会報「タートル」第15号

タ ー ト ル    1999.12.20
中途視覚障害者の復職を考える会
(タートルの会)

【巻頭言】

地域活動とのかけはし
タートルの会幹事  横田 弓
 私は、愛媛の松山を中心とした会で、Bu.system(ブウ・システム)という会の会員です。「Bu.systemってなんじゃろうか?」と思われるかもしれませんが、名前の由来はさておいて、この会は、「障害者のパソコンによる活動と就労を支援する会」です。
 会員は、視覚障害に限らず、聴覚障害や肢体不自由、脳性麻痺など、様々な障害を持つ人、そして健常者で成り立っています。
 この会は、本格的な活動を始めたのは 今年に入ってからで、まだまだよちよち歩きの状態です。
 社会における障害者の大体の割合は、車椅子関係が6割 視覚障害2割 聴覚障害2割だそうです。「障害の種類別に見た就労・不就労の状況」という調査によると、視覚障害者の就労率が一番低かったようです。
 この会の活動を通じて、視覚障害者のパソコンによる就労の可能性を少しでも広げていけたらと思っています。
 今のところ、視覚障害者は、盲学校関連の方で、すでに就労も三療関係についていらっしゃる方がほとんどです。今後、中途失明者の方とお会いできたら、タートルの会への橋渡しもぜひ、させていただきたいと思います。
 私自身も手帳の等級が進み、色々な不安はつきまといますが、メーリングリストを通じて、タートルの会の皆さんと共に、少しずつでも進んでいきたいと思います。

連続交流会その1(1999.9.18)

人間の幸せについて
講師:本郷慧成氏

幸せに生きる

 今日は心の問題について皆さんと共に考えてみたいと思っています。
 実際に外界のものが見えるか見えないか、ということよりも、私たち人間はすべて心が闇に閉ざされていて、自分の人生がよくわかってない点では、障害があろうがなかろうが全く同じだ、というふうにまず私は思います。
文豪のスタンダールは、『赤と黒』や『パルムの僧院』などの小説で有名ですが、彼は同時に社会批判とか心理分析の面でもなかなか蘊蓄のある方で、人間は幸せになるためにこの世に生まれてきたのである、と語っております。
 また、『宝島』や『ジキル博士とハイド氏』などの作品を残されたイギリスのロバート・スチーブンスンは、「幸福に生きるということは人間の義務である」と、そうまで言い切っているわけです。義務でありますから、幸福にならなければならない、と言い換えることができるわけです。

今を大事に

しかし、人の命というものには限りがございます。自分の命がいつ幕を下ろすのか、これはもうだれにもわからないわけです。きょうかもしれません。あしたかもしれない。また1週間後かもしれませんし、10年まで延びるかもしれないし、20年後になるかもしれない。しかし、いずれにしましてもわからないわけです。
お釈迦様は、四十二章経というお経の中で「人命は呼吸の間なり」ということをおっしゃっています。どういうことかと申しますと、人の命というものは呼吸の間だけは生きているといえる。しかし次の呼吸は来ないかもしれないわけですね。
 今、私はここにいて呼吸をしておりますから、確かに生きておるといえるわけですけれども、次に呼吸が来なければ、もう永遠にこの世から去ることになるわけです。
私も何人か知人を亡くしていますが、その中にクモ膜下出血で亡くなった方が何人かいるんです。これはたった今までにこにこ笑いながら話をしていたのに、突然「ちょっと気分が悪いから横になる」と言ったその瞬間にもう呼吸が絶えてるんですね。で、永遠にその方とは話をすることができない。
こういうふうに考えると、人間は幸せになるために生まれてきたんだとか、幸せになる義務があると言っても、安閑として待ち続けて、いつか幸せになるだろうと、だから幸せというのはいつか来るんだろう、来年になったら幸せになるとか、この次に宝くじが当たる予定だから、今度のときは幸せになると、そんなことをいくら思っても全く意味がないわけです。この場で、たった今この瞬間に幸せでなくてはならないわけです。あした生きてるかどうかわからないわけですから、今この瞬間に幸せだなあと自分で感ずるような生き方をする、人生についてはそういう考え方をする、という人生観が大事になってくると、こう思うわけです。

