って勉強していますが、できないこともあります。一つの客でも販売店でも全面的に1人でやるのではなく、2人とか3人でチームを組んで複数の客と販売店を担当する形になって非常にやり易くなりました。人間的に良くなったのではなく、すぐ調子に乗るんです。仕事ができて実績が上がってきたら、やっぱり天狗になっちゃいました。
 もう一つ転機があって、去年縁あって結婚することができました。結婚して、自分一人ではなく家族を持つということが、自分がどうしてあげられるのか、家族が幸せになるためにどうやればいいのか、39歳にしてようやく気づいた次第です。そして気づいたのが「会社の中での自分」です。部下というにはおこがましいですが、一応そういう人間もいますので育てていかなけれはいけない。そして、後輩たちが仕事をやり易い環境を作っていかなくてはいけない。営業として数字を稼ぐだけではいけないと思うようになりました。
 復職5年以降をメインテーマとしてお話したいと思っていたのですが、今こうやってまとめながら話していくと、話すネタもなくて情けないです。でも復職は簡単なことではないのです。最初はどうしてもしゃかりきに「自分が自分が」となって、これはある意味仕方ないと思います。そして思い通りにならない人がいるのも仕方ないと思います。ただ、いつまでも対決姿勢ではどちらもしんどいです。お互いに協調していくことを考えて復職できました。ただ、会社で「あと何年もつか」という問題がでてくると思っています。
 復職して10年で思ったのは「周りとの協調」です。自分が丸くなるとか、自分の志を曲げるということではないのです。{仮想敵}の中で自分が一人孤立無援で頑張っているという意識ではなく、周りと一緒に動いている。さらに、ふと気づくと自分の後輩たちも育てていかなければいけない。意識を自分からどんどん拡げていかないと、復職後の長い時間は厳しいかなと思います。復職10年、今年40歳で会社人生はあと20年。不況といわれているIT業界ですので、たぶん45歳になると1回目の肩叩きがくると思うのですが、何とかはねのけて、あと何年やっていけるか頑張っていきたいと思います。そのためにも、あまり突っ張ったことはやめて、とにかく長くしっかりやっていきたいと思っています。

<質疑応答>

○工藤(千葉)
 休職、そして復職時には診断書を提出したのでしょうか。診断書の内容についても教えてください。点字の訓練以外にリハビリテーションはどこでどのように受けられたのでしょうか。

○湯浅障害者
 とりあえず人事的に話がついた後で儀礼的に診断書を出します。産業嘱託医に事情を説明して、人事から診断書のフォーマットが来ます。この診断書のフォーマットというのも、あまり細かいことを書かないで「就労可能」と一筆書くだけのものです。私の診断書は「網膜色素変性症、視野0、視力0、就労可能」という、非常に怪しいというか、多分NECだけではなく、ある程度以上の規模の会社というのは、そういうパターンではないかと思います。だから、制度的な面で言えば、そういった会社は、法的な縛りも逆に出てきますから、多分、否定できないと思います。その書面自体はあまり問題ないと思います。結局、その前に人事に話をつけていく根回しの方がきついかなと思います。点字は札幌市の点字図書館で五十音表を作ってもらい、まず読んで、その後はひたすら本を借りて読みました。歩行訓練は北海道盲導犬協会の方が出張でみえて、訓練を受けました。週1回程度です。半年間まずやって、冬場にまた3カ月くらい受けました。当時函館の視力障害者センターや盲学校は、何箇月というレベルでの受け入れはなかったと思います。ローカルレベルで短期的なものを探しながらやっていきました。

○下堂園(東京)
 精神面で支えとなったものは何でしょうか。

○湯浅
 それは半分のろけていうと結婚し、人生のパートナーができたということですね。あと職場の中でも人間関係ですね。人って財産です。だからふと気づくと、職場にも心の許せる人間がいる。これがあったので、逆に私は力をもらいました。でなかったら一人で突っ張っていて、力尽きていってポトンという感じだったかなということです。

○松坂(横浜)
 営業ということで、お客さんと接する機会が多いと思いますが、全盲ということをお客さんに対して、どういうタイミングで話していくかということと、もう一つ、何か失敗談があれば教えてください。

