会報「タートル」22号(2001.12.13)

1998年10月9日第三種郵便物認可(毎月3回8の日発行)
2001年12月13日発行SSKU 増刊 通巻第627号

中途視覚障害者の復職を考える会
タートル 22号


【巻頭言】
不安定から安定へ

タートルの会:会長 下堂薗保
 21世紀という新世紀の幕開けに何かすばらしい出来事があるのかなと期待して新年を迎えましたが、現実はリストラ・首切り、雇用不安、将来設計への不安などの社会不安が増大している状況です
 運悪く視覚障害者になってしまった私たちは、・自分自身の不安感、・雇用関係の不安感、・家族や社会との関係での不安感に相対しなければなりません。経済不況が続く中、雇用関係の不安感が増加しており、場合によっては最悪のケースに至ってしまうことも懸念されます。
 また、業務遂行冗、音声対応の情報機器を既存のネットワークにアクセスしなければならないことも多いわけですが、音声ソフトが既存システムに対して悪影響を及ぼす恐れがあるなどと、音声対応の導入をシステム管理者側に阻止されるなど、せっかくの情報機器が視覚障害者のために活用され得ないという、排他的な由々しき事態も起きております。
 これら排他的な偏見・差別現象が起きるのは、「見えない」=「何もできない」という思いが古くから、視覚障害者自身もそうであったように多くの健常者世界の中に常識として残っているものであり、今日の情報危機を活用して働ける実態がよく知られていない側面があるためであろうと思われます。
 私たちが安定した生活の実現を図るために、 などにより、安定の道を切り開けないものだろうかとの思いでいっぱいであります。

【職場で頑張っています】

吉原 学(横浜市・中学教員)

緑内障 視力:両眼とも光覚弁
年齢、42歳。七沢ライトホームで生活リハビリを受ける。後に盲導犬の訓練を受けて盲導犬と共に通勤。2001年5月に復職を果たす。

 新潟交流会(2001/11/17)は大盛況だったようですね。ちょうど、交流会の日は、12年前の中学3年生のクラスの教え子の同窓会に招かれて昔話に花を咲かせていた時でした。その頃の私は、まだまだ、元気だったので、さすがに、私が盲導犬と一緒に姿を現すと、会場は一瞬、静まり返ってしまいました。ある程度は伝え聞いて知っていたようですが、驚きは隠せなかったようです。
 それでも、昔ながらの口調で挨拶などすると、みんなホッとしたようでした。「先生は変わらないですね。目が見えなくなっても、相変わらず直球勝負ですね。昔も思ったけど、たまには変化球を投げてごまかせばいいのにね。」そんなことを言う生徒もいました。ソフトボール部のレギュラーの半数ほどが飛び入り参加してくれて、27歳になった教え子との酒を飲みながらの語らいは、なかなか、楽しいひとときでした。
 ところで、仕事の方ですが、先週の月曜日に、校内人権研修会というものがありました。私は40名ほどの教職員の前で、「視覚障害者の思いと視覚障害者を取り巻く環境」について話しました。そして、今週の木曜日、金曜日と、中学校1年生の各クラスで道徳の授業をしました。勤務している中学校は1年生7クラスあって、一通り道徳の授業を試させてもらえることになったわけです。
 今週は3クラスで授業をおこないました。「障害者理解」をテーマに授業を展開しました。3年ぶりの教壇で、さすがに緊張感はありましたが、簡単な挨拶をして、授業を始めると、知らず知らずのうちに熱っぽく語っていたようです。ここ2年間ほどは、再び教壇に戻ることを夢見て、訓練などに励んでいただけに、試しの授業とはいえ、やり終えた後は、感慨深いものがありました。
 自分としては、ほぼ思い描いていたような授業は出来たものの、やや、時間が足りなくて、まとめが不十分だったようにも思えました。ところが、空き時間を使って見に来てくれていた先生方や、何人かの参観していただけた保護者から温かい言葉をもらえました。「落ち着かないうちの生徒が、こんなに集中して話を聞いているなんて、驚きですよ。」とか、「いい話をありがとうございました。子供たちも生き生きと体験学習に参加したりしていました。」」などの感想ももらえました。
 生徒指導に追いまくられるような中学校で、、見えない私がどこまで単独で授業ができるのだろうかと、正直いって心配でした。ところが、授業が始まると、結構、私の呼びかけにも反応してくれたし、ちょっと頼むと数人がすぐに手伝ってくれたりもしてくれました。もちろん、物珍しさが生徒を引きつけた大きな要因であるのは確かだとは思いますが、やっぱり、子供は純粋です。本物や真実には食らいついてきてくれます。逆に、まやかしやうそやごまかしには乗ってくれません。
 授業を終えた後に、生徒と本気で接するのはエネルギーがいるなと実感しました。いつもこんな授業ができるとは限りませんが、ある程度の授業は工夫や準備があればできそうな気がしました。
 今は、研修の身であろうが、私へのテストであろうがなかろうが、授業を試させてもらえたことに感謝しています。残念ながら、校長は、「見に行きますので、頑張ってください。」と私に言いましたが、今週の3時間のどの授業にも顔は見せていなかったようです。授業を見た先生方はほんの一言でも必ず感想と励ましをくれました。校長は授業後に何も言いません。「あなたに一体、何ができると言うんだね。」と言っていた教育委員会からは誰も来ませんでした。
 でも、満足しています。私にできることは精一杯やったつもりです。後は、校長や教育委員会がどう評価し、どう判定するかだけです。これは、運みたいなものだと思っています。なるようになるでしょう。というわけで、思いつくままに書いてしまいました。来週の4クラスに全力を尽くすだけです。
 近々、生徒の感想も私の手元にそろうようです。ちょっと怖いような気もしますが、楽しみでもあります。


●連続交流会記録 その1 2001/9/22

【こんな仕事をしています 第2弾】
「パソコンを活用して新しい仕事にチャレンジ」

進行:新井愛一郎
パネリスト:小宮慶太 古木達雄 伊藤敏明 高木一幸 弘伸子

パネリスト1

小宮慶太 年齢45歳。勤務経験は、今の職場だけ勤続20年。 眼疾は慢性緑内障です。じわりじわりと症状が進んでいく病気でして結果的にその病気を発見することが大変遅れてしまって、いわば放置をし、本格的に治療開始をした時には右目の方が失明状態。それで93年ぐらいから仕事の方がだんだんきつくなってきました。
 法務省認可の公益法人で、仕事は企業法務。企業が事業活動を行うに当たって関係する法務関係の情報を、1つは雑誌の発行、1つは単行本等の出版、もう1つはいろいろな研究会等を組織する。あるいは企業法務関係者の集まりの事務局を私どもが預かって運営をする。官庁から、法務関係にかかわるようなさまざまなテーマについての委託調査を受けている。