少欲知足

 お釈迦様は人間の欲望は大きければ大きいほど人を苦しめるんだとお経の中で言っております。
 「多欲の人は利を求むること多きがゆえに、苦悩もまた多し」と、「少欲の人は無求無欲なれば、即ちこの煩いなし」と、こういうふうなことを言っております。
 欲望というものは大きくなればなるほど人間を苦しめるということを教えているわけですね。ただ、人間の欲望というのは人が生きていく原動力にもなっているわけですから、これは人間生きている限り絶対に滅することはできない。ただ、欲望を小さく抑えることはできる。努力して我慢をするといいますか、欲望を抑えていくことはできる。少なくとも今与えられているものだけで十分だと自分に言い聞かせることによって、欲望の無限大の肥大を抑えることはできる。
 例えば、1万円というお金がありますね。これをある人は1万円しかないよと、こう思う。つまり、満足できていませんから、その人は不幸なわけです。ところが、いやあ、こんなに1万円もあると、貴重な1万円だなと、こう思う人は心が豊かであるから幸せになれる、と。
 「も」と思うか、「しか」と思うかで、人生がらっと変わってくるんですね。「も、しか」の哲学なんていうことをいう人もいますけれども、「1万円も」か、「1万円しか」かでもって人間の幸せ観は変わってくる。
 お釈迦様はこれを仏教の言葉で「少欲知足」と言うんです。「少」は「少ない」、「欲」ですね。それから、「知」は「知る」。それから「足」は「足りる」。欲望を少なくして足ることを知る。これが原始仏教の中で非常に大事な教えになっているわけです。
 この「少欲知足」に徹すれば、人間は幸せに生きていけるということを言っているわけで、「少欲知足」は、まさに人間の生き方にかかわることじゃないかと思うんですね。
 幸せになりたいと思ったら、私たちは、日々起きてくる、また消えていく、そういった目先の現象にとらわれることなしに、また、自分と他人を比較して考えることをしないようにするのが大事なんですね。
 自分と他人を比較しますと、どうしても他人の方が何かよく見えてきて、それで、あの人の方が自分より幸せそうだと、自分も幸せになりたいからといって、自分にないものまで自分に求めていったりすることになって、結局は自分で自分を苦しめると、そういう悪循環が起きてくるわけです。

自分を肯定して

 あるがままの自分というか、今あてがわれている自分というものを肯定して生きるということが非常に大事だと思うんですね。目が不自由ということはひとつ現実であるわけですが、それはそれとして受け止めていく。そして、自分というものを大事にしていく。これが基本的に人間が幸せになっていくための最低の条件であると、私は思うわけです。
 例えば私という人間がここに存在しておりますけれども、私には2人の親がありました。その2人の親にもまた2人の親がいて、4人いるわけですね。その4人の親にはまた2人ずつの親がいるわけで、1代30年として、30代さかのぼると、私の親は実に10億人になるんです。計算上、私には10億人の親がいる。これは皆さんそうなんですね。10億人の人間の血が私の体、皆さんの体の中に流れている。これはかけがえのない存在なんですね。他人と比較して自分はだめだなんて思うような、そんな安っぽい存在じゃないわけなんですね。そこのところを十分に認識されますと、人生観ちょっと変わってくるんじゃないかなと私は思うわけです。
 そういう自分を一生懸命、一瞬一瞬を大事に生きていこうと、生きるために自分を大切にしていこうと、自分を愛するということですね。自分を肯定して大事にすることは、他人の自己、つまり「他己」ですね、他己をも大事にするというところへつながっていくはずなんです。そうすることによって、自分と他人、自他の垣根というものが取り払われていくわけです。自分も大事だけれど、あなたも大事なんだということで、人類としての共通の価値観みたいなものがそこに生まれてきますから、垣根は取っ払われていく。人間皆平等という地平に立つことができる。
 これは仏教的には「自利、利他、円満の心」と言うんですね。「自利」は自分の利益、「利他」は他人の利益、他人と自分というものが共に利益を得ていくということが、そういう生き方をしなければいかんというのが仏教の教えなわけです。そういう気持ちになったときに、人間は本当に何物を失ってもおびえたりしない、本当の大きな心の充足感を得ることができるのではないかなと、こんなふうに思うわけです。

幸福発見能力を磨く

 気をとめて 見ればこそあれ 武蔵野の
  千草にまじる 花のいろいろ
 野辺の草花ひとつにしても「なんだ雑草じゃないか」と見るか「かわいいな、綺麗だな」とみるか。その受け止め方が幸、不幸の分かれ目です。綺麗だなと見る人は幸福発見能力のある人で、その人はまた、踏みつけられても、なおたくましく生きる雑草の強さを感じ取ることができ、それを人生の教訓とすることができるのです。

【私も頑張っています】
「視覚障害者となって」

古橋 直広(大阪府・34歳)

1.発病から視覚を失うまで
 私が最初に目の異変を感じたのは、平成9年の3月頃でした。当時は西宮税務署に勤めていました。左目が見えにくくなり、診察に行ったところ、眼底から出血している(糖尿病性網膜症)とのことで、そのときは、そのまましばらく様子を見るとのことでした。5月になって、右目からも出血し始め、外を歩くことも困難になり始めたときに、手術が出来る大きな病院を紹介してもらい、6月から入院して治療することになりました。まさか、そのときには見えなくなるなんて夢にも思わなかったのですが。
 入院した当時は、左目は光がわずかに感じる程度で、右目は少し濁った水越しに見ている感じでした。
 また職場のほうは、何かあるごとに課長と連絡を取り、月1回ほどは見舞いに来てくれるなど交流はありました。
 組合のほうは、知り合いの人がたまに見舞いに来る程度でした(まだ治療中ということなので長期休暇という感じでした)。治療は左目から始まり、2週間ごとに手術をしたり、その合間にレーザー治療をしたりしました。
 7月になると、私たちの職場では異動の時期となります。入院中の私も、茨木税務署に転勤になりました。この後も入院中は、新しい職場の課長と連絡を取ったり、見舞いに来てくれたりと交流はありました。
 治療のほうは、手術直後は少し見えるようになるが、すぐに出血して見えなくなることを繰り返して、左目は6回手術をしても結局だめで、右目のほうは7回しても、光がわずかに感じるだけとなりました。
 入院は翌年3月の上旬まで続き、その期間中に障害者手帳の交付を受けたり、先生との相談で、日本ライトハウスのことを教えてもらい、入所の手続きを取ったりしました。そのときの気持ちは、不思議と落ち込むことはなくて、何が出来るか分からないという不安感がありました。