○湯浅
 お客に対して「見えません」とは、最初はなかなか言えなかったんです。初対面の挨拶の時点で白杖を持っていますから、先方の方も「あれっ」ていう雰囲気だったんですが、名刺を渡しながら、「全然目が見えないので、ちょっと怪しいと思うか知れないけど、よろしくお願いします」と言い出せなくて。お客もこちらに聞けなくて、しばらく付き合って、酒でも飲んでいるときに「前から気になっていたんだけどさ」と深刻な話になったことが何回かあり、こちらから「サラッ」と言うと、先方もどう思っているか知らないけれど、「サラッと言うなら、サラッと受けておこう」という、それで違和感は持たれていないみたいです。次から平気で鬼みたいなこと言ってきますから。見えなくて失敗したということは、お客のところに行く途中で迷子になったり、帰る途中迷子になったり。お客がいないと思って担当者の人に、「だめですね、ああいう人」とか言ってしまったり、うかつな失敗は何度もあります。

○武(東京)
 見えなくてもお客との間で信頼関係を持つために、一番心がけていることを教えてください。

○湯浅
 気を使っているとしたら、とにかく先方に信頼してもらうために、こちらで的確な情報、少なくともこちらが会社の立場でものをしゃべるときには、間違いがないようにします。万一間違えたときにも、「その責任は問いません」という態度は常に示したということですね。できるだけこまめに電話とかメールですね。何か事ある度に、「ウイルスが流行っていますが大丈夫ですか」とか、タイムリーにこまごまアプローチしています。お客が「便利な奴かもしれない」と思えば、ある意味成功かなと思います。その2つを注意してやっています。

○鈴木(千葉)
 会社の中で受けられているサポートがありましたら教えてください。機器面や人的な面など、制度的なもの、また制度上にはないものもお願いします。

○湯浅
 確かにNECの規模がでかすぎるんで、多少ずれているところもあるんですけど。制度的な面で受けている支援は、情報機器です。会社で使っているパソコン、音声ソフトの関係が最初は会社もよくわかっていなかったんですが、理解して、助成制度を使って通常のパソコン以外のものを補助金で購入してくれます。仕事で使うための機器は肩身が狭い思いをしないでくださいという形です。人的支援に関しては、どうしても雇用が絡みますから、助成制度を使ってサポートを付けると、どうしても社員としてカウントしなくてはいけないらしく、これはありません。逆に職場の人がちょっとカバーしようと。この辺は人間関係でやっている状況です。

○和泉(函館)
  『ヒューマンアシスタント制度』の話だと思いますが、日本障害者雇用促進協会が握っているところです。

○堀(大阪)
 私は2年間の休職のあと、この8月から復職しました。大阪ガスという会社ですが診断書については湯浅さんがおっしゃったようにフォーマットが決まっています。ぼくは全盲じゃなく、状況を書いて一応「就労可」ということで、会社の職務の性質上、○をつける欄があって、「宿直はだめ」とか、「自転車、自動車に乗るのはだめ」とか、主治医がそこまで書いて会社の産業医と面談してOKとなります。人事部はもともとOKで、後で診断書を出すという形でした。それで湯浅さんに質問ですが、障害者雇用という面で、この10年間、視覚障害者を雇用する動きは増えているのでしょうか。

○湯浅
 おかげさまで前向きになりました。私が復職して三年くらいして、湯浅という全盲がいるということで、先天の全盲の人に面接を受けさせ無事に入社しました。今彼は別の会社に異動しています。今までだと色変で目が悪くなると片隅に追いやられ、辞めてしまうことが多かったわけですが、逆に職場全体で徹底的に支援をし、OSの国際資格を取るところまで押し上げられ、今は技術部門のほうでバリバリやっています。私がきっかけというわけではないでしょうが、1人が2人、2人が3人、そのうち会社としても抵抗感がなくなってくる気がします。

○新井(東京)
 営業のような仕事はどうしても人と対応するのが大変だという古い頭があって、今日のお話は考えさせられるいい問題提起だったと思います。営業という、お客さんと付き合いながらの仕事は、いろいろな会社でたくさんあるので、こういう部分を開発できればすごいと思います。目の見えない者が営業をする際のポイントをもう一度お聞かせいただければありがたいのですが。