【それで、私は何をしていたか】
 法律雑誌、編集を大体8年ぐらいやってました。少人数でやっておりますので、実際には何でもやるといういことです。その中でも文字校正というのは非常に大きなウエートを占めます。視機能の方に障害が出てきますと、大変つらくなる。
 それで自分で自信がなくなってきて会社の方に打ち明けまして、実質的に仕事を余りしないというようなことが1年間ありました。その後校正作業ができなくなったものですから、配置がえをこちらからお願いしたわけではないのですが、そういう検討をしてもらって、今の部署に配置がえになりました。

【仕事の流れ】
 私が所属しておりますセミナー部門、そこの部員数は私の上司と私と女性の社員、アルバイト。セミナーのタイトル数は年間に140〜150本(そのうち50から60担当)ビジネスに関係ある法律問題、そういったものを取り上げるわけですが、まず情報が必要なわけですね。企業で今、実際どういう問題を抱えているのか、その情報源というのは第一次情報として、まず新聞です。特に日本経済新聞、そこで出しておりますさまざまな専門誌。諸官庁から大量に出てきます報告書類。法曹関係の情報。判例雑誌。ビジネス雑誌、経済団体から出てくるペーパー。それとあと実際の個々の企業の情報については、電話取材。
 さまざまな媒体、メディアを、視覚に障害を持ちながらどのように情報を得ているかということですが、日本経済新聞については、日経テレコンというデータベースがあります。パソコン通信経由で、具体的には「マイトーク95」という通信ソフトをかませて、そこからとっています。それでこれについては、住商リースという代理店にお願いをして契約してます。視覚障害者向けのサービスで、3日間分の記事についてキーワードを入れて検索できる。そのサービスとあと普通の新聞、通常の検索のものに限って利用する場合について、月額7,500円で使い放題というサービスがあり、それを活用してます。
 各雑誌。最近は非常にインターネット経由でいろんな情報がとれるので、例えば官庁の情報については相当程度ホームページに載るようになりました。それから裁判所の判例も、もちろん全部ではありませんで、ごく一部ですが、毎日たくさん判例がホームページにアップされます。
 それから、各官庁から出されるさまざまな報告書等についても、全文はPDFファイル形式、いわば画像情報で入る場合が多いのですが、HTML形式で、テキストに簡単に落とせる、PDFもテキストに今簡単に落とせる。その音声ソフト、そのまま直接かませて出るようなスタイルで出てくる形でとれる情報も相当ある。そういう意味では視覚障害者にとって、情報収集の環境が数年前とは激変して非常によくなった。
 それからさまざまな経済雑誌、これは例えば、拡大読書器を使って読むとか。ただ、私の場合1ページ読むだけでも大変疲れてしまって、拡大読書器を長い間使えないんですが、必要なものはやむを得ずそれを読む。
 さらにもっと深く読まなくてはいけないものについては、スキャナーを使ってOCRソフト上に落として読むということもしています。OCRソフトについては、ウィンリーダー・プロを使っています。
 例えばいろいろパーティーに出て、出席者の皆さんの顔が見えない、コミュニケーションをとりづらいとか、そういったことは皆さん共通の問題でありますので、これは実は私にとって大きな問題ではあるんですが、その辺は割愛させていただこうと思っております。

【職域としての可能性】
 もし職場の中で分業体制がきちんとできていて、目を使ってやらなければできないことについてはほかの方がやってくれる、サポートしてくれるという体制がとれれば、中途視覚障害が自分が今まで身につけてきた知識、そこを専門化させていくということによって何らかの活路が見いだせるのではないのか。あくまでも中途であるということで、それまでのキャリアを生かすチャンスというのがあるんじゃないかな。それはそういうナレッジを活用するという分野で大いにあり得るんではないかな、私が多分実践、多少なりともやっているのではないかなという気がしております。
 研修や人材育成の分野は、、あくまでも一般論ですけども、今後、重要かつ拡大していくと思われます。そこではナレッジが勝負どころだと思います。従って、私のような仕事に携わる人も今後出てくるのではないかなという気がしています。
 実際、同じような仕事をされる方にタートルの会のメンバーもいます。

パネリスト2

古木達雄 年齢50歳、民間企業でスピーカーの輸入卸を担当。目の症状は、4年前の障害者手帳取得時は、左が0.07、右が0.05で、黄斑部変性中心暗点。現在視野がちょっとその時よりも悪くなっているかなと自覚している状況。

【具体的な仕事】
 毎月1度、国内営業の担当者と会議を持ち、そこでスピーカーの発注台数(発注先はイギリスとスウェーデン)を決めて、私がその発注書を作成し、相手に電子メールの添付書類として、毎月1度出す。あとその発注したものの入荷の荷役の方もほかの課員と一緒に担当しています。
 コンピューターについては、17インチのディスプレイを使用。ズームテキスト=Level2の英語版を使っています。拡大読書器はナイツのオートフォーカスのVS−3000AFを使用。拡大読書器で書類を毎日見ながら、一方でパソコンの方に数字を移行したり、日本文を頭で翻訳してパソコンで打つということで、非常に疲れる作業、それが日々の仕事です。
 4年前に上司の方からリストラのような扱いを受けまして、いろいろ悩んだあげく、以前NHKの「視覚障害者の皆さんへ」というラジオ番組を聞いてタートルの会の電話番号を書きとめておいたので、わらにもすがる思いで電話をしました。その年の10月に、幕張の障害者職業総合センターで研修を受け、ひと月の予定を1週間で切り上げて会社に戻りました。パソコンはマルチプランとか文書プログラムは使ったことはありましたが、マウスを使ってやるというのは全く初めてでした。ですけど、パソコン自体は嫌いではなかったので、すぐに仕組みはわかり、会得できました。
 そのときもいろんな方々のご支援をいただきました。社内に保健婦さんが1人いらっしゃいまして、その時にお世話になりました。いまだにその人に何かつらいことがあると相談に行きます。今の会社に入社したのが1974年です。その当時は、43名ぐらい入社したのですが、現在、同期は私とあと健常者2人、そんな厳しい状況です。けれども生活がかかっていますのでやるしかありません。それでずっと頑張ってきている次第です。
 以前幕張の職業総合センターで研修を受けたときは、95リーダー、エクセル、ワードを初めてやりました。現在95リーダーは使っておりませんが、長文とか日本語である場合は、IBMのプロトーカーを使用し、イヤホンつけながら聞いています。
 私は、仕事上で毎日イギリス、スウェーデン、デンマークなどの会社とやりとりしているんですが、通常Eメールで英語を使ってやりとりしています。私、親に感謝しているのですが、中学時代から英語は好きで、それで外語学校まで行かしてもらって、卒業の年に英語検定1級を取得、それが私の自信になって今につながっています。
 私は、社内的に人間関係がいろいろ現在も厳しい立場にあります。毎日が大変ですが頑張っている状態です。