2.日本ライトハウスでの訓練
 日本ライトハウスには、平成10年4月から入所することが出来ました。まずは、そこの説明をしてみます。
 私が入ったところは、第2生活訓練部です。定員は30人ですが、全員が宿泊するわけではなく、週1回しか来ない人や休んでいる人などがいて、通常は10から20人ぐらい来ています(土日は家に帰る人もいて、もう少し減ります)。入所者の出身地は近隣だけではなく、愛知県から鹿児島県まで色々おられます。年齢、障害の程度、入所期間も色々です。
 授業は、月から金曜日までで、1日に7時間ありますが、そのすべてがあるわけではなく、2から5時間は授業が入っていない時間もあります。その時間は、基本的には自分の部屋で、自習となりますが、外を歩ければ、自分一人で行ける所へ行くことも可能です。
 私の入所時の授業は、歩行訓練が3時間、墨字・点字・ワープロ・日常生活動作訓練が2時間、その他が数時間などでした。授業は、全員でのものを除くと、指導員一人に入所者が1から4人ぐらいまでです(歩行訓練は1対1です)。授業時間も、入所期間が長くなると課題が少なくなってくるため、徐々に減っていきます。内容は、すべての人が同じではなく、それぞれの希望や状態などによって変わります。
 ここに入所したときは、まだ白杖すら持っておらず、一人では何も出来ない状態でした。入所して最初の日は、自分の部屋と食堂とトイレへの行き方をまず覚えなければなりません。また、ここにはお風呂がなく、100メートルぐらい離れた所にある普通のお風呂屋まで行かなくてはなりません(体調が悪い場合は、館内にあるシャワーを使うことが出来ます)。一人で行けるまでは、週に3回、夕方に授業として手引きで行くこととなりました(お風呂に行くのも訓練の一つでした)。私の場合、許可が出るまで、2カ月ぐらいかかりました。
 授業内容のことですが、最初にパソコンは、私が入院するまでは10年ぐらい前から趣味としていましたが、キーの位置などすべて覚えていたわけではありません。でも、そこでの音声対応のものを触っているうちに、覚えていきました。また、パソコンのことは大体の画面のイメージや用語などを覚えていたので、比較的学習しやすかったと思います。そこでの授業は、ワープロ、インターネットなどをしました。そして、新しい機械を購入して、今年の夏以降は家でも出来るようになりました。
 次に点字は、初めて触るので、最初触ったとき読めるか不安でしたが、触っているうちに少しずつ分かるようになりました。授業は最初に、あ行から始まり50音に広がっていき、その後は、長音、促音、濁点、半濁点、拗音、文書記号、数字、算数記号、アルファベットと進みました。普通ならここまででしょうが、それ以外のものも学習することが出来ました。例えば、数学・理科記号、音譜、英語です。英語は、アルファベットを並べるだけのものではなくて、法則に従って英単語を短縮するものです(これのおかげでアルファベットを読むのが速くなりました)。まだ、点を打つのはさほど速くないですが、読むのはだいぶ速くなったと思います。
 最後に歩行訓練は週に3時間ですが、最初のうちは1時間と2時間の2回に分けていました。遠い所へ行くようになってから3時間の1回となりました。最初は、杖の振り方から始まり、次に向かいの公園の段差を伝わって歩くことをし、次にお風呂屋を目標に徐々に歩ける範囲を広げていきました。
 その後、歩ける範囲を徐々に広げていき、パン屋、郵便局、喫茶店に行けるようになりました。そして、スーパーに行ったときは、指導員は離れたところで見ていて、自分で店の人を呼んで買い物をすることもしました。その後の目標はJR放出駅でした。駅までは、普通の人なら15分ぐらいですが、私の遅い足なら、40分近くかかりました。もちろん普通の道ですから、自転車や車が止まっていたり、伸びている枝が当たる所、手すりの無い細い階段などがあり速く歩きにくいこともあります。やはり、駅の周辺は歩きにくく、放置自転車などで、駅への入口が分かりにくかったりして、周りの人に助けてもらうこともよくあります。この段階で入所してから半年以上たっていました。その後、電車の乗り降りや、家から駅までをして、日本ライトハウスまで通えるようになりました。後は、自分の行きたい所などをしていますが、最近は、行き方を指導員に聞いた後に、指導員は離れたところで見ていて、分からなくなったときは近くの人に聞いて目的地に行く「援助依頼」ということを練習しています。今でも歩く速度はあまり速くなっていないので、もう少し速くなりたいと思っています。