○湯浅
 確かに営業というのは、本人の性格もあるので一概には言えませんが、私の個人的な意見だけで言わせていただきます。結局人間と関わるきっかけがすべての始まりとなる仕事ですから、基本的には挨拶ができることです。次に、売りたい物の知識を持って話ができることです。そして売るためには売りたい物の話だけをしても意味がないので、先ほどの「キシニタテカケル」ではないですが、ある程度世間話ができるようになることです。そして何よりも、営業という仕事に興味を持つことです。人と会うことが嫌な人には酷なので、それが楽しいという気持ちを持っていることが基本だと思います。もう一つはハングリー精神です。私が営業に戻ろうと決めたのは、営業が一番自分の身を守ると思ったからです。ご存知の通り営業にはノルマがありますが、逆にいうとノルマの線をクリアしておけば、どんなに嫌なやつでもよっぽどのことがない限り、首にはできないというシビアな計算もありました。私は本当にこれでやっていくという気持ちが必要だと思います。

○和泉(函館)
 昨年夏に函館視力障害センターで、湯浅先生に講演をしていただきました。その際、どうやって人を使うかという発想をしなさいというお話をいただきました。いろいろな人と付き合い、自分の仕事と関係ない人も自分の輪の中に入れ、この人ならやってくれるだろうと簡単な目星をつけるという話でした。やはり人付き合いが好きでないと営業は難しいと思います。

○鈴木(長崎)
 私も山田先生に勧められ復職をし、おかげさまでこの1月の定年まで勤めることができました。湯浅さんの10年の話を聞いて、私より長いと思っていました。復職するときは、山田先生はじめ工藤先生などいろいろな応援があり、自分も精一杯前向きに会社と戦いエネルギーを使いました。湯浅さんはあと20年間継続勤務をしていくわけですが、復職後の継続勤務では波風もあるし、自分自身の問題以上に周りの圧力があります。ほとんどが転勤者なので、理解のある人やない人がいて、理解のない人が上司の場合は、目に見えない嫌がらせがあります。それを跳ね除けて勤務していくのは大変だと思います。
 10年歩んでみて、自分の成績が上がらないで落ち込むのは解決できますが、それ以外の圧力のようなものもあると思います。そういうものを牽制する、あるいは職安から定期的に会社のほうに報告があるなどの支援があるのか教えてもらえればと思います。

○湯浅
 私の会社も人が変わるところですから、上司が変わって風向きが変わるのは仕方ないと思っています。逆にいつまでもその上司が居座るわけではないので、いなくなるまで待つしかないと思っています。密かに頑張って昇格試験を受けるチャンスがあれば、意地でもゲットしてなんとか這い上がる、この二点だと思います。ただ牽制というのはどうでしょう。外部からの牽制があれば心強いですが、へんな上司のときにそういう牽制があると、逆効果になることもあるので難しいと思います。

○和泉(函館)
 障害のあるなしではなく、組織の中にいれば似たようなことは常にあると思います。自分が活きればいいと考えています。

○大脇(千葉)
 私もベージェット病で視力ゼロで49歳です。営業をやっていましたが、湯浅さんと少し違うのは、技術のない営業といいますか、車の免許だけという営業で、あとは口八丁手八丁でなんとかやってきました。目が悪くなったことで営業をリタイアし、今は会社のパソコンと向かい合っています。湯浅さんの顧客の修理などのデータに対してNECという会社、あるいはその職場からメンテナンスに関するサポートなどの情報提供が行われていると思います。あるいは新製品などの案内も、ダイレクトメールなどからいっていると思いますが、湯浅さんが携わった客は今後も湯浅さん指名でかかってくる可能性があると思うのです。極端に言えば飯の種で、これはとても大事なことです。この客に対して晴眼者や健常者にはできない細かいフォローや、欲しい商品の情報提供をメール配信するということはしているのでしょうか。

○湯浅
 やっています。特に業務系のコンピューターなので確かにネタはあるんです。「ウィルスが流行っていますが大丈夫ですか」、「かかってしまった場合はこうしたら駆除できますよ」など、余計なお世話のところまでネタを提供するようにしています。