パネリスト3

伊藤敏明

 私の目の病気は網膜色素変性症で、今の視力の状態は右目がゼロで、左が0.04。 金融機関の事務部でシステムの開発をしています。所属しているグループは融資グループといって、融資のいろんな商品、新しい商品が出たら、それに対応するシステム、プログラムをつくったり、あとは商品は変わっていきますから、それに対応して今動いているプログラムを修正したりする仕事をしています。
 会社では、4年前からLANが接続されまして、同僚はパソコンをやっていたんですが、僕はそのときもう画面が見にくくて、パソコンは使っていない状態でした。それでどうやって仕事をしているかといいますと、4年ぐらい前に拡大読書器を入れてもらい、拡大読書器に頼りながら、仕事をしています。3,000ステップぐらいあるものを、画面に出るプログラムは20ステップぐらいと、画面に出るステップ数が決まっていますので、それで、直す部分はソースを出して、ソースを拡大読書器で追ってラインを見つけて、それで、端末で見えない状態でラインを数えながら直して、そして、それをまた拡大読書器で確認して、という流れで仕事をしているのです。
 それを4年ぐらい続けてきたのですが、「jaws(ジョーズ)というソフトが汎用機のプログラムでもWindows上で動けば読むのではないか」という話を聞きまして、スクリプトをつくれば、汎用機のエミュレーションソフトから来たプログラムは読むだろうという話なのです。それなら、ここで会社に言ってソフトを入れてもらって、仕事を続けていけないかなと思って、今、会社と話し合っている状態です。
 6月ぐらいに、会社の上司に今の状態を言っています。さすがに会社の上司、同僚もやはり僕が見にくい状態だというのは知っているんですが、ただ、仕事をこなしていれば何も周りは言わないという状態ですね。「あっ、伊藤さんはちょっと見にくいんだな」と思っていても、ただ仕事をこなせれば、会社側は何もしてくれません。それで、自分ではなかなか言いにくかったんです。
 昔も、Windows95とかスクリーンリーダーが出たころにも、画面上のプログラムをパソコンで音声で読むソフトがあるという話をして、これを使わしていただけないかなという話をしたこともあります。そのころはスクリーンリーダーは汎用機のプログラムは読まないのは知っていましたので、それを、汎用機からのプログラムをパソコン上に落として、パソコンでWindows上に乗せて、そして、スクリーンリーダーで読む方法をとろうかなと思っていましたが、上司は「外部のソフトを入れてはダメだ」と言いました。やはり金融機関なので、「バグが入ると困る」という話を聞いて、4年間だましながらやってきたのですが、さすがに仕事がつらくなってきまして、上司に話して何とかしてほしいということだったんです。上司は最初はやはりまだ仕事をやっているので「なぜ必要なんだ」と言うんですよね。「いやいや、こういうわけで見にくい状態でやっていて、どうしても、やはり拡大読書器だけではもうつらい状態になっているので、何とかお願いできないかな」という話をしたわけです。
 そこで、納得してもらうために、自分から「今までの自分の経験を生かせる仕事なら、その知識を生かして仕事をしていくことで健常者とのハンディは少し詰まるのではないか、全然自分の知識のない分野に入っていったとすると、健常者とのハンディは深まっててくるのではないか」という話をしたのです。
 それでは補助機器を入れて、これからも開発の仕事をやっていってくれと言われました。ただ、見えない部分、Jawsを使ってプログラムなどを読ませたとしても、やはりプログラムをつくる仕事は結構大変なのです。システムをつくるためにはその前に打ち合わせをしたり、設計書をつくったり、プログラム仕様書をつくったりします。上司と話し合っていることは、仕事のメインをこれからは、そこにもっていくことにする。それをするためには今のシステムの汎用機のプログラムを音声で読むようにしなければ難しいんです。設計書をつくる仕事を多くしていって、それで、自分が設計書をつくったものは同僚にプログラムをつくってもらうというような方向で、今これからやっていこうというところです。


パネリスト4

高木一幸 36歳全盲。平成元年に銀行に入行。最初は支店勤務。ベーチェット病で、平成5年の11月に会社を休職。休職期間3年間が満了した平成8年11月に、総合職を退職、1年契約更新の契約社員として再雇用。 現在は本店、厚生課の健康管理班に属して、そこで自分は実際仕事として、人事異動があるたびに海外に転勤される方は必ず赴任前の健康診断、また帰国時には帰国後の健康診断を、労働安全衛生法の規定により受けなくてはならないということで、その予約と調整管理を行っている。パソコンはやはり、日本障害者雇用促進協会の助成を受け、再雇用になった当時に、NECのパソコン、点字プリンター、録音速記ができるテープレコーダー、プリンターを購入してもらう。現在使っている実際のソフトは、エクセル。
 仕事の流れは、まず人事部の人事係から異動に関してのデータが、従来は紙ベースで私の健康管理班の方におりてきていたが、それを私が「エクセルのデータに直してほしい」ということを申し出て、今はフロッピーベースでエクセルのデータでもらっている。それを受け取って実際私がパソコンのエクセルを開いて音声で確認して、その中には、行員の氏名、行員番号、赴任先、生年月日、またいろいろなデータが入っているが、それをもとに本人のセクションに電話をして、何日がいいか予約、そのデータをもとに本人に電話をして、さらに本店内に健康管理センターという病院の施設のようなものがあり、そこの保健婦さんと、さらに実際に予約ができるのかどうか、またその保健婦さんと調整するために電話を入れる。ちなみに、うちの本店は電話の方が最近PHSになり、必ず1人1台男性のワイシャツのポケットに入るような、それを持ち歩いていますので同じフロアーならどこにいても電話がかかってくるという、私にとっては大変便利な電話になっている。健康管理センターと日にちを確定したら、また本人に連絡して「この日です」ということで連絡。また健康診断に必要な書類が一式あるので、それを健康診断の確定日の書類とあわせて、本人のセクションに行内メールで送る。 また、行員の奥様にも自分から直接電話をするか、もしくは奥様の方から電話がかかってくる。外部の指定病院の方で受診する場合は、その予約管理も担当。。電話がかかってきた場合のメモは、最初は電話と受話器の間にテープレコーダーを挟んで、、自分の会話と相手の会話がテープレコーダーに録音されるような仕組みをとったが、だんだん最近なれてきて、点字でメモが取れるようになり、奥様から住所、生年月日、名前など聞き出した後はすべて点字で書く。その書いたものをまたエクセルに入力して、今度は外部の指定病院の方に予約の電話。そのときに点字で打ったメモが威力を発揮する。速くは読めませんですけど、ゆっくりなら点字を読みながら電話をすることができ、今はそのようなことをやっている。
 あと、最近ではテープ起こし。社史を編集することになり、役員を対象にしたインタビューの内容を、約20〜30本ぐらい去年からずっと手がける。あと、学生向けに企業セミナーのテープ起しも担当。
 あと、点字プリンタを活用し、支店の電話交換手の方で視覚障害者の方に通達とか、人権啓発に関する内容物を私が点字化している。
 今後の課題は、LANがつながったときに自分がそれに対応できるような、情報収集と、自分なりのスキルアップは必要ではないかと思う。
 最後に、仕事をやっていく上で、やはり人間関係はほんとに重要だと思う。私は既に職場は再雇用となって4年となり、、いろんな方に困っているときには声をかけてもらったり、だいぶ意思疎通ができてきて、ほんとに仕事の面でも、私生活の面でも助かっている。自分が黙っていては何も起こらないし、相手の方も理解が深まらないと思う。やはり自分からアクションを起こすというか、話題づくりが大切です。私は、マラソンを始めているが、レースへの参加の話などをしている。