3.職場復帰を目指して
 職場のほうは、入所してからあまり交流がなくなり、7月の転勤以後、上司が変わると、私とは関わりがほとんどなくなってしまいました。組合のほうとも話はあまりしていなかったのですが、今年(平成11年)の5月中旬に、「このままでは何もしないうちに退職になってしまう」ということで、組合のほうでも職場復帰に向けて動いてもらうことになりました。
 具体的には、茨木税務署長、大阪国税局長、国税庁長官に組合が交渉の席で職場復帰のことを議題にして話し合うことから始まりました。それ以後も話はしてくれているそうですが、なかなか話は進まないようです。
 職場のほうも、今年の7月に、また転勤で上司が変わったのですが、歩行訓練で税務署に行けるようになってから、月1回ぐらい話に行くようになったり、先日には、日本ライトハウスに見学に来てくれるなど少し前向きになってきたと思います。
 しかし、話はほとんど進展していません。どのような仕事が出来るのかをお互いに考えていこうということでした。これが現状といったところです。今のところ職場復帰については、ほとんど進展していませんが、色々な人の支援により頑張っていきたいと思います。

(編集部注釈)
 古橋さんの所属する労働組合から相談があったのが今年5月中旬のことでした。早速『横浜税関に職場復帰をされた馬渡藤雄さんの記録職場に光をかかげて〜失明した労働者が職場に戻る日〜』やタートルの会の手記集『中途失明〜それでも朝はくる〜』などを紹介し、役に立ちそうな資料や情報を提供してきました。古橋さんの復職する日が一日も早く実現することを願っています。


連続交流会その2(1999.10.16)
「職場内ネットワークの現状と私たちのアクセス」

「IT技術と視覚障害者の働き方」
講師:和泉徹彦 氏

IT技術

 仕事にコンピュータやネットワークを活用して業務の生産性を高めよう、効率を高めようという技術を総称してインフォメーション・テクノロジー技術といいます。これを略すとITという名前になります。今回お話しするのは,IT技術が導入されたときにどのような効果があるのか,また,視覚障害者がこの技術を活用するポイントについて取り上げます。
まず結論から申し上げると、IT技術は視覚障害者が晴眼者と肩を並べて働くことを可能にする技術だと言えます。事務職というのは書類と取っ組み合うというのがこれまでの姿で、視覚障害者にとって困難を伴いました.そろばん、鉛筆が最近はパソコンに取ってかわられ、手紙やファクスで送っていた内容がコンピュータネットワークを使ってやりとりできる時代になって、ハンディキャップを補って業務を行えるようになりました。

パソコンのネットワーク

パソコンは1台だけで使うことをスタンドアロンと言います。家庭で使われてるパソコンはスタンドアロンの典型です。ほんの数年前まで職場でもスタンドアロンが当然だったのに、現在では1人1台という配置が当然ですし、人数以上にネットワークで共有するようなコンピュータがあるのが一般的になっています。
コンピュータのネットワークという言葉を使ったときには、主に3つのことがイメージされます。1つは、職場や1つの組織におけるローカルエリアネットワーク、これを略してLANと言っています。そして遠隔地にある同じ組織のLAN同士を電話回線や専用線で結ぶワイドエリアネットワーク、これをWANと言っています。そして3つ目は流行のようにいわれているインターネットです。LANやWANは組織における運用管理が徹底されていますが、インターネットは異なる組織同士のLANを緩やかなルールで接続して全世界に広がっています。IT技術の導入というのは特にLANに焦点を当てたものといえますが、コミュニケーション手段としてのインターネットは重要性を持っています。

情報資源の共有

パソコンをネットワークに接続して使うという意味というのは、大きく分けますと2つあります。1つは情報資源を共有するという意味で、ファイルやプリンタを共有する、こういうことが挙げられます。スタンドアロン、1台だけで使っていたときには、ほかの人とデータ交換をするのにフロッピーディスクを使ってコピーしたり、手間がかかるのと同時に、もしかすると最新のデータがどれかわからなくなって、誤って消してしまう、こんな危険性もあるわけです。ネットワークに接続されたパソコンからファイルサーバというファイルを共有するためのコンピュータに接続しますと、新しくドライブが増えたように使うことができます。そしてプリンタも、何人かでプリンタを共有すれば,有効活用されて費用も節減できることになります。

電子メール

もう1つは、コミュニケーションを円滑にしてくれる手段ということです。タートルの会のメーリングリストに参加されたり、また既に電子メールを活用されている方はもう実感されてると思いますが、世界が広がります。手紙や電話といった従来からあるコミュニケーションの手段なんですが、電子メールは送り手も受け手も活用していれば、もう必要にして十分な即時性があります。