【職場で頑張っています・その1】
リスタートから5年

坂上 実

 一昨年の6月、42歳10カ月で2度目の新入社員となりました。中堅建設会社の東京本社・人事部勤務。いうまでもなく視覚障害有り(色変、手帳2級)。
 求人票はネットワークの管理および社内システムの開発となっていたので応募したのですが、結局2年5ヶ月経った現在も人事部にいます。
 私に与えられた業務は部内システムの開発。現在は主にイントラネットサイト(社内ホームページ)の作成およびメンテナンスをやっています。一緒に人事部サイトを管理している女の子にまず言われた事は、「見た目が悪ければ誰も見てくれない」でした。また、上司は、帳票名の上にマウスポインタが乗ったらポップアップで説明を表示するようにとか、Q&Aはキーワードにより検索できるようになど、ホームページ初心者の私に最初から難しい注文を付けてくれました。
 まあ、一応元技術屋の端くれですので、勉強しながらやらせてもらえれば技術面は何とかなると思っていました。それよりも私の視力で自分で作成したページの確認ができるのか心配でしたが、画面を拡大したり色を反転させたりしながら、1ピクセル単位で細かいところまでしっかりレイアウトしています。ただ、視力を使って文字を判読するのはきついので、内容の確認は基本的に音声で行っています。
 実際にページを作るようになって困った事は、色(特に淡い色)をうまく使えない事でした。最初のうちは原色ばかり何色か組み合わせて使っていましたので、案の定「見た目が悪ければ…」の女の子に指摘されてしまいました。自分でも何とかしたいと思ってはいるのですが、自力ではどうにもなりそうもありません。それならその女の子に設定してもらおうと考え、色を簡単に変更できる仕組みを組み込んで、色を自由に変えてみてくださいとお願いしました。そしたら隣の女の子まで引っ張り込んで二人で楽しそうに設定してくれました。その時に教えてもらった色の使い方が私の現在の配色の基本となっています。
 今では営業本部や総務部のサイト、それにWeb版社内報などにも関わらせてもらっています。また、隣の部署からアクセス数が分かるようにしたいという話が聞こえれば、上司の許可も得ずに勝手にお手伝いさせてもらったりしています。私にとって幸いな事に、情報システム部門のレベルがそれほど高くないので、かなり好き勝手やらせてもらっています。周りをちょっと見渡しただけでも私が関われそうなものがまだまだたくさんありそうなので、これからもいろんなものに関わっていきたいと思っています。
 前の会社を解雇されて5年になります。会社を辞め、家族とも離れた事で、それまで引きずってきた全てのものを断ち切れたように思います。もう一度働けるのかすごく不安でしたが、何とかここまでくることができました。最近やっと気持ちに余裕ができて私生活を楽しめるようにもなりました。私の人生まだまだこれからです!