パネリスト5

弘 伸子 都内の区立障害保健福祉センター勤務。
 緑内障による視野の狭窄で、左は光覚程度、右は右下の端でコントラストのあるものの動きがなんとかわかる程度。中心が見えなくなっていて、前方は殆ど見えない。

【現在の状態になるまでの経過】
 平成9年、課税課にいた時、見づらくなった。そこはコンピューターで打ち出されたデータのチェックなど、見えないと仕事にならないところなので、上司に話して異動。異動先は、街づくり調整の庶務担当になったが、地図を見ながら応えなければならず、金額もからみ、できないということを上司にいう。平成10年8月に手帳の2級を取得。予算・決算を担当。罫線や数字が沢山並ぶ、予算書、決算書を作るのは大変だが、事務担当の人数は少なく、周りとのバランスもあり、自分一人でやりきる。「第二の人生を考えられたら?」とも言われた。
 無理やストレスのためもあってか症状が急に悪化。病気休暇をとりその診断書には「職場復帰のためのリハビリ」という文言も入れてもらい、9月から病気休暇に入る。また、障害保健福祉センターへの異動を希望をする。そして、パソコンの訓練のため、11月初旬から2月末まで、千葉の幕張にある「障害者職業総合センター」に入所。3月から職場復帰をし、4月には、予定通り、障害保健福祉センターに異動。人事と組合との話し合いの時には、人事からも、パイロット的な役割もあるので、頑張って欲しいといわれる。
 新しい職場では、「Windows98のパソコン」と「98リーダー」、「ヨメール」、「ズームテキスト」、「スキャナー」、テープ起こし用の足踏み付きの「テープレコーダー」を設置。週1回2時間の対面朗読と必要な情報を録音テープにしてもらう。1年目の担当は、「自立支援事業」と「ピアカウンセリング」を担当。それと、私には事務が殆どできないので、せめて、かかってくる電話を取るために、自分が名前を簡単に見つけられるようにしたり、センターにアクセスしてきた方達の情報整理も、エクセルで整理もする。
 そのまま順調にいくかと思われたその年の暮れ、係長から、「他の職員の士気が上がらないので、肩書を外して欲しい」と言われる。その後、係長会には誘われなくなる。また、新年度に入り、係内の仕事の分担や席順は、私を除いた係の人達で決められ、席も部屋の一番片隅の、出口に近い席にされる。担当は一応、「自立支援事業」と「ピアカウンセリング」になっていたが、とてもショックで屈辱的な思いで一杯でした。しかし、「視覚障害者のためにやらなくては」と気を取りなおして、できるだけ頑張ることにした。

【現在の仕事について】
 視覚障害に関する講座として、「点字講座」「生け花教室」「エアロビクス」「ボランティアによる視覚障害者のためのパソコン教室」担当。依頼があれば、学校などで、視覚障害者についての話をしたりもする。

【パソコンを使って、どんな仕事をしているか】
  1. 会議録や、資料などを音訳してもらったもののテープ起こし。
  2. 活字で印刷された資料を、ヨメールで読む。
  3. 覚えておきたい事をメモする。
  4. 自分が使いやすい資料を作り、保存しておいて、必要な時に取り出す。
  5. パソコンの基本的なことを教える。(ワード、エクセル、インターネット)。
※パソコンを知っているにこしたことはありませんが、パソコンが出来るだけでは、限界があると思う。やはり、人の支援は欠かせない。。視覚障害者の仲間はもとより、他の障害を持つ人や、ボランティアさんなど、健常者との交流も必要。人とのネットワークこそ、大事。

【困っていること】
 書類による回覧から、パソコンの画面の閲覧にかわってきたが、「NT」で「98リーダー」には対応しない、。私だけは、「Windows98」を使っているが、セキュリティの関係で、ネットには繋げてもらえない。

【最後に】
 役所こそ、障害者をしっかりサポートして、適切な支援さえすれば、こんなに、仕事ができるんだということを証明していかなくてはいけないと思う。そういう良い見本があれば、民間でもやってみようという気持ちになるのではないだろうか。