メーリングリスト

不特定多数の交流の場として設けられるメーリングリストや電子会議室などでは、必ず設置された目的というものがあります。タートルの会のメーリングリストは比較的緩やかなルールのもとで運営されていますから、タートルの会員以外でも参加できます。そして流されている情報というのも単に会の事務連絡だけではなくて、参加者の日常生活のひとこまといったものを知ることができるわけです。幾つものメーリングリストに参加するということは、さまざまなバックグラウンドを持った知人を何百人、何千人の規模で増やすことを意味していますから、いざというときに必要な情報を得る助けになることは間違いありません。大体普通に、知人を何百人、何千人の規模で増やすなんてこと、初対面で会ってあいさつしてということから始めてできることではありません。
メーリングリストにおいて定められた目的に合わない振る舞いをすれば、コミュニケーションの円滑化どころか、ネットワーク社会の乱暴者扱いをされてしまうかもしれません。これは一般の社会と何ら変わりません。
ネットワーク社会において自分のできる貢献はした上で情報を求めるといった誠実な態度は、良い評判を築きます。また情報発信を積極的に行う人により多くの情報が集まる、ということも言われていますから、自分が貢献した以上のものが返ってくるというのがネットワーク社会の特徴かと思います。

グループウェア

職場に導入されることが多くなったグループウェアというソフトウェアがあります。これはコミュニケーションを円滑化するという意味を持ったソフトウェアで、遠隔会議室の機能、スケジュール調整機能、ファイル共有の機能などが主な機能ですが、なかなか音声化が難しいことが視覚障害者にとって使いにくくしています。グループウェアというのは、職場における情報共有・情報知識活用の要となります。視覚障害者が利用できないというのは非常に大きな情報格差を生みます。既に導入されてる場合には、音声化対応について改良の余地を調査するように要求すべきでしょうし、これから導入されようとしている場合には、音声化対応を購買のガイドラインに盛り込むように要求していかなければなりません。既に導入されていても、今後バージョンアップという形で変更があるかもしれません。やはり音声化対応の機能が絶対に必要なんだということを、常日頃から購買担当者や情報システム部門の担当者に対してアピールしておくことが重要になってきます。

IT技術の導入

IT技術の導入一般に言えることですが、新しいハードウェアやソフトウェアを導入したからといって、すぐに業務の効率が良くなったりするとは限りません。どうやったら効率的に業務改善ができるのかを検討した上で、IT技術のうまい利用方法を考えるのが順序なのです。
例えば出張旅費の精算する業務を考えてみましょう。ワープロを導入したから精算書を最初から入力して印刷された精算書を経理部門に提出するといったやり方では、確かに記入ミスを修正する手間は省けるかもしれませんが、ほとんど業務効率の改善には寄与しません。テンプレートとなるような精算書のワープロ文書ファイルがあって、最少限度の記入事項を追加するというやり方なら少しはましになります。ただ、これでもまだ業務改善の効果をうまく導き出すというようなことにはなりません。
パソコンの画面で記入事項を入力して、画面上で完了したら、経理部門の旅費精算データファイルに記録されて、チェックを受けます。それが出金業務へとデータが引き継がれる。気づいたら自分の給料振り込みの口座に精算金が振り込まれていたというシステムの導入運用が行われれば、業務処理が効率化します。

プログラマーなど

 IT技術を活用できるいくつかの職種を具体的に考えて見ましょう。
コンピュータの運用を行うシステム管理者という職種は、十分に視覚障害者が担える職種だと考えられます。日常業務としてはマニュアルに従って点検監視を行う、そして何かトラブルが発生すれば状況を確認して専門業者にメンテナンスを依頼する、または自分で復旧します。
コンピュータソフトウェア関連の職種について見ると、事務職と技術職の境目があいまいなものがあります。システムエンジニアとかプログラマーといった職種はプログラミング言語を学び、業務経験を積むことで専門性を高めていく職種です。プロジェクトチームによる共同作業は、大きなソフトウェア開発によっては欠かせないものですが、そこでは紙のメモを回してメンバー間の連絡をとるのではなく、ネットワークを利用して作業内容を確認し、業務のスケジュールを調節するといったことが可能です。プログラミング言語の学習についても、かなりの部分をコンピュータを使って行うことができます。そして、プログラム開発だけがソフトウェア関連の職種というわけではなく、マニュアルをつくったり、顧客へのアフターサポートを提供したりというような職種への職域拡大も期待できます。

事務職

近年事務職の生産性の向上にはパソコンやネットワークを活用することが必要だということから、表計算ソフトのマクロを使えたり、ネットワークの中でも情報共有の核となるデータベースの基本的な利用方法について理解をする、といった能力が求められてきています。さらに、事務職がネットワークを活用するときには、電子メールを活用するということがとても重要なポイントになってきます。自分では打破できなかった壁というものを、自分の関わるネットワーク社会の住人の中に解決する手段を持っている人がいるかもしれません。ネットワークによってうまい仕事のやり方を見つけだしたりして、自分の仕事の能力というものを改善していくことができます。
実際にIT技術を活用することによって開拓できる職種というのは、先ほど挙げましたものよりもたくさんあります。そして技術が進歩するに従って職種というのも増えてきます。やるべき業務が増えれば、それに応じた職種が生まれてきます。ですからそういった新しい職種の情報についても、どん欲に求めるということが必要ですし、また自分の業務の可能性を新しい職種に求めてもみて良いでしょう。
皆さんが触れられているコンピュータの環境は個々人で違うと思いますし、また業務も違っていて当然です。自分が使いよいコンピュータのシステム、特に業務で使うに必要十分なシステムというのは何なのか、ということを早く見つけて、使いこなしていくということが、パソコンのハードウェア・ソフトウェアそしてネットワークを事務職として活用していく上でとても重要なことだと考えています。