【職場で頑張っています・その2】
「視る力」

堀 康次郎

 2年間の休職の後、この8月から会社に復職した。病名は、両目ともブドウ膜炎・脈絡膜変性。症状は、中心部視野欠損、視力は0.05程度。
 中心部が見えないということは、その人が誰だかわからない、字が読めない、画がわからないということである。逆にドーナツ状に見えるということは、通常の生活や歩行には、さほど困らないということである。しかし、当時は一応管理職だったことから、資料やパソコンの文字が読めないことは致命的であった。
 復職に向け、この1月から7カ月間、日本ライトハウスに入所し、パソコンを中心とした生活訓練を受けた。スクリーンリーダーを使って、メール、ワード、エクセルからパワーポイント、アクセスまで、ある程度習熟できた。そして、これまでの知識・経験が活かせる業務についても上司の力添えもあり、ある程度目途が立ち、復職したわけである。業務は、デジタル化された基準・マニュアル類の活用を推進するための整備である。
 ライトハウスでは、拡大読書器はほとんど使わず、パソコンの画面も授業以外はなるべくつけずに操作した。これは、画面を見ていると、短時間で目に疲れを覚えたことと、これ以上目を悪くしたくないとの自己防衛によるためである。
 復職して3カ月、会社生活にも徐々に馴れ、社内メールによる情報の授受のためのパソコン操作も順調にマスターしてきた。しかし、慣れるにつれ、文字が読めたら、画が理解できたら、以前のようにさまざまな仕事が楽しくできるのにと感じるようになったのも事実である。だが、拡大読書器やルーペは一時的に使うことはできても、業務でコンスタントに使うのは無理だとあきらめていた。
 しかし、天は我を見放さなかった。ウルトラマンが現れたのである。それも立て続けに、4人も。まず2人、京都の眼科医である塚本慶子先生、国立神戸視力障害センターの原田敦史先生である。8月、新大阪での原田先生主宰の近畿ビジョンサポートによるロービジョン講座の場であった。
 塚本先生「目は使っても悪くはならない。目=脳だから、脳を使えば脳が悪くなるなんてあり得ないでしょ。ただし、何でもそうだけど、過ぎればダメ。飲み過ぎ、食べ過ぎと一緒よ。」
 原田先生「自分の見え方を知っているロービジョナーは本当に少ない。ほとんど見えないと思っている人でも、かなりの{視る力}を保有している場合が多い。要は自分の力をまず知って、意識して{視る}ことが重要。まったく見えないことと、少しでも見えることでは、生活において、天と地ほどの違いがある。」
 この講座は、定例のもので、眼球運動、昼間・夜間歩行指導が主なメニュー。人にぶつからなくなった、看板や標識が見つかりやすくなったなど、喜びの声をあげる参加者は多い。歩行者信号や案内標識の設置場所には、当然ルールがあることを聞かされ、「なーるほど」であった。
 この近畿ビジョンサポートのスタッフは原田先生以外は、塚本先生、原田夫人、野村礼子さん、渡辺憲子さんと女性パワーの集まり。コワーーイ!
 さて、3人目は国立函館視力障害センターの山田信也先生。10月5日「世界網膜の日in大阪」での講演会の場でした。
 山田先生「拡大読書器を1日8時間使えて、書き読みできるようになる。それも、1分間300文字は当たり前で、500文字の人もいる。当然、直ぐにできるわけではない。まず、15分やって5分休むからはじめて、段々時間を延ばしていく。まさにインターバルトレーニング。1日8時間というのも、8時間ずっとではなく、1時間に5分休んで、8時間ということ。実際、1日の仕事で文字を読むのは、せいぜい4時間程度。8時間できるという自信が、余裕を生み、疲れも感じないのです。国家試験も十分OK。そのために8時間、1分間300文字を目標にしている。」
 この後、拡大読書器を使っての実技指導を受けた。まず、書くことからはじまる。罫線に沿って、ヨコ・タテに線を書く。ポイントは、一点を見続け、決して目ン玉を動かさないこと。次に新聞を使っての読み。いかに操作台をスムーズに動かせるかと言っている間に、30分経過、全然目に疲れがない。へーって感じ。そして、最後に胸をえぐる一言。「堀さん、パソコンと拡大読書器が使えれば、管理職に十分戻れますよ。」 感激!
 そして、トリは、京田辺の森田茂樹さん。11月の初めに自宅を訪れた。
 森田さん「拡大読書器は、据置タイプのもので十何種類ある。粗悪なものも多いので、自分でさわってみて、決めるべき。何も知らずに、口のうまい営業マンに乗せられて決めてしまうケースが多すぎる。そして、使わずに置物になっている。障害者の補助制度でタダのせいもある。ポイントは、レンズはそれほど優劣はない。操作台がいかにソフトに動くかである。僕のベストスリーは、タイムス、ナイツ、ベスマックス。
 何故、拡大読書器で目が疲れて、いわゆる読書器酔いをするのか。それは、1字1字を一所懸命見ようとしているからだ。思い出してごらん。目が良かった時に、そんなに頑張って字を見ていなかっただろ。ぼーと流しながら読んでいだはずだ。目がいいときにぼーと読んでいたのに、目が悪くなると、一所懸命見る、逆じゃないか。悪くなれば悪くなるほど、もっとぼーと見るべきだ。それでも十分にわかるはず。ただし、目は動かさないこと。目を動かさずに、1文字がはっきりわかる大きさで、ぼーと流せばいい。」
 森田さんは、来年の手帳の記載は、視野ゼロになるだろうという。その目で、本をかなりのスピードで読み、原稿用紙にきっちりした字を書いて見せてくれた。そして、余興として、原稿用紙の1マスにアルファベットのa〜zの26文字書いたのである。あっぱれ
 そして、ウルトラマンたちは、異口同音に、次の言葉を残して、ヴァルタン星?へ帰って行った。
 「ロービジョンの皆さん。まず、自分の保有する{視る力}がどの程度であるかを知ってください。将来の憂いに備えての訓練は空しいだけです。今、ここで、{視る}ことのためにできることをやっていきましょう。自分で工夫してやってください。道のりは簡単ではありませんが、あきらめずに工夫を続けてください。そして、本を読み、手紙を書き、ひとりで歩いてください。これが第一歩であり、そのうえで、パソコンができれば最高です。わからないことや疑問があれば、悩まず我々に相談してください。いい工夫ができたら教えてください。我々は、いつでも待っているのです。
 リハビリテーション施設で勉強中の人は、{視る}訓練を先生に要求してください。それにより、いい先生がおおく育っていくのですから。」
 ウルトラマンの話はここでお終い。
 準備ができたときに、教師は現れる、僕に準備ができていたかどうかはわからないが、このたった3カ月の間に素晴らしい教師に出会ったことは確かだ。「目は使っても悪くならない。拡大読書器は、やり方が適切であれば何時間でも使える」。まさに目から鱗が落ちるとはこのこと。パソコン技術の進化は、視覚障害者の就労にとって、とてつもない福音である。そのパソコンに関しては、ある程度、マスターできた。順序は、逆になったが、今度は、{視る}ことをやっていこう。道具はあるし、理屈も頭ではわかった。教師も後ろに控えている。すべてのお膳立てが完了した。
 8時間・300字を目標に、真の意味での{原職への復帰}を目指して、もおー、やるっきゃないねえ。