●連続交流会記録 その2 2001/10/20

【こんな仕事をしています 第2弾】
「職場の人間関係を考える」

進行:新井愛一郎
パネリスト:森下めぐみ 山口通

パネリスト1

森下めぐみ こんにちは。山口県の柳井市から参りました森下めぐみと申します。私は先天性の白内障とその後の網膜剥離で、生まれつきの弱視です。極端に悪くなったのは高校の時です。現在の視力は、右目は、明るさもわかりません。左眼は、矯正をしなければ、目の前で指の本数が確認できる程度です。実際仕事をするときには、コンタクトレンズで矯正をしています。コンタクトで矯正をすれば、0.01か0.02くらいにはなります。ただ視野の狭窄もかなりありますので、見えているのは、中心部分だけです。あと弱視の宿命的なものである、眼振(目の揺れ)がありますので、なかなか一点を見ることができないために、わずかの視野も流動的になって、対象物をきちんととらえることが難しいような状態ではあります。
 現在は地元の市役所の社会福祉課に勤務しています。一応、障害者枠での採用です。当時は今よりは少し見えていたこともあり、履歴書に視覚障害者であることはもちろん書きましたが、それ以上に受験での配慮はお願いしませんでした。筆記試験については一般の方と同じマ−クシ−トでした。席は一番後ろの隅にしていただいて、弱視用のル−ペの使用は黙認していただきました。2次試験の小論文については、別室で1.5倍の時間と、拡大コピーの原稿用紙だったと記憶しています。面接試験の際も、面接室に入る前に、担当の職員から、面接室の中の状況等を細かく教えていただきました。
 現在の担当業務は、生活保護という社会保障制度の経理事務及びその他の庶務的なことをやっています。経理ですので、業者や病院から送られてくる請求書の支出の処理をしたり、予算をつくる時の算出資料の作成、月々の経理報告等をつくったり、決算書類の作成とか、年度末の実績報告の書類の作成なんかもやらせていただいています。現在の職場は、今年で7年目ということもあり、多方面にわたりかなりの仕事をさせていただいています。
 ですが1年目は多くの仕事はありませんでした。正直臨時の人とか、パートさんの方が私より遥かに多くの仕事をされていました。正直なところ、朝行って机に座って、今日は何をしよう、まずそれを考えるのが仕事だったという日もあります。そんなときある上司に「自分の居場所がない時は、どうしたらいいのでしょう」と相談をしたことがあります。そのとき、その上司は、「居場所を誰かにつくってもらおうなんて思ってはだめだ。居場所は自分でつくるものだ。居場所がなければ自分がつくったらいいじゃないか」と言われました。当時は、その上司を冷たいとも思いましたが、今思えば、その上司の言葉のおかげで、私は、直接仕事に結びつかないまでも自分に出来る事を見つけてはやるようになり、一つ二つと担当業務を増やしていただけるようになり、5年前からは現在の業務を担当させていただくようになりました。1年間というのは私自身何をしていいのかもわからなかったし、周囲も何をどこまでやらせていいのか、できるのか、仕事をあまりたくさんさせることによって、視力の低下とか、そういったものが関係してくるんではないかとか、そういった思惑もあってのことだったと思います。私にとっては、ある意味いい1年だったと今になっては思っております。どうしても普通の人よりも時間はかかりますから、仕事が増えれば必然的に負担は大きくなるわけですから、それなりの苦労もありますが、「居場所」だけはしっかりと確保されています。
 次に、職場における補助機器の状況ですが、一応私の机の上には、98リーダーの入ったノートパソコンがあります。拡大読書器も置いてあります。あとは、制服のポケットの中に1つと、机の上に1つ、弱視用のルーペを置いてます。最近は単眼鏡なども使いますが、これはなかなか実用には至っていません。実際に、職場で拡大読書器の使用を始めたのはちょうど1年前です。自費で購入し、持ち込みました。拡大読書器を使いたいという話をしたとき、理解のある好意的なことを言ってくださる方が殆どでした。しかし、その中でもごくごく一部の方から、「何で今さら拡大読書器が要るのか」、「今の状態でも、仕事はできているのに拡大読書器なんて使う必要があるの」という意見が出ました。それは、理解がないというのではなく、それまで、ルーペだけで仕事をしてきた私への問いかけに過ぎなかったのですが、私は、その時のそういった意見もちょっと気になり、今回は自費で導入をし、拡大読書器がどういうものであるか、これを使えばどれくらい私が仕事をするのが楽になるのか、そういったところをわかってもらえたらいいんだという気持ちで、それと、私は、こういった補助機器を使ってでもここで仕事をしたい、補助機器を使えば仕事はできるんだということをわかってもらおうと思いました。そして、その後の周りの反応ですが、心配していたことの多くは私の取り越し苦労で終わってしまったようです。拡大読書器を使って字を書いている私の姿を見て、挑戦してみる人もいます。そんなわけで、今では拡大読書器もすっかり職場の中に馴染んでいます。また、職場で、補助機器を使うことにより、メモ書きを大きな字で書いてくれたり、私への伝言はメモ書きを口頭でも伝えてくれたり、上司とか、先輩、後輩を問わず様々な形で援助していただけるようになりました。
 職場での人間関係をということですが、今回、交流会でお話をさせていただけるということで私なりにいろいろと考えてみましたが、私は、職場において、自分が何かを特別に取り組んでいるということはあまり思いあたりません。採用が障害者枠の採用であったことで、就職したときから、私が視覚障害者であるということは課の中ではみんなが知っている事実でしたので、それが、効を奏したというのもあると思います。私の職場は、社会福祉課ということでどうしても障害関係とかそういった関係の仕事が多いこともあり、職場の理解というのは得られやすい状況にはあると思います。それ故、正直なところ、私は今の職場で余り自分の障害のことを説明するようなことはしていません。「視力がこれぐらいです。視野がこれぐらいしか見えません」と話をしてもそのときは「あ、そうね。大変ね」と聞いてはくれますが、時間がたってしまうと結局忘れてしまうということの方が多く、最近はあまりそういった自分の障害のことを説明ということはしません。ただ日常生活の中での失敗談、笑い話として自分の障害のことを取り上げて話をすることはあります。