ニューヨークマラソンに参加して

高木一幸(東京都中野区)
 今回のニューヨーク行きは、かなり無謀でした。練習不足とおまけにカゼをこじらせ体調は不調、さらには気温が低く、悪条件が重なったわけです。それと、病気になる以前にスポーツをしていたということで、ちょっぴり自信過剰でもありました。
 それでも走りたかったのは、クラブ仲間から幾度となく聞かされていた後押しされる声援の中で走ると人生観が変わるんだというんです。
 結果として、5〜6時間を目標としていたのが、約7時間。でも、このタイムラグが自分を変えたような気がしてなりません。
 コースの最後は、ハーレムというちょっと夜になると危険な街を通るんですが、そこでも車イスに座ったまま応援してくれていると説明を受け、ゴールがあるセントラルパーク内でも、もう時は夕方だというのに「ゴーキリーズ、ゴーキリーズ!」(日本ではアキレスと呼ぶ)とクラブ名で声援してくれるんです。気温はたぶん0度に近いんじゃないかと。それでも歩いている自分に声を張りあげてくれる。すれ違う通行人は「Almost there」(もう少しだよ)と一声掛けてくれる。そんなニューヨーカーの優しさにたまらず涙があふれ止まらないんです。ゴールしたときも、すでに7時間も経過しているのに、最後まで伴走していただいたこと、もし、自分が健常者だったとしたら・・・なかなかできるものではありません。ましてや見知らぬ者にです。まだまだあります。伴走者の奥さんが途中沿道で待っていてくれて写真を撮ってくれたんです。どうやら携帯電話で待ち合わせをしていたようです。ここまではふつうの描写なんですが、なんとゴール地点で自分たちを迎えてくれてたんです。つまり、先回りをして待っていてくれていたわけです。
 みなさんはどうお考えになりますか。アメリカってここまでノーマライゼーションの理念が浸透しているんです。とかく、日本の大会は、障害者だからおことわり、時間制限があるのでだめ等々、なかなか自分たちが安全に楽しめる場は少ないことに気づいているところです。

連続交流会その3(1999.11.20)