お知らせ

●新刊本発刊のご案内
書名:「中途失明II〜陽はまた昇る〜」
価格(税込み):墨字本1200円、FD/CD 1000円、墨字&FD/CD 1700円
問合せ先:(株)大活字tel:03-5282-4361

●2004年1月交流会
日時:2004年1月17日(土) 14:00〜16:30
会場:日本盲人職能開発センター
講演:水田 靖士氏(埼玉県総合リハビリテーションセンター歩行訓練士)

●第9回定期総会
日時:2004年6月12日(土)
会場:未定
講演:日野原 重明氏(聖路加国際病院理事長)


編集後記

 「タートル」のパソコン編集作業は3年間、吉永俊一氏が担当してくれていました。初版本『中途失明〜それでも朝はくる〜』の表紙デザインや装丁をしてくれたデザイナーです。今回の30号から「トライアングル西千葉」にお願いしています。吉永先生、ご苦労様、そしてありがとうございました。
 障害の受容ということをよく言います。この受容には2つあります。1つは{自己受容}です。もう一つが{社会受容}なのです。南雲直二氏は「自己受容は障害者を隘路に導くものであり、社会受容こそが活路を開くものだ」と述べています。
 このたび『中途失明II〜陽はまた昇る〜』を発刊しました。初版本は視覚障害者の手記をまとめた、当事者に勇気や励ましを与える{自己受容}を促す内容でしたが、今回のものは視覚障害者を受け入れる、社会に理解を求める{社会受容}をねらいにしています。
 私ども「タートルの会」の交流会の内容は、「自己受容」から「社会受容」へといつの間にやらシフトしていたことに気付かされました。南雲氏の考え方を学びたいと著書『社会受容ー障害受容の本質」を読んでみようと思っています。
(事務局長:篠島 永一)

中途視覚障害者の復職を考える会【タートルの会】会報
『タートル30』
2003年12月15日発行 SSKU 増刊 通巻第1309号
■編集 中途視覚障害者の復職を考える会 会長・下堂薗 保
■事務局 〒160-0003 東京都新宿区本塩町10-3
     社会福祉法人 日本盲人職能開発センター 東京ワークショップ内
     電話 03-3351-3208 ファックス 03-3351-3189
     郵便振替口座:00130−7−671967
■turtle.mail@anet.ne.jp (タートルの会連絡用E-mail)
■URL=http://www.turtle.gr.jp/


トップページ