 例として、先日もありましたが、初めてマクドナルドを使いました。そのとき、出されたメニュー表が見えず、適当に指を指したら思わぬ物を注文していただとか、食べた後トレイをどこに戻していいのか判らず困ったとか、そういう話を日常の雑談の中でしながら、周囲の人に「そういうこと、困るんだね」というような感じで理解をしてもらっています。 私なんかが職場で動くと、ロッカーにはぶつかる、ごみ箱には躓く、人の机の引き出しにはぶつかる、そういうとき、職場の人からは「ごみ箱へこんだんじゃないか」とか、「備品を壊すなよ」とか、そんな言葉が飛んできます。職場で仕事をする中で「あそこ」とか「あれ」とか「そこ」とか指示語が結構頻繁に自然に使われます。言った後で「あ、そうだった」という感じで言い直されることの方が多いです。しかし、そんな反面、今回私が一人で東京に出掛けることを職場で話すと、職場のみんなが、出来の悪い子供を初めてお使いに行かすがごとく心配してくださいました。上京の前日の昼休みには、駅での移動や新幹線のことなど細かく心配をしてくれました。あげくの果てには、「700系のぞみは先頭の形が違うから…」と言った後で、「あ、森下さんにそんなこと言っても仕方ないよね」なんて言います。
 職場では、時に、私の障害も笑い話の1つのネタになります。私がおしゃべりだという話になったとき、上司の一人が、「口だけでも達者じゃないと…」と言いました。そういうときに私は、「そりゃそうですよ。両目併せても普通の人ほども役に立たないのだから、口だけでも人より達者でないと生きていけないじゃないですか」と切り返します。それが、良いことかと言われると、多分いろいろな意味で問題はあるのだと思います。ただ、私は、そうすることで、自分の障害を悲観的にとらず、また周囲との雰囲気作りをしています。そして、たいていのことは自分の都合のいいように考えることにしています。周囲の理解がないと思う前に、逆に私は周囲が私のことを障害者としてではなくて、1人の同僚として認めてくれてるからだろうと、勝手に解釈しています。本当のところ、周囲がどう思っているかはわかりませんが、少なくとも私はそういうふうに解釈をして、毎日仕事をしてます。「森下さんが笑ってない日ってないよね」と言われるくらい毎日楽しく仕事をさせていただいています。だから特に私のことを障害者として扱うというようなこともなく、援助は決して私の負担となることもなく、ごく自然にさりげなく私を支えてくれています。
 年に1度1泊2日の親睦旅行も、私が、参加を躊躇していると、必ず背中を押してくれる人がいます。「気にしなくてもいいから、周りはそんなに負担には思っていないから…」と「一緒に歩けばいいじゃない」と。結局今年で7年目になりますが、親睦旅行はすべて参加です。
 実際の職場での日常で、上司を含め同僚、その他ほとんどの人は、私に対して特別扱いをするようなことはありません。多くの場合、周囲の人は、私がお願いをしない限り積極的に手を貸してくれるようなこともなく、黙って見ていてくれます。例として、机の上に物を自分が置いていてもわからなくなることもよくあるのですが、そんな時、私が、「何々がないんですけどありますか?」と尋ねれば、周囲の人はきちんと教えてくれますが、私が言わなければ、目の前にあるのをわかっていても教えてはくれません。私が、ルーペを使って何かを調べていても、私が、お願いしない限り周囲の人は、あえて、探して読んでくれるようなことはありません。私が、お願いしない限り、必要以上に援助はしない。そんな自然のルールができ上がっているような感じです。
 しかし、幾ら特別扱いはしないとは言っても、やはり視力が悪いということで、出張や、行事の準備、後片付けなどでは特別扱いというか、配慮していただいています。ただ、年に1回回ってくる朝の駅前交差点での交通立証には、きちんと名前が入っていますので、白杖と黄色い交通安全の旗を持ってやらせてもらっています。ただ、普通、2人1組でやりますが、私のときは3人1組でやっています。
 私にできることなんて、そんなに多くはありません。仕事にしても、それ以外にしても、日常の多くのことは周りの人に助けてもらっているわけで、私が、何かを誰かのためにしてあげるなんていうことは、ほとんどないように思います。そんな中で、今の職場に入って、私が嬉しかったことの一つが、私と仕事をするまでは、障害者って特別な感じがしていたという人が、私と仕事をすることで、「障害者は、全然特別じゃない」とか、「何で障害者っていうのか」とか、そんなことを言ってくれる人が、結構いてくれることです。仕事を続けられるということもそうですが、それ以上に、周囲の人の意識が変わっていくということが、何か自分が仕事をしているんだなという気になるというところがあります。また、私の職場に肝臓のほうが少々悪い方がおられて、その方があまり調子がよくなかったとき「私にもし何かあったらあなたに角膜をあげるから…」と言ってくださいました。。もちろん私の目は角膜移植で見えるようにはなりません。でも、それを言われたときには、本当に涙が出るほどありがたく、嬉しく思いました。
 職場のある方が、「障害者が、障害のことばかりを前面に出して行動すると、暴走して失敗する。また、健常者が同情だけで障害者の援助をしようとすれば、それは、押しつけになり失敗する。だからお互いが牽制し合って、お互いの立場を理解しようと努力していく必要がある」と言われました。
 私が仕事をしていて思うのは、私には、車の運転ができるぐらいの人の見え方は当然のことながらわかりません。私が、普通に見えるということがどういう感覚かわからないように、多分普通に見えている人にとって弱視であるということを、言葉でどんなに説明されてもわかるはずがないと思います。それは、家族でも例外ではないと思います。結局100%わかってもらえるということは、不可能だと思います。だから、理解をしてもらえるような努力をすることは大切なことですが、必要以上に相手にそれを要求することは、いささか難しいのではないかと思います。
 十人十色でいろんな方がおられますから、全部が全部理解してくれる人ばかりではないと思います。でも、自分が自分の精一杯で、前向きにやっていれば絶対に理解をしてくれる人、支援をしてくれる人はおられると思います。これから復職をされる方、今の職場で頑張られる方もおられると思いますが、最後まであきらめずに頑張っていただけたら、と思います。