視覚障害者の社会復帰
〜東北の現状と将来〜
日本盲導犬協会仙台事務所
所長代理 佐々木康次郎氏
 平成7年に事務所は開設されています。
なぜ盲導犬協会が仙台に来たかといいますと、かねがね盲導犬の啓発活動の一つで仙台市にしばしば来ておりました。たまたまある方を紹介いただき、その方を介して、健康福祉局(当時民生局)の局長さんとお会いする機会を持てました。そのときに「仙台市ではガイドヘルパー、ホームヘルパーが充実しているので、新たに視覚障害の福祉サービスについては今のところ検討していない」という話はいただいていたのです。
 そのときには私どもも出来るという確信はなかったんです。でも、私たちの仕事は盲導犬を育成して、視覚障害者に盲導犬の歩行を提供する事業ですが、仙台市に対して「ともかく夢のような話をしてやろう」と。そして、私たちの考えの根底には、視覚障害者の自立を促進するために、仙台に盲導犬プラス白杖歩行とか、生活訓練全般のことをしていきたい、という話を申し上げたのです。
 そうしたところ、なぜか、1カ月ぐらいして「市の土地を提供するから、そこに訓練センターを建てたらどうか」という話になったのです。
 実は資金もないのに、大ぶろしきを広げてしまったというのが実情なんです。その後、市から連絡が入り、施設を建てるにしても準備室が必要だろうからと、東北大の大学病院の近くに仙台市交通局があり、そこの一室が空いたから、ぜひ使ってくれという話でした。私は東京出身で、仙台は右も左もわかりませんが、平成7年に、施設を建てる計画を持って乗り込んできたという、こういうわけなんです。
 現在ちょうど5年目になりますが、実は、当初は土地が1年ぐらいで見つかって平成10年ごろには着工にかかれて、11年にはオープンできればなと思っていたんです。しかし、この経済不況等もあって延び延びになっていたというのが正直なところですね。その後、いろんな所で盲導犬のキャンペーンをマスコミに協力いただき、ボランティアにも協力をいただきながら募金活動をし、現在に至っております。
 それで施設の方は具体的には今、設計の段階に入っております。来年の6月ごろ着工ということで考えております。では、資金の捻出方法はどこからくるかというと、多くは寄附や募金の一般の人たちからの協力と、仙台市と県にも補助金のお願いをしています。プラス民間の助成団体、競馬、競輪、競艇などがありますが、その中の自転車振興会に補助金申請をしており、いわゆる上物の総事業費は4億5000万ぐらいの建物を計画しておりまして、その計画を来年6月ごろ着工しようということで進めているところです。
 その施設は盲導犬の育成と訓練をして、視覚障害者との共同訓練をした上で盲導犬を提供をする形なのですが、それプラス視覚障害者の白杖歩行訓練、生活訓練、日常動作訓練なども行っていきたいと思っています。私どもは財団法人なのですが、社会福祉事業法でいう更生援護施設のような機能、社会福祉法人のようなことも将来は考えていく必要があると思っております。
 設計に入る前には宮城県の視覚障害者福祉協会の理事長、市の視障協の代表、あるいは身体障害者協会の会長、県は浅野会長、それと盲学校の校長先生などにお入りいただいて、またそれとは別に行政にもこういった進める経過をオブザーバーとして、検討委員会に入ってほしいということで、平成10年の7月から12月まで6回ほど会合を持ちました。そこで皆さんからいろいろ構想や意見をいただきました。
 そうしたところ、「盲導犬は正直反対はしない。いいことだからどんどんやってください。ですけれども、もっと他にやることがあるんじゃないでしょうか。」というのが、正直なところ、委員の皆様の大方の反応でした。
 特に、視覚障害者の協会の方々からは、「白杖歩行は在宅でできるともっとスムーズに訓練が受けられる。法人格は別にしても、とにかく歩行訓練を訪問指導できる施設を目指してほしい。」という強い要望がございました。
 ですから、私どもの目指す更生援護施設は、まだ今は具体的な見通しは立っていませんが、宮城、東北の方々のお力になれるようにやっていきたいと思っているところなんですね。
 それと、実は今日この会でお話しすることを、視覚に障害を持つ友達に話したところ、「ああ、タートルの会か、あの会はいいんだよね。」などという話を聞きました。糖尿病からくる網膜剥離で失明したんですが、タートルの会ができる前に失明して職場を去ったそうです。それで、「私がそのときにうまく遭遇していたら、恐らく辞めないで復職していたんじゃないかなあ。」と、彼は言ってましたね。その人は営業をしていたので配置転換はあったでしょうけれども、そんな話を聞いたときは、ああやっぱり皆さんの活動には大変ご苦労があるのだなという思いと、同時に何か感動というか胸にぐっとくるものがありましたね。
 彼も「そういう会には、色変など進行性の方は、ぜひ情報交換だけでもいいから、やっておくと、いざという時に違うんではないかな。」というふうに言っていましたね。
 あくまでも手帳ベースでしかわからないんですが、昨年調べたところ、東北で新たに身障者手帳を交付された方が1,000人強、ここ5年間ぐらい毎年出ているんですね。年齢的には正直調べられてはいないんですが、そのうち1〜2級の方は、おおむね半分ぐらいです。
 盲導犬はもちろん、リハビリテーションをするための施設が東北にないんですね。だから、これは早い時期につくって、早く機能させることが緊急課題だなと思っているところなんです。
 ただ、施設ができても視覚障害の皆さんにそういった情報がどうしてもいかないんです。全国的に見ても、視障協に加入している率は、全国どこを見ても大体10パーセントぐらいだと思うんです。そうすると、いろんな方々に情報は多分いかないと思いますし、やはり、先ほどの検討委員会のところで話を落としたんですが、その検討委員会には、実は行政をはじめ眼科の医師会の先生にも入っていただいたんですね。
 ですから、よく考えますと、縦割的なリハビリの施設は施設だけでやっていく、行政は行政というような形ではなく、関係するいろんな方々と横の連絡をつくらないと、10年たっても多分変わらないと思うんです。ですから、仙台でやる施設については、これは夢のような話で恐縮なんですけども、全国にモデルになれるように眼科の先生方とも連携しながら、一つの線として繋がるようなことをしていきたいと、私が個人的に思っている考え方なんです。
 なぜかと言うと、実際に失明をしてからですとなかなかリハビリといっても、手遅れということはないでしょうが、遅いんですね。ですから、早い段階からリハビリに入っていく必要があると思うんです。
 少し角度を変えて考えてみると、身体障害者の福祉法というのがあります。あれは肢体不自由の方から全部の身体障害者の方をくくっておりますけれども、よくよく法律を読んでいくと、どうも一つの傘の下に視覚障害者を一緒に入れること自体が少し無理があるのかなと感じているんです。だから仮に一つの傘の下であっても、視覚障害者の部分は少し違う観点でとらえていかないといけないのではないかと思っています。
 例えば健康保険一つにしても、肢体不自由というか、足をけがされて病院の治療がある程度終わってから、リハビリの一環で温泉療法のようなものも保険で適用になりますね。ですけども、視覚障害の場合は保険で適用になるのは、眼科に行っている間だけで、その治療行為が終わってしまうと、診断書をいただいて、手帳をいただいて、白杖をもらっておしまい、と。これが一般的な形でして、場合によっては、視覚障害になった方は情報もありませんので、では今度白杖が折れたときはどこで買ったらいいかとか、あるいは、いろんな視覚障害者にまつわる補助具といいますか、日常生活用具などをどこで購入していいのかもわからない。また、光学的な補助具というと、ルーペとか眼鏡なんかもどこで買っていいかわからないとか、そういった情報がやっぱりないと思うんですね。それを考えていくと、眼科の先生方との密な連携が必要ではないかなと強く思うんです。

新しい旅立ちへの誘い

〜タートル地域交流会'99in仙台を終えて〜

 街路の樹々がその葉を黄色に染める晩秋の11月20日、初のタートル地域交流会が、杜の都仙台において開催された。参加者は約60名。タートルの会員が20数名、地元参加者は約40名であった。
 午前中の講演会は、日本盲導犬協会仙台事務所々長代理佐々木康次郎氏。視覚障害者の社会参加にはまだ課題が多い東北の地に、盲導犬施設の開所を目指して東京からやってきた方である。佐々木さんは、施設開設のための資金収集、自治体や関係者への説明、協力要請など事業運営にあたっての問題、歩行訓練施設の必要性、東北の拠点として活動の輪を拡げるという夢などを本音で語ってくれた。その真摯な姿に、東北の視覚障害者支援への期待感を膨らませた参加者も少なくなかったはずである。
 午後の交流会と相談会では、出席者の自己紹介、職場復帰の事例、三療関係者の病院等の雇用状況、年金受給手続き、アメリカでの事例、そしてタートルの活動状況等について話が交わされた。誰もがこのような場を待ち望んでおり、タートルの会への期待を強く感じさせる話であったと思う。
 東北には、視覚障害者リハビリテーション施設は少ない。ましてや中途で視覚障害となった者が仕事の継続ができると考える人は、そう多くはない。しかしながら、今回の参加者には、その先鞭を担って活躍されている方の姿が多く見られた。盲学校の先生、職業センターのカウンセラー、視覚障害当事者と関係者、支援者、学生、そして地域的にも青森、岩手、宮城、福島と広がっている。このことから、新しい槌音が東北にも響きそうな予感を持ったのは私だけではないと思う。
 この地域交流会の準備は、4カ月前から開始された。なにしろ初めての地域開催である。何をどこまで準備すればいいのか、皆目見当がつかない。会場の確保、関係機関への案内、開催の広報などのすべての作業が一から考えていかなければならなかった。
 とにかく準備は進めなければならない。まず事務局との連絡には、多くの方々の意見を求めやすいメーリングリストを使うことにした。そのことで準備の過程が公開され、たくさんの方々から意見をいただいたことから、不明な点が解決できた。事務局と現地の役割分担も、その過程のなかで徐々に明確になってきた。メーリングリストの参加者が、仙台の知人に協力を依頼してくれ、その方々にお手伝いをいただいたことが大きな力となった。
 広報にあたっては、仙台の視覚障害者協会をはじめ、多くの方々にご協力をいただいた。それでも何の会にも所属していない在宅の方々に、どれだけ周知できたか不安が残る。やはりこのような会が開催されるにあたっては、その開催を誰もが知り、その参加の有無を自ら選択できてはじめて意味を持つものだと思う。会があることを知らない方がいたとすれば、それはあまりにも残念である。
 準備が十分とはいかず、参加者の皆様には行き届かない点が多かったことをお詫びするとともに、開催にあたりご協力をいただいた方々にこの場を借りて改めて感謝申し上げる。
 今回集まった方からは、ぜひ仙台でこのような集まりを続けていきたい、という声も挙がっている。支援にあたっては、地域に密着したキメ細かな対応が必要となる。だからこそこの交流会を契機として、それぞれの声を繋ぎ、大きな輪となって広がることが望まれる。
 また、仙台がスタートとなり、今後各地で地域交流会が開催され、タートルの支援が全国に広がることを期待している。その動きが社会を包み、中途視覚障害者が当然の如く仕事の継続ができるようになって初めて、仙台交流会が成功であったと振り返ることができるのかもしれない。
 新しい息吹はようやく芽生えたばかりである。東北の明日にご期待いただきたい。

(タートルの会幹事 金子光宏)

◇会合日誌◇


◇お知らせ◇

 2000年1月22日(土)午後2時〜
 講演:「職業継続と歩行」
 講師:石川充英氏(東京都視覚障害者生活支援センター歩行訓練士)
 場所:日本盲人職能開発センター
 問合せ:03−3351−3208

◇編集後記◇

 本号は少し遅れてしまい、年内に出さなくてはと慌てて原稿を依頼したり、編集や校正をお願いするやらで多くの方にご迷惑を掛けたり、協力をいただきました。
 特に10月の交流会は内容が濃く、別刷りで特集号を発行することにし、そこで、「ネットワーク」の問題に関することだけを特集します。3人の方の「私の職場におけるネットワークの現状」を特集号に詳細に記したいと思います。
 交流会の講演に対する質疑の記録を読みやすく編集すると、たいへん臨場感を味わえるものになるのですが紙面の都合で省かざるを得ないのは残念なことです。
 「タートル」(15号)はテキスト版、テープ版を用意しています。
 連絡は03−3351−3208へどうぞ。 (篠島永一)

『タートル』 (第15号)1999年12月20日発行
中途視覚障害者の復職を考える会
タートルの会
会 長    和 泉 森 太
〒160-0003 東京都新宿区本塩町10-3
社会福祉法人 日本盲人職能開発センター 東京ワークショップ内
電話 03-3351-3208 ファックス 03-3351-3189
郵便振替口座:00130−7−671967
URL=http://www.asahi-net.or.jp/~ae3k-tkgc/turtle/index.html


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