パネリスト2

山口 通 こんにちは。都立工芸高校の山口です。
 きょうは非常に大きなテーマなので、双方向で活発な交流をしたいと思いますので、ぜひよろしくお願いします。 私は網膜色素変性症で、52歳。現在、全盲に近く手動弁、視野3度とか5度程度です。生徒や先生方の顔がわからないので、その点では困難がありますが、いろいろバックアップしていただきながら仕事をしております。
 まず、職場復帰までの経緯をお話させてもらいます。
 10年前に急に、極端に悪くなり、それでその翌年国立身体障害者リハビリテーションセンターの生活訓練科で、半年間休職して泊まり込みのリハビリを受けました。
 そのあと半年は病欠をとり、家でワープロ等の練習をしたり資料をいろいろと集めるなど準備をし職場に戻る2カ月前には、管理職に許可を得て定期を自分で買い、杖の使い方も含めて通勤の練習をするかたわら、学校でもワープロとかそのほか準備をしました。
 本人は戻るという固い決意でいたのですが、職場復帰になる前に管理職と私たちの組合との間で、職場復帰は難しい、半年余り延期しろというようなことで、相当すったもんだし、なかなかうまくいきませんでした。
 春休みに入り、校長から春休みに、授業を2時間見せてくれ、テープもとりたいということと、誰もいないところで自分の専門の現代社会と世界史を2時間連続でやれという条件なんです。後で聞いたところでは、当日、カメラで写真も撮ったらしいです。誰もいないところというのも、ちょっとむなしいものがありますので、本人はやる気がなかったのですが、いろんな人と相談しまして、皆さんがやってみたらということで、やらせてもらいました。
 その際、2〜3人の同僚に声をかけたところ、春休みなのに、20人ぐらいの先生方が来てくださって質問してくれたりしたので、ある程度公開授業の形ができたんじゃないかと思います。終わった後では、皆さんそれぞれ感想や問題点とかを書いてくださったらしいんです。それを校長に提出したら、校長が、東京都に持って行ったらしいんです。そのことが後から思えば、プラスに働いたような印象を持っています。4月1日の朝、校長から職場復帰を許可するという電話をいただきまして、復帰が実現しました
 次いで、1日の生活について話をさせていただきます。朝大体4時ごろ起きるのですが、NHKのラジオ深夜便という番組に、4時からのニュースに続いて、心の時代というコーナーがあります。これは、自然科学の学者、社会科学の学者、宗教家、被爆体験をされた方や、いろいろなお仕事に尽力されている方など、さまざまな方が出られていて、非常に奥の深い、すばらしい番組ですが、これをまず聞いてから出勤します。
 朝6時ちょっと過ぎに家を出て、バスで三鷹駅まで行き、改札口で駅員さんにいつものようにあいさつして、中央線で四ッ谷まで行きここで総武線に乗りかえて東京ドームがあるところの水道橋で降ります。ここでも駅員さんにあいさつして、それで職場には大体7時過ぎぐらいに到着します。
 7時半から、「おとわ会」という20数年の歴史がある朗読グループのボランティアの方々に、毎朝職場に来ていただき、8時半まで新聞を3つほど読んでいただきます。メールボックスの中にたくさん入っているいろんな書類を全部読んでいただいたり、書類を書いていただくこともあるのですが、書類を書いていただくのは、同僚であったり、教頭だったりすることもあります。
 それから、1時間目の始まる前に8時半から8時40分まではショートホームルームというのがあります。
 その後40分から1時間目の授業が始まりますので、どうしても私の場合は早く幾つもの新聞を読みたい、見出しを知りたい、見出しを知ってそこでどこを読んでいただくかということなどがあって、ぱっと、そこを読んでくださいという形でボランティアの方や、同僚に支えられてやっています。
 出勤簿ですが、私の友人でやはり中途視覚障害者が教頭に、出勤簿も押せないのかって言われ大変傷ついたということを伺ったことがあります。うちの場合は、その時間、用務員さんや事務の方がいたり、ボランティアの方が入り口で待っていてくださったり、あるいは、社会科の研究室がある5階のところで待っていてくださる方などさまざまですが、いろいろな方に押していただきます。
 出欠簿ですが授業に入るときに、間違いがないようにするため生徒の出欠簿と自分の閻魔帳というのを、2つ用意します。これは、一番前の席にいる生徒に「お願いします」と言って、出席簿と、それから私の閻魔帳の出欠簿を書いてもらっています。もう9年になるんですが、一度も間違ったことがないんですね。教員よりも正確かもしれません。教員はぼーっとしていたり、あと、忙しいというんで、それで何かおっちょこちょいだったりすることがありますけれどもね。
 授業は、プリントでやるのですが、授業の一番最初に各クラス2〜3人の生徒に社会科係というのに立候補してもらいます。そこで、来週例えばプリントを4つつくりたいということであれば、その前の週に各クラスの社会科係の諸君が印刷室に来てくれて、それで印刷をしてくれます。そんな形でプリントを中心とした授業を展開しています。
 黒板には、ポイントだけ幾つか、大事なところだけ書きます。みんな読めると言ってくれます。どうして書けるのかという質問がよく出るので、では、君たちもまず目をつぶって名前と都立工芸高校って書いてごらんと言って、書かせるんです。自分の名前は割とすらすらとうまくいくような反応なんですが、今度は校名は6文字ぐらいになるため相当ぐじゃぐじゃになるらしく、それで、みんなで大笑いしたり、騒いでいます。そんなことをやって、子供たちが、大体どんなイメージかを少し理解してもらえるのではないかと思っています。
 授業の中身は、大体大ざっぱに言いますと、現代社会という中で哲学を中心とする授業です。人間とは何かとか、宇宙と自然と人間と歴史との関連、つながりとか、それから、意識とは何か、意識と体、心と体の関係とか、あるいは、宗教でユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教、などを一般教養ということで、それぞれ1時間から2時間ぐらいかけてやります。
 それと、大日本帝国憲法(旧憲法)と日本国憲法(現行憲法)、それから、ポツダム宣言のあたりから戦争の敗戦までの経緯など、ヤルタ協定とか広島・長崎などもやります。現代社会ですから、課題はたくさんあるのですが、どちらかというと中心は哲学の入門といいますか、人間とは何か、宇宙と自然と人間の切っても切れないつながり、あるいは歴史とは何か。すべてには歴史があるわけですけれども、この歴史のことです。
 あるいは世界は何でできているか。材料は、原料は何か。人間の体はどういう材料で原料でできているのか。そして、その原料と材料と人間の心、人間の意識との関係はどうなっているのか。それから、神というのはどういう存在なのか。神というのは存在なのか、それともイメージなのか、あるいは心の中にあるのか、等々をやっています。
 ですから、聖徒からもいろんな質問が出ます。また、厳格な宗教を持っている子もいます。そのような子の中には授業での柔道をやらない子もいます。柔道は見学します。そのときに、柔道を見学しているのはけしからんという、そういう先生もいらっしゃいますが、うちは昔から柔道見学はオーケーなんです。そのときにもちろん着がえて見学をしているんですが、それで、後でレポートとかそういうものも書くんですね。それで、単位数は取ることができるということで、無理やりやらせたりということはしていません。それ以外でも、そういう宗教を持っている生徒あるいは親ごさんというのは、子供が、学校で大けがとか事故をおこして出血多量の場合にどうかという、大変な問題もあります。そういうとき学校の場合、教員が立ち会うわけですから、それは非常に大きな問題だと思います。
 今日の人間関係というのは、20年たっても、結論がうまく出るかどうかという大きな問題だと思います。
 昔の原始時代ですね、原始共同体の時代ともいいますけども、この原始共同体というのはご存じのとおり母系家族で、原始、女性は太陽であったという、平塚らいてふさんの言葉があります。原始共同体では、厳しい自然、自然によっていつ命を落とすかわからない中で、みんなでいろいろなものを採取したり、みんなでつくったりしたものを、それをみんなで使ったり、みんなで共有するというのがあります。
 人間関係は基本的には対等・平等の関係で、自分の仲間を大事にしたり、弱い者を大事にしたり、あるいは、障害を持っている人に配慮したりします。そういった思いやりとか、勇気とかが、自分たちの仲間や子供を守る基本となるわけです。そしてある時には、はかの人間や、人間以外の動物とも戦う場面もあったりすると思うんです。
 人間の歴史が200万年という説、400万年という説、600万年という説、いろいろですが、もし人間の歴史が200万年としましたら、その200万年のほとんどが原始共同体なんですね。そのときの人間関係というのは、基本的にはみんなで、斧とか弓とか、そういったものをみんなでつくって、そのつくった道具を個人個人で所有しているのではなく、1カ所に手入れをして集めておくらしいですね。またみんなでわーっと持っていって使って、手入れをしてもとに戻す。ですから、生産手段といいますか、そういったものをみんなの財産として持っている。そうしますと、みんなでとった獲物を、10人いる母系家族には10人分の、8人のところには8人分にというふうに分けて、何といいますか、むさぼらないというか、ほのぼのとした牧歌的なものだったようです。しかし、簡単に自然に飲み込まれたり自然のもとで餓死したり、そういったこともたくさんあったと思うんですね。
 今の社会はどうかといったら、奴隷制、封建制、資本主義に突入して、その3つの社会というのは、その200万年と比べるとたかだか2000年とか、数千年とか短いんですね。ところが、200万年の原始共同体のうちに、人間はあらゆるものといってもいいくらいのものを学んだと思うんですね。人間関係というのはまだ未熟な時代で、生産力も低いですから、人間関係がそんな高度なものではないと思いますが、人に対する思いやりとか勇気とか、そういった人間の基本的な性質をその時代に築いたのではないかというふうに思います。しかし、歴史というものは皮肉なもので、奴隷制、封建制、資本主義に入ると、人間同士の関係が切り刻まれるといいますか、ばらばらにされるといいますか、命を落とされたり、心もずたずたにされる時代というふうに思います。しかし、人間は、奴隷制、封建制、資本主義という時代のハードルを越えて、また新しい社会を築いていくのではないかと思います。そのときエデンの園になるのか、浄土になるのか、表現はいろいろですけれども。
 今日の人間関係というところでは、非常に難しいテーマなので、なかなかこうすればうまくいくとか明確なものはないと思いますが、たとえば、みんなでスポーツをやったり、旅行に行ったり、釣りに行ったり、演劇を見に行ったり、コンサートに行ったり、あるいは俳句の会をやったり、それから読書会をやって、みんなでそういったことをやることも、これもすごく積極的なものだと思います。そういったことも大事ですがそれ以外にも、もっと大きな問題が含まれていると思いますね。それで、2つ問題提起をさせていただき、皆さんと意見交換させていただきたいと思います。
 1点は、今の現状で人間関係がどちらかというと、総じて悪い、うまくない、という場合、どうするか。それから、人間関係が総じてまあまあよい、あるいは、まあまあだという場合、もっとよくしたいという欲が出たときどうするかということです。
 第2点は、リストラという名の首切り、賃下げ、あるいは勤務評定という人事考課制度に対していろいろと問題があるわけですが、そういったときに、職場の人間関係をどうつくっていくのか、あるいは、つくらないのか。つくらないで会社をやめて、また新しい会社を探すのか。もしつくるとしたら、そういうときにどういうふうにどのようにつくっていくのかという2つを問題提起させていただき終わりとさせてもらいます。

【sports・スポーツ・すぽーつ】
クラシックスキー大会に参加して

小川 剛

 昨年札幌にある視覚障害者のボランティア団体である「ラング・ラルフ」に入り、歩くスキーをはじめた。昨シーズンは2回の大会に参加したが、その最初の大会の様子を紹介する。皆さんも、是非スポーツを楽しんで下さい。
 スタート時点では、最後尾から出発した。気温マイナス11度、若干風もある。青空が覗いているものの凍てつくような寒さである。クラシックスキーの2本のシュプール状の溝の中にスキーが入ったことを確かめる。真っ直ぐ前を見て、「いくぞ!」と心に言い聞かせる。「オー!」という雄叫びがこだまする。500余人がスタートしていく札幌国際スキーマラソン(10キロ)大会の号砲である。
 「暫く真っ直ぐな平坦です。」横にいる伴走者が的確な、しかも澄んだ声を掛けてくれる。「左10時の方向に曲がります」時計の文字盤に沿って表現する。周りにいる走者の動きを眼で追いながら言葉を掛けてくれる。伴走者にとって、視覚障害者の走力、技術や性格、癖までも知っておくことが要求される。伴走者は、私の前後や左右にいき、めまぐるしい動きをとっている。絶えず言葉を出さねばならない。言葉が視覚障害者との絆である。下りコースにきた。視覚障害の走者にとっては、スピード感覚が強い緊張感を伴う。下るコースにはシュプールはない。
 私は、伴走者を前に滑ってもらい、耳を研ぎ澄まして、伴走者の滑り下りるスキーの音と感覚と言葉とでついていく。ボーゲンでゆっくりと、しかも確実に滑り下りるのだ。周りにいる走者をかき分けるように、左右に振ってついていく。「下りがおわりました」と伴走者にいわれると微笑みがこみあげてくる。
 ラング・ラルフは、ドイツ語で野山を駆けるという意味であるという。10年ほど前、視覚障害者にスキーを支援する目的で発足したボランティア団体である。私は、初めて歩くスキーを履いたのは昨年12月である。先ずは新しいスキー靴を履き、それをスキーに装着するまでに暫く時間がかかった。一つひとつ手で確かめながら履き進めていく。圧巻はスキー靴をスキーに装着することである。金具でスキー靴の爪先を固定するのであるが、身体がふらついたり、スキーがひとりでに滑り出していく。このような格闘が15、6分も続いたであろうか。スキーの技術も、その人の過去の経験、体力等で学習していくのである。
 スキーマラソンも最後の山場になってきた。長い登り坂である。力を振り絞るように滑ると汗が噴き出してくる。「もうすぐ、ゴールだ。頑張れ!」という叫びが伴走者からも飛びだす。身体を前に前にと進んでいく。「ゴールにはいりましたよ!」この弾んだ声で、伴走者とガッチリ握手、安堵感、達成感などが頭に渦巻いている。
 スポーツは、楽しさとときには競争心をあらわにする。クラッシクスキーは忍耐のスポーツである。視覚障害者が歩行、情報など様々な苦難を乗り越え、そして個性を豊かにし、生きぬく心を育んでくれる。


「お知らせ」

【1月交流会】

日時:2002年1月19日(土)午後2時から4時半
講演:「七沢ライトホームにおける歩行等訓練のとりくみ」
講師:末田靖則氏(同ホーム歩行訓練士)
場所:日本盲人職能開発センター

【3月交流会】

日時:2002年3月16日(土)午後2時より

【編集後記】

 2001年11月17日(土)に新潟市にて地方交流会を行いました。信楽園病院の山田幸男内科部長のご協力のもと、「新潟県中途視覚障害者のリハビリテーションを推進する会」の事務局の小島紀代子さんが実務面で全面協力してくれました。
 お蔭様で120名を超える参加者をむかえ、大成功でした。参加の皆さんに改めて、「目が見えなくても、働けます、働いています」という現実が確認されたようです。
 来年の地方交流会はいずこで行われるのか、楽しみです。

 中途視覚障害者の復職・継続・再就職はいろいろな機関の連携が大切です。その好事例は新潟出身東京勤務の坂上実さん、広島の近江辰夫さん、横浜の吉原学さんです。それぞれ再就職、復職おめでとう。これからも存在感をもてるよう頑張ってください。
 本年は、「働く障害者の弁護団」(代表清水建夫弁護士)と連携することができたことが大きな収穫でした。12月4日の幹事会で宮崎県延岡市のウルスラ学園を不当解雇された窪田巧先生を会として支援することに決定しました。解雇理由は目が不自由ということだけなのです。署名やカンパに皆様のご協力をお願いします。

(事務局長・篠島永一)

中途視覚障害者の復職を考える会【タートルの会】会報
『タートル22』
2001年(平成13年)12月13日 編集
■編集 中途視覚障害者の復職を考える会 会長・下堂薗保
■事務局 〒160-0003 東京都新宿区本塩町10-3
     社会福祉法人 日本盲人職能開発センター 東京ワークショップ内
     電話 03-3351-3208 ファックス 03-3351-3189
     郵便振替口座:00130−7−671967
■turtle.mail@anet.ne.jp (タートルの会連絡用E-mail)
■URL=http://www.turtle.gr.jp/